15話 『記憶の塵 三』
「そうか」
炎の前で剣の手入れをしていた村長――サルマンさんに、エンリ村を出ることを言うと、そっけない声が返ってきた。
「長い間、お世話になりました」
「いや、こちらこそ世話になった。必要な物があれば何でも言ってくれ。できる限り力になろう」
「ありがとうございます。……それでは、お忙しいところ失礼しました」
僕が頭を下げて家を出ようとした時、
「待ってくれ――」
サルマンさんは少しの間、僕を見つめてから、
「少し、話し相手になってもらえないか? 剣の手入れはなかなか退屈でな」
「……はい。僕でよければ全然構いませんけれど」
勧められるまま、僕はサルマンさんと斜めに向き合うような椅子に座った。
しばらく、サルマンさんは無言で剣を磨いていたが、
「……君はもうエンリ村に留まることにしたのかと思っていた」
「思ったよりも長く居ちゃいましたね」
「望むなら、このまま居てもいいのだぞ?」
手を止めて、サルマンさんが青い瞳を向けてきた。
「それもいいですけど、やっぱり、もっと色んな場所を見てまわりたいですから」
「そうか……ところで、エンリ村を出ることは既にウスラには伝えているのかね?」
「はい、数刻前に。今のところ、サルマンさんとウスラにだけ伝えてます」
雪も降ってきたし、他のヒトたちに伝えるのは明日にしようかな。小さな村だから、一日あれば充分挨拶して回れるだろう。
「実のところ――」
サルマンさんは再び剣を磨き始めて、
「イリエル君がエンリ村を出ると聞いて、もちろん残念な気持ちもあるが、心の重荷が少し降りたような気持ちもしているのだよ。恥ずかしながらね」
僕は黙ってサルマンさんの言葉に耳を傾けていた。
「こう見えて貴族の端くれだから、他の家との付き合いというものがある。その最たるものが婚姻で、ウスラの相手も既に決まっているのだ。しかし、なんだ……ウスラを見ていると、
「ウスラくらいなら簡単に追い払えますよ?」
僕が冗談めかして言うと、サルマンさんも小さく笑って、
「もちろんだとも。イリエル君の腕はこの一年半で重々承知している……その言い方だと、ウスラはイリエル君の眼中にないということかな?」
「ウスラにはもっといい相手がいますよ」
「はは、そう言ってもらうと正直ありがたいよ」
サルマンさんは目を細めながら、
「暖かくなれば、ウスラは『奪嫁の儀式』に臨む。その後にもしものことがあれば洒落にならないのでな。さすがに、ウスラもそこまで考えなしではないと思うが……イリエル君がそういう気持ちであったのなら、無用な心配だったな」
サルマンさんがこの数月何やら悩んでいたことは知っていた。『声』だけだと思考が複雑すぎて全容は理解できなかったし、そもそも興味が湧かなかったので、わざわざ『聞かなかった』んだけど……こんなことを心配してたのか。
「もし僕もウスラのことが好きだったら、どうするつもりだったんですか?」
「ん?」
サルマンさんは喉を鳴らして、僕へと訝しげな視線を送ってきた。僕はかぶりを振って、
「ちょっと聞いてみただけですよ。そういった感情は全くありませんから」
「ああ、そうかそうか。正直なところ、考えはまとまっていなかったんだが……どうしてもと言うのであれば、許していたのかもしれないな」
意外な答えに、僕はサルマンさんを静かに見つめた。サルマンさんは薄く笑って、
「婚姻してから何かが起こるのが一番マズいからな。その可能性を排除するためには、イリエル君をエンリ村から追い出さなければならない。だが、村人たちはそんなことを許さないよ。それに、そんなことをしてしまっては結局、クレア嬢――ああ、ウスラの婚約者の名前だが、彼女が一番損をすることになる。最初から村人たちに敵視されてしまってはな」
サルマンさんは磨いていた剣を机の上に置いて立ち上がった。
「とはいえ、ここまで来た婚約を簡単に破棄することもできない。現実的には、ウスラは討伐中にでも死んだことにして、イリエル君とどこかに行ってもらうことになっただろう。――まぁ、もしも気が変わることがあれば、早めに言ってもらえるとありがたい。何も言わずにウスラがいなくなると、さすがに困るのでな」
……僕も曖昧な笑顔を浮かべながら椅子から立ち上がった。
もしかして、サルマンさんは僕とウスラの会話を聞いてたんじゃ……とも思っけど、『声』を聞いてみた限り、そういうわけでもないらしい。
サルマンさんは玄関口までついてきて、扉を手ずから開けてくれた。
今は夕方の少し前といった時間だけど、空を雪雲が覆っているせいで外は薄暗い。空からはパラパラと雪が降りてきている。
「それでは、改めて失礼しました」
「ああ。長い話に付き合ってくれてありがとう。雪が降っているが、外套は――」
「真っ直ぐ帰るつもりなので大丈夫です」
「そうか。気をつけてな」
――
冬は農閑期だから、外を出歩いてる村人はあまりいない。うっすらと道に積もった雪にも足跡は疎らだ。
そんな中、僕が進む先には、消えかけの足跡が一つだけ残されていた。
サクサクと僕が雪を踏みしめる音に、向こうは数十メル手前で気づいたらしい。そういう『声』が聞こえた。
「そんなとこに突っ立てたら風邪をひくよ、ウスラ」
背中に声をかけると、ようやくウスラは僕に顔を向けた。
「何してたの?」
ここはエンリ村の入り口。エンリ村から別の村に続く唯一の道が、なだらかな丘に沿って続いている。僕がエンリ村を発つ時にはこの道を通ることになるだろう。
ウスラは決まり悪そうに僕を見つめるだけで何も言わないけど、『声』を聞かなくても何を考えてたのかは想像がつく。
「さっき、サルマンさんにも話してきたよ。エンリ村を出ることを」
「……そうか」
「僕はほとんど忘れてたんだけど、サルマンさんから聞いて思い出してね……ウスラって婚約相手がいるんだったよね」
「……ほとんど忘れてたのか」
ウスラはちょっぴり悲しそうに呟いた。
「ウスラは僕のことが好きなんだよね?」
「――っ。突然なんだよ……」
「よね?」
「……」
ウスラは機嫌悪そうに口を噤んでしまった。いつもの事なので、僕は気にせずに、
「ウスラは婚約相手の子のことをどう思ってるの? あんまり好きじゃないから、僕に目がいった感じなの?」
「……」
「ほら、僕って美人さんだし」
「自分で言うのか」
呆れたようにウスラは言った。
「え、ウスラもそう思わない? ――ほら」
そう言って顔を近づけると、ウスラは頬を赤らめて顔を逸らした。そして、顔を逸らしたまま、
「言っておくが、俺は容姿が整ってるから好きになったわけじゃない。それに、婚約相手が嫌だからなびいたわけでもない。俺は、ただイリエルと一緒にいたいと思っただけだ」
「へー、婚約相手の子が嫌じゃないんだ。ねっ、どんな子なの?」
「どんなって……ほんの少し話しただけだから表面的なことしか分からないが、明るく元気のいい子だ」
ウスラの話し方を見る限り、ウスラの婚約相手さんは悪い子じゃなさそうだ。たぶん、僕がエンリ村に来ることがなければ、問題なく
僕はウスラから少し距離をとって、
「……気が変わった」
ニッコリ笑ってそう言った。
ウスラは困惑したような表情で僕を見てくる。
「もうしばらく、エンリ村にいることにするよ」
「――っ、本当か!」
「嘘をついても仕方ないでしょ」
ウスラは嬉しさに頬を上気させていたが――すぐに、神妙な顔になった。
「『しばらく』ということは、いつかはエンリ村を出て行くつもりってことだよな?」
「そうだね。具体的にいつかは決めてないけど、暖かくなってきたら出ようと思うよ。――ウスラと一緒にね」
僕が最後に続けた言葉に、ウスラは顔を輝かせた。
「それって――」
「でも、一つだけ条件がある」
「……条件?」
「そう、条件」
僕は空から降り落ちる雪の結晶を見つめながら、
「ウスラは暖かくなったら『奪嫁の儀式』っていうのをやるんだよね?」
「そうだが……」
「それじゃあ、『奪嫁の儀式』の時に、ちゃんと相手の子に事情を説明してきてよ」
僕の声は、物音一つない景色に、染み込むように消えていった。
……しばらく無言だったウスラは「だが……」と小さな声で呟いた。僕はその声に被せるようにして、
「『好きな人ができたから、あなたとは結婚できません』って。言えないの?」
「だが、そんなことをしては……」
「相手の家の人が怒っちゃう? 正直貴族のことなんて僕はよく分からないんだけど、たぶんマズいことになりそうだよね」
「分かってるなら、どうして」
「ウスラの気持ちが本当なら、それくらいできるはずだよ。ウスラが僕を選んでくれるなら……僕はウスラが生きている間はウスラの物になってあげる」
――
家の扉を閉めて、
「……ほんと」
僕は何をしたいんだろう。勢いでウスラにあんなことを言っちゃって。あんなの、まるで面倒なヒトの雌みたいじゃないか。
自嘲すると、白い息が唇の隙間から漏れた。
部屋を真っ直ぐ歩いて、奥にある木窓を開ける。一面真っ白で、ヒトは一人も見当たらない。
ヒトだけでなく、冬は植物も動物も眠る季節だ。耳を澄ましてみても、聞こえる『声』は少ない。だから、他の季節と比べて『声』を探すのは容易だ。
ウスラの『声』は、まださっき僕と話していた所に留まっている。
「……もう。いくら頑丈でも、風邪ひいちゃうよ」
とはいえ、ウスラ本人は寒さのことなんてほとんど気になってないらしい。ついさっき僕に言われたことをずっとグルグル考えてるみたいだ。
エンリ村のこと、僕のこと――どちらも、本当に心の底から好いてくれていることが分かる。どちらも大切だからこそ、どちらを選ぶか迷ってるけど……今のところ、やや僕優勢らしい。エンリ村のことよりも、僕と二人でエンリ村を出ていった後のことを考えている時間が長い。
「……ふぅ」
『声』を聞くのを止めて、僕は木窓を閉じた。薄暗い部屋の中を歩いて、僕は部屋の中央あたりの机へと向かった。いつものように一人でに椅子が動く。
僕は椅子の背もたれを撫でながら、
「いつもありがとね。でも、そんなに気を使わなくてもいいんだよ」
僕がそう話しかけると、椅子がカタカタと揺れた。同時に、椅子の僕に対する好意が『声』の形で伝わってくる。
「ねぇ……君も、僕のこと好きだったりするのかな?」
僕の質問に答えるかのように、椅子はやっぱりカタカタと揺れる。まあ、椅子が僕の言葉なんて理解できるはずもないから、単に僕に話しかけられたことに喜んでるだけなんだろう。
僕は椅子に座ってから机の上に腕を組んだ。その腕に左側のほっぺたを乗せて、まぶたを閉じる。
――ウスラに好意を伝えられた時、僕は全く何も感じなかった。
そんなの当然だ。川魚が水を有り難がらないように、当たり前の物をもらっても、嬉しいはずがない。
そして、僕にとっての『水』こそが『好意』だ。
僕の近くにある全ての物は、僕に好意を抱いている――いや、抱かざるを得ない。崇拝の念だったり、親愛の情だったり、そういった好意的な感情を強制される。
例えば僕が子どもを殺しても、数日も経てば、母親は僕の役に立ちたくて堪らなくなっているだろう。意識して力を使えば、一瞬で僕の味方に変えることさえできる。
ウスラの場合、僕に抱いた好意を恋心だと判断したんだろう。華では信仰心として解釈されることが多かったけど……対等な相手だと思われてるせいかもしれない。
まあ、それはそれでウスラの自由だから別にいいんだけど……僕の力で抱く好意は、結局のところ偽物だ。僕が近くにいないと、次第に好意は薄れてゆく。
僕がいなくなって数か月も経てば、ウスラの気持ちは霧散してしまうだろうし、数年も経てば僕のことなんてほとんど全部忘れてしまうんだろう……そう思うと、ほんの少しイラッとした。
別にウスラの気持ちに応える気なんてないけども、そんなすぐに忘れられるほど軽い扱いをされるのは心外だ。忘れられるくらいなら、悪い気持ちだとしても覚えられてる方がスッキリする。
「……ほんと、我ながら意地が悪いけど」
呟きながら机から身を起こす。
今のウスラの心は、僕の力の影響で歪められている。だから、エンリ村か僕かって選択に迷ってるけど、僕の力がなければ当然エンリ村の方を選ぶだろう。
でも、ウスラには心を歪められてた自覚なんてない。僕にあんなことを言っておいて、数月と経たずに自分の気持ちが変わってしまったように思うはずだ。その時、ウスラは確実に僕に対して負い目を感じる。だって、ウスラはああいう性格だから。
そこへ、僕が言ってやるんだ。「やっぱり、着いてきてくれないんだね」って。
ウスラは僕のことを一生忘れないだろう。罪悪感だとか、自己嫌悪だとか、そういった気持ちは僕の力と関係ないから、僕がいなくなっても永遠にウスラの心に刻まれる。
――細く息をはいて、僕は自分の胸に両手を添えた。
やったことはないけど、たぶん上手くいくと思う。何となくそんな感じがする。
僕の全身に散らばってる、小さな小さな魔石の粒子。それらを少しずつ胸の中央へと引き寄せていく。最初は焦ったいほどにゆっくりと、粒子が集まるほどにそれに引き寄せられるようにして粒子が集まってくる。
薄暗い部屋の中に、青色の光が灯る。
手のひらが暖かい。
いつしか、僕の両手には青色の魔石が握られていた。ツルツルとした、一点の曇りもない球体だ。球の中では、極限まで濃縮された僕の力が渦巻いているのが見える。
「……ふぅ」
魔石を机の上に置いて、僕は軽く息をついた。
できた。思ったよりも難しくはなかった……けど。
僕はコツンと机の上の魔石を指先で突いた。
「これが『僕』かぁ。やってみれば、こんなに小さくなれるんだ」
ちょうど手のひらに乗せられるくらいの大きさ。人格は僕の体に残してるけど、力のほとんど全部は球の方に移してるから、どっちが本体かというと球の方だろう。
僕は部屋の中を見回して、入り口の近くの壁に立てかけてある剣に目を留めた。椅子から立ち上がって、剣を拾って机の傍まで戻ってくる。
この剣は村長――サルマンさんから貰ったものだ。僕がエンリ村に馴染んで半年ほどした時に渡してくれた。ちょうどエンリ村に来ていた旅商人から買い付けてくれた物らしい。
僕は鞘から剣を引き抜いて、その剣先を魔石にあてがった。すると――魔石が吸い込まれるようにして剣の中へと消えた。
ボンヤリと青く光を発し始めた剣を鞘の中に収めた僕は……苦笑いをして、乱れたままだった椅子を机のそばに戻した。
○○○
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