17話 『子ども最後の日』
コップに水を注ぐ。横から水面を確認しながら、ギリギリまで。淵から数ミリ水面が盛り上がったところで、俺は水を注ぐのを止めた。
水差しを机の上に置き……コップの水面に、近くの木から千切ってきた青葉を浮かべる。
水がほんの少しこぼれ、水面に波紋が発生する。
この方法は慎重さが必要だ。わずかな変化も見逃してはいけない。
俺は波紋が完全に消えるのを確認して、コップに直接触れないようにしながら両手を添えた。
目を閉じ、自分の内側に集中する。身体の中心、そこに温かい何かが……あるような気がしないでもない。
内なる力を、ゆっくりと移動させるイメージ。
体幹から――肩――腕――手首――手のひら。
おぼろな感覚を信じて、手のひらからエネルギーを放出する。
しばらくして……俺はゆっくりと両目を開いた。
コップを確認する。
「おぉっ!!」
成功だ!
水面には小さな波紋が生まれている。それ以外には変化はない。
……ということは。たしか、操作――
「兄さん、入りますよ?」
ノックの音に続けて、イーナの声が聞こえた。
我に返った俺が反射的に返事をすると、扉が開く。
イーナは部屋の中に入ってきて……俺と、机の上に置かれたコップに視線を送った。
「……何をしてるんですか?」
形のいい両眉を寄せながら、イーナは俺の机のすぐ傍まで歩いてきた。
イーナが歩くのに合わせて、コップの水面には波紋が生まれている。
「イーナ、帰ってきたなら、帰りましたでも何でもいいから呼びかけをだな……」
「帰りましたって言っても、返事をしてくれなかったのは誰でしょうか? 反応がないのは、ちょっと寂しいんですよ」
どうやら俺は、イーナの声も聞こえないほど集中していたらしい。
「……んっと。イーナ、思ったより帰ってくるのが早かったな。母上はどうしたんだ?」
父上は元ロンデルさん宅――今は物置兼来客用空き家となっている家に接待に行っていて、母上とイーナは食材を集めに出ていたはずだ。
しばらく誰も帰らないと思ってたから、こんな馬鹿なことをしてたのに……。
「あっ、そうでした!」
イーナは手を一つ叩くと、手に持っていた物を両手で俺に差し出してきた。
手紙だ。それも二つ。
「お母さんと一緒に、神官様へちょっとした甘味などを届けに行ってたんですが、その途中で行商の方から受け取ったんです。
お母さんが自分だけで大丈夫と言ってくれたので、私だけ一足先に帰って来ちゃいました」
イーナの話を聞きながら、俺は手紙を受け取った。
片方には心当たりがあって……予想通り『ラインハルト・シエタ』という名前が裏側に書かれていた。
そして、もう片方には――
「おっ……」
『ミーシャ・シエタ』という名前を見て、俺は声を漏らしていた。
――
シエタ領で『奪嫁の儀式』を終えてから二年とちょっと。俺は数ヶ月前に十五歳となっていた。
その間の生活は大して変化することもなく、相変わらず三日に一回討伐に参加して、残りの時間は自主訓練とか、自主学習とか、そんな感じだ。
一つだけ、変わったことを強いて挙げるなら、ラインハルトと文通するようになったことくらいか。
数ヶ月に一回くらいの頻度で、行商人を介して俺に届く。
ラインハルトの第一印象は、イーナに迫ってくるロリコンでしかなかったが、『奪嫁の儀式』の後にちょっと話をしたりして、その印象は変わった。
――頭も悪くないし、根は良い奴。
まあ、ロリコンではあったけどな。ラインハルトの理想は、十歳時のイーナらしい。前に、手紙の中でそう言っていた。
そんなことを手紙で書いてることから分かる通り、文通する内容はしょうもないことが多い。
ほとんど愚痴だ。でも、これが案外勉強になる。
ラインハルトの立場は数年後の俺と同じ。愚痴の中に、有用なアドバイスなんかがシレっと紛れ込んでいるのは、わざとなのか、どうなのか……。
もちろん、全部が全部勉強になるってわけじゃないけどな。特に、奥さんに関する愚痴はただの愚痴だと思う。
用事があってシエタ領に行った父上の話を聞いたところによると、ラインハルトの奥さんは、キリッとした美人らしい。
母上を奥さんにしてる父上が言うことだから、本当に美人なんだろう。
だが、ラインハルトは不満たらたら。年増だの小煩いだの年増だの、結婚から二年経った今でも、奥さんに関する愚痴をよく書いてくる。
まあ、今回の手紙も似たような物だろう。だが、こっちは……。
「どうして今さらになって、突然手紙なんて書いてきたんでしょうかねぇ? これまで、一回も送ってきたことなんてなかったのに。ミーシャさんってば」
いつの間にか俺のすぐ隣に立っていたイーナが、そんなことを言ってきた。……言葉の端々に、棘がある。
来月には、ミーシャさんが家に来る予定なんだけど……やっぱり、イーナはミーシャさんのことが気に食わないのかな?
ミーシャさんのことを話題に出すたびに、明らかに不機嫌になるし。
嫁小姑戦争の予感に、今から胃が痛くなるような気がしたが……俺には希望の星が残っている。
我が家には母上様がいらっしゃる。
俺が役に立たなくても……まぁ、何とかしてくれる、んじゃないかな?
俺は遠い目をしつつ、イーナの質問に答えた。
「……前々回に送った手紙の返事かもな」
「えっ! ……兄さんから、手紙を?」
「ああ。ラインハルトが、ミーシャに手紙を書いたらどうだってうるさかったからな。思い切って書いてみた」
『奪嫁の儀式』の後、ラインハルトとは仲良くなったけど、逆にミーシャさんとはギクシャクしてしまった。
そりゃそうだろう。自分の兄を完膚なきまでにボコボコにする一部始終をミーシャさんは見てたわけだし。
シエタ領の村人たちと同様、俺にドン引きしていてもおかしくない。
そういうわけで、手紙を無視されることも予想してたから……こうやって、返事が返ってきたこと自体は嬉しい。
でも、同じくらい中身を見るのが恐ろしい。
もし、「アルさんのことなんて大嫌いです」とか書いてあったら、泣ける。
いやいや、ミーシャさんはそんな酷い子じゃない。
見た目はツリ目で怖いけど、内面は優しい女の子だ。きっと、俺の心を和ませるようなことを、書いてくれてるに違いない。
「……兄さん、顔がにやけてますよ」
イーナがジト目を向けてくる。
俺は顔を引き締めて、ミーシャさんからの手紙を見つめた。
……よし、怖くてもミーシャさんの手紙をちゃんと読むぞ。
読もうと読むまいと、もうすぐ俺とミーシャさんは夫婦になるんだし。手紙を読むくらいで緊張しててどうする。
……もっと緊張するようなイベントも、後に控えてるんだからな。
やっと訪れる甘酸っぱい日々に胸を躍らせつつ、俺はラインハルトからの手紙を開封した。
……まあ、ね? 食前酒的な? 普段から慣れている方から読み始めるのが自然だよな。
決して、ビビったわけじゃない。
封筒の中から手紙を取り出す。今回は少なめ。いつもなら二、三枚の便箋が入っているが、封筒に入っていたのは一枚だけだった。
手紙を開こうとすると、イーナが身体を密着させてきた。
ラインハルトの手紙の内容が気になるのか、頭を俺に寄せてくる。
まあ別に、隠すような内容をやり取りしてるわけじゃないし……見せてもいいか。
俺はそんな軽い気持ちで、手紙を開いた。
そして、そこに並んでいた文字列を認識した。
――『子どもができた。』――
最初の一行に、そんなことが書いてあった。
……何語だ?
あいにくと、俺が知らない言語のようだ。古代朝国語あたりかもしれない。
「わあっ! ラインハルトさん、子供ができたんですね! えーとっ……男の子で、名前はオルトですか。
たしか奥さんの名前がオルヴィアでしたから、自分の名前と組み合わせたんですねー!」
イーナが興奮した声を上げた。
虫のごとく嫌っているラインハルトの子供であっても、イーナにとって、赤ん坊はあまねく可愛いものらしい。
へえ、そうか。ラインハルトに子ど――
「きゃッ! 兄さん、どうしたんですか!」
イーナの小さな悲鳴で、俺は我に返った。
「ああ、悪い。ちょっと動揺してな……」
自分でも分かるくらい震える声でそう言って、俺は左右に破いてしまった手紙を真ん中で繋げた。
もう一度、今度は冷静にラインハルトの手紙を読んでみる。
読んでみて……。
たしかにそこには、ラインハルトと奥さんの間に、子どもが生まれたことが記述してあった。元気な男の子らしい。
……赤ん坊は突然できるものではない。やることやって、十ヶ月くらいの妊娠を経てから、やっと生まれてくるのだ。
ついこの間に出産ということは、妊娠が発覚したのは遅くとも数ヶ月前。
その間にも何通か手紙のやり取りをしていたが、子供の子の字も出てこなかった。
書いてあったのは、家の年増がうるさいだの、領地経営が面倒だの、ほぼほぼ愚痴ばかり。
つまり、ラインハルトの奴は……口では年増と言っときながら、ちゃっかり抑えるべきところは抑えていたというわけだ。美人な奥さんとな!
そこまで考えが至って、俺は軽いめまいを感じた。ちょうど手が柔らかい何かに当たったので、それを支えにした。
めまいが収まるのを待って、自分の状況を確認する。
目の前にはイーナの顔がドアップ。俺の右手はイーナの肩を掴んでいた。
「兄さん、大丈夫ですか? はいっ、ここに座ってください!」
心配そうな顔をしたイーナが、椅子を俺に向けてくる。
体調が依然として悪いのは事実なので、ありがたく座らせてもらう。
イーナが水の入ったコップを差し出してきたので、受け取った。
……あれ? これ、さっき俺が使ってたコップだよな?
なみなみ水を注いでたはずなのに、水が減っている。
よく見ると、唇の跡が付いていた。
……なるほど。こぼれないように、イーナが少し飲んだんだな。
このまま普通に飲んだら、ちょうどイーナの唇の跡に口を付けてしまうところだった。
たが、そこはエチケット。かといって、意識してると思われるのも恥ずかしい――という我ながら女々しい考えで、俺は素知らぬ顔でコップを回転させた。
冷たい水が喉の内側を伝う感触で、少しだけ気分が落ち着く。
「もう一杯飲みますか?」
イーナが水差しを持ちながら聞いてきたので、首を横に振って断る。
すると、イーナは残念そうな顔をして、水差しを机の上に置いた。
俺も二つに破れたラインハルトの手紙を机に置くと、今度は左手に持っていた手紙を自分の眼前に持ってきた。
それを開けようとして。
「ごめん、イーナ。ミーシャさんの手紙は、一人で見たいんだ」
再び手紙を覗き込もうとしたイーナに、俺はそう言った。
イーナは唇をちょっとだけ尖らせたが、何も言わずに俺の部屋から出て行ってくれた。
ちゃんと扉が閉まったのを確認して、机の中からナイフを取り出す。
ラインハルトからの手紙は素手で適当に開けたが、ミーシャさんからの手紙はナイフを使って丁寧に開封する。
中には、一枚の便箋。
緊張しながら広げると、丸っこい文字で文章が綴られていた。
俺からの手紙が嬉しかったこと。
近日に迫った嫁入りに緊張しているということ。
けれど、俺に会うのが楽しみだということ。
ミーシャさんからの手紙を繰り返し三度ほど読み……丁寧に、手紙を封筒の中に戻した。
机の端には、薄く
埃を手で軽く払ってから、その上にミーシャさんからの手紙を置く。
薄暗い部屋には、窓から入り込む夏虫の声が響いていた。
○○○
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