15話 『結婚挨拶』
朝日がやっと昇ってきた。窓から差し込む光が、空中で漂う塵を照らす。
薄暗い部屋の中で、俺は机に向かっていた。目の前にあるのは、一冊の古ぼけた本だ。
とてもじゃないけど長時間手に持って読めるような重さではなく、俺はそれを机に置いて読んでいた。
一定時間ごとに、ページをめくる音だけが部屋の中に響く。経年劣化で所々欠けているような紙なので、破れてしまわないよう、細心の注意を払う。
薄くなったインクで紙の上に描かれているのは、統一感のないイラストだ。
数えきれないほどの触手が生えた、奇妙な見た目のもの。色鮮やかな羽根を持つ蝶々。一見、普通の人間が描かれているもの。
どれも、かつて実際に出現した魔物だ。人類に甚大な影響を及ぼした魔物も多い。
見開き二ページに大きく魔物のイラストが書かれていて、隙間には、出現した年代、場所、被害などが詳細に記述されている。
それに加えて、様々な言語、複数の筆跡で、所々に注釈が書き入れられている。
この本の歴代の所有者たちが、各々新たに知ったことを加えてきたものだ。
俺が読めるのは、教会語のみ。その言語で書かれている分量だけでも膨大だ。
俺はあるページで手を止めた。
このページにも、当然のように多数の書き込みがある。
中でも、一際新しいインクで書かれたもの。その上に、俺は手のひらを滑らせた。
『教会暦二〇一九年 ハインエル王国エンリ領北部の森林内にて目撃の疑い』
漆黒の狼のイラストが描かれているその項に、俺が書き加えたものだ。
この二ページだけは、できる限りの力を使って解読したので、半分以上は何が書かれているか分かっている。
一番古い情報は、約千年前。大陸東部、今の
突如として首都の付近に出没したこの魔物のせいで、一時大混乱が起こったらしい。
だが、一日経つと、魔物は何もせず立ち去ったため、死亡人数はゼロ。
一体何をしたかったのかと、頭を捻っていた都の住民たちは、突然襲った大きな揺れに驚愕することになった。
巨大地震が起こったのだ。
大きな被害があったが、もともと魔物の出没により緊張していた都の人々の初行動は早く、比較的被害は小さく済んだと言われている。
鴻の人々は、この魔物が災害を予言してくれたのだと信じ、崇拝の対象とした。
長き時が流れた今でも、この逸話は『
華で使われている銀貨に、この黒狼の姿が刻まれているとの注釈が、比較的新しい字で書き加えられていた。
作者がこの本を書いたのは、古くても数百年前のこと。つまりは伝承を記したものなので、信憑性は定かではない。
だが、俺の持っている手がかりはこれだけ。これが間違っていようが、この情報を信じるしかないのだ。
――扉がノックされる。
返事をすると、扉が開かれた。
「兄さん、そろそろ出発するそうです」
「うん、分かった。すぐ行く」
イーナが朝から俺の家にいて、『兄さん』と俺のことを呼んでくる。
そんなことにも既に慣れてしまって、俺は自然に返事をした。
おめかしをした姿のイーナは、俺の部屋に入ってきた。
机の傍に立って、俺が読んでいる本を覗き込む。
「またこの本読んでたんですか? 面白いです?」
俺は無言で、分厚い辞書のような本を閉じた。
表紙にはもともと金字で題名が書かれていたらしいけど、そのほとんどが取れてしまっていて、今では題名も分からない。
「面白くはないよ」
椅子から立ち上がりながらイーナの質問に答える。
俺の服装も、イーナと同じように、いつもより小洒落ている。
「なら、どうして何度も読んでるんですか? この間の誕生日にお父さんから貰った時も、何日かずっと読んでましたし」
イーナの質問に、俺は少し考え込んでしまった。
こんなものを読んでも、具体的に何をしたらいいのか、俺には分からない。
それなのに何度も何度も――それこそ、書いてある内容なんてとっくの昔に暗記しているのに、繰り返し読んでしまう。
どうして、俺はこんなことをしてるのだろう?
「……忘れないため」
口に出して言ってみると、ストンと
この世界で俺だけが覚えてる、あの人のことを忘れてしまわないため。
俺の答えに、イーナはさらに困惑した表情を浮かべた。
……その様子に若干の寂しさを感じながら、俺は本を机の端っこに片付けた。
○○○
ロンデルさんがいなくなってから早半年。冬はとっくの昔に通り過ぎ、最近は夏の足音が聞こえてきた。
あの日を境に、魔物の数は激減した。一回の討伐で、数匹の魔物に遭遇する程度になった。
それでも昔よりかは多いが、一時期とは比べようもない。俺と父上含め、討伐隊のメンバーはすっかり暇になってしまった。
そんな状況になったことで、俺が半ば忘れていたイベントを前倒しで消化することに決定した。
俺の婚約者――シエタ領の娘さんとの初顔合わせである。
というわけで、現在。家族一同で、
俺、父上、母上、イーナの四人だ。
俺が長男。イーナが長女。
どうしてかは分からないけど、ロンデルさんの存在が村人全員の頭から消えると同時に、イーナは俺の妹になっていた。
曰く、イーナは捨て子だったらしい。まだ乳幼児だったイーナをたまたま母上が拾い、家の子供として育てることにしたんだとか。
これらの諸々を理解してやっと、俺がイーナに『俺はお前の兄じゃない』と言ったことに対して、母上が激怒していた心情が理解できた。
この状況に、最初は混乱してたけど……今では、イーナが俺を『兄さん』と呼んでくるのにも慣れた。
イーナが家族の一員として、幌馬車に乗っているのにも、違和感はない。
だけど……。
「兄さん、相手の女の人って、どんな方なんでしょうか?」
すぐ隣に座っているイーナが、そんなことを聞いてきた。
イーナと俺の間には、握りこぶし一つさえ入る隙間がない。
これが、イーナの俺に対する通常の距離感だ。この距離感には、いつまで経っても慣れる気がしない。
だけど、イーナの認識では、これまで十年以上同じように接してるわけだから……突然「離れろ!」なんて言うわけにもいかないのだ。
距離を取ろうとしただけで、悲しそうな顔をするのだ。そんなことを言ったら、泣いてしまうかもしれない。
……まあ、俺は俺で、別に嫌ってわけじゃないし。
俺は、微妙にドギマギしながら、イーナの質問に答える。
「うーん、俺も会うのは今日が初めてだから。会ってみないことには分からないな」
というか、今日はそれを見るために、シエタ領まで行くんだしな。
高望みはしないから、変な人ではないことだけを祈っている。まあ、どれだけ嫌だと泣き叫ぼうが、結婚することは確定してるけど。
「そうなんですか。つまり……兄さんは、その人のことを好いてるわけではない?」
「まあ、そうだな」
俺がそう答えると、イーナはちょっと身体を傾けて、俺に寄りかかってきた。
「兄さんは私の兄さんです。他の人にはあげません」
イーナが、小さな声でそんなことを呟いてくる。
ロンデルさんがいた時はファザコンだったイーナは、ロンデルさんがいなくなったらブラコンにクラスチェンジした。
俺にすごい甘えてくる。
正直、止めてほしい。反応に困る。
例えば今みたいな時に、何て答えるのが正解なのか、全然分からない。
母上と目が合うと、苦笑していた。父上は幌の外。御者さんの隣に座って、魔物なんかの警戒をしている。
助け船はなさそうだ。
俺はイーナの綺麗な黒髪を撫でて、お茶を濁すことにした。
――
シエタ領は隣だと言っても、村自体がまばらなので、そこそこ距離は離れている。
それに加えて、幌馬車は車と比べると、信じられないほどゆっくりだ。
日の出とともにエンリ村を出発して、到着したのは昼前だった。
雲一つない快晴の空の下、エンリ村と比べて心持ち大きな村が見えてくる。
村の入り口には、村長が出迎えに来てくれていた。
馬車から降り、村長に挨拶。
村長は、父上の少し上の年代のはずだ。小太りなせいで老けて見える。痩せたら、顔はいいのかもしれない。
村長の案内で村長宅に到着し、家の中に入る。
こちらは、俺の家よりかなり大きい。
椅子を八脚並べても、余裕がある大きさの机。
机の上には、こっちの世界基準での豪勢な食事が並んでいて、そこから立ち上る良い匂いが、部屋の中に充満していた。
同じ地方騎士のはずなのに……これが格差というやつか。
部屋の隅に置かれている、謎のオブジェに目を向けながら、俺は思った。
巨大な机の片側には、すでに三人の人物が座っていた。
村長の奥さんと思われる、そこそこ美人の女の人。
長男と思われる、短い茶髪のマッチョ。
俺と同じくらいの年頃の女の子。
最後が、俺の婚約者だろう。
普通に美人さんだ。茶色の髪の毛を、背中まで伸ばしている。
……だけど。
失礼にならない程度に目を向けながら、俺は思った。
ちょっと、気が強そうだ。将来は、尻に敷かれてしまうかもしれない。
――
俺が想定してたのは、「娘さんを下さい!」っていうお腹の痛くなる展開だった。
だが、そんなことは全く無く、和やかな空気が食卓には流れていた。
こうやって無難な会話をしているだけでも、俺の婚約者――ミーシャ・シエタさんがどんな人なのか、幾らか情報を得ることができた。
うん、普通の子みたいだ。
第一印象では怖そうだったけど、どっちかというとシャイな性格。
趣味は料理らしく、机に並んでる料理の一部も、ミーシャさんが作ったものらしい。
これは将来のご飯に期待がかかる。
特別気が合うわけではないけど、ひとまず夫婦としてやっていけそうで一安心だ。
……ただ、唯一の問題は。
「――僕が剣を振った瞬間、飛んだね。魔物の首が。我ながら、あの時の剣捌きは見事だったと思うよ! イーナちゃんにも見せたかったなぁ……」
茶髪を右手で撫でながら、マシンガンのようにイーナに話しかけているマッチョがいた。
椅子を勝手に移動させて、イーナの右隣を占領している。
このマッチョは、シエタ家の長男。名前をラインハルトと言うらしい。
無駄にかっこいい名前なのが癪に障る。
ついこの間十五歳になったばかりで、『儀式』を終えると同時に父親の地位を引き継いで当主となるらしい。
この辺りで一番の剣の腕を持っているらしい。
年頃の女子は全員ラインハルトに夢中で、毎日のように愛を告白されているらしい。
全部『らしい』なのは、ラインハルトがイーナに話しかけているのを、俺が横から聞いて得た情報だからだ。
最初の方はイーナも相槌を打っていたが、今では全く反応も返さず、黙々とご飯を食べている。
そんな相手にずっと話しかけられるメンタルの強さについては、素直にラインハルトのことを尊敬する。
だけど、時と場所と、相手の年齢を考えろと一言モノ申したい。
……口に出しては言えないけどな。
子供の粗相は親が注意するもの、という考え方がこの国では一般的だ。
だから、俺が口を出したら角が立つ。
さっさと向こうの親父さんが注意してくれたらいいんだけど……。
「――なので王都の方は今、大混乱らしいですな。この辺りはあまり影響が出ていませんが、隣の直轄領は――」
まるで、息子のことが見えていないかのように振舞っている。
向こうの村長さんも、息子の扱いに困ってるのだろうか?
奥さんは母上との会話に夢中だし……。
こんな状況がかれこれ一刻も続いていることに、流石にイーナも、うんざりしたらしい。
手に持っていた食器を皿の上に置くと、金属音が部屋に響いた。
「あれ、イーナちゃんどうしたの?
ラインハルトは、いかにもモテる男が言いそうな台詞を吐いた。
イーナはその言葉に、ピクリと形のいい眉を動かしたが、スルーすることにしたらしい。
「ラインハルトさんは、この辺りで一番の剣の腕前なのですか?」
まともにイーナが反応してくれたのが嬉しかったのか、ラインハルトはパッと表情を明るくした。
唾を飛ばしながら、早口で話しはじめる。
「うん、そうだね! この辺りの奴らなんて、僕の足元にも及ばないよ!
僕はこんな田舎に納まりきる男じゃないんだ。出世間違いなし!
僕の活躍を聞いた中央騎士団から、そのうちお呼びがかかるはずだよ!」
イーナは、机の上に置いてあった布を、無言で手に取った。
それを一度広げ、綺麗な面を外側にして畳みなおすと、ゆっくりと顔を拭く。
布を机の上に置いて、代わりにコップを手に取る。
水を一口。
コクリと、イーナが水を飲み込む音が、小さく聞こえた。
「兄さんの方が、百倍強いです」
冷え切った声でそう言うと、イーナは俺の方を見てきた。
つられて、ラインハルトが俺を見る。
「――ぷッ」
ラインハルトは、おかしそうに笑った。
「ははは! イーナちゃんは冗談も面白いね! 悪いけど、こんな貧弱そうなのが、僕より強いはずないじゃないか!」
そう言うと、ラインハルトは右腕を持ち上げ、服をまくった。
腕を直角に曲げ、「フンッ!」と鼻息を噴いた瞬間、力こぶが膨れ上がる。
……おお。すごい筋肉だ。これは、素直にすごいと思う。
「えっと……君、名前は何だったっけ?」
ラインハルトが俺に聞いてくる。
「……アル・エンリです」
「アル君の筋肉を、イーナちゃんに見せてあげてくれないか?」
当然のことのように、ラインハルトは真顔で言った。
「いえ、遠慮しておきます」
「いやいや、遠慮なんてしちゃいけないよ。そんなことじゃ、イーナちゃんが納得してくれないだろ!」
ラインハルトは立ち上がって、俺に近付いてきた。
「いえ、いいですって!」
「右腕と左腕、どっちがいい?」
「兄さん! 差を見せつけてください!」
抵抗する俺の腕をつかみながら、俺がどちらの上腕二頭筋自慢かをラインハルトは聞いてくる。
その後ろで、なぜか俺が勝つと思っているイーナが、目を輝かせている。
筋力では敵わない。俺が半ば諦めかけていたところで――
「ラインハルト!」
バタンと、大きな音がした。
向こうの村長さんが立ち上がっていて、椅子が床に転がっている。
「迷惑をかけるのはやめなさい!」
「黙っててね」
村長さんが至極真っ当なことを言ってくれたのに、ピシャリとラインハルトが否定した。
睨み合うラインハルトと村長さんを黙って眺めていると、突然ラインハルトの表情が変わった。
「そうだ! 僕、この間十五になったよね。『奪嫁の儀式』、僕にやらせてよ!」
『奪嫁の儀式』とは、大昔に王子が他国の姫を剣で手に入れた逸話から、王国の貴族たちが婚姻の際に行う儀式だ。
儀式は村人全員に見られる中行われ、婿のお披露目も兼ねている。
もともとの逸話では、ガチの一騎打ちだったが、今ではただの形式的な儀式だ。
嫁の属する家の当主と婿が何度か剣を交えて、最後に当主が「やーらーれーたー」とやって終わりだ。
「なっ、まだお前は当主ではないだろう。認められん!」
当然のことながら、村長さんは拒否した。
ラインハルトはイラついた顔をして、歩き出そうとした。それを見た村長さんの表情が強張る。
「僕は、いいですよ」
「――だ、そうだけど」
足を止めたラインハルトが、いい笑顔を村長さんに向けた。村長さんは不安そうな表情で俺に視線を向けてくる。
村長の瞳をまっすぐ見つめながら、力強く頷き返すと――村長さんは、余計に不安そうな表情になった。
「……駄目だ。駄目に決まっているだろう。ミーシャの婿になる相手に、怪我をさせるわけにはいかん」
「大丈夫だって、怪我なんてさせるわけないでしょ?」
「さてな。散々無茶してきたお前の言葉を――」
「少々お待ちいただきたい」
村長さんとラインハルトの言い争いに、凛とした声が割り込んだ。
父上は椅子から立ち上がると、俺の肩に手を置いた。
「私の息子は強いですよ。そちらのラインハルト殿の方が強いと、その前提で話が進んでいるのが心外ですな」
父上の言葉に、ラインハルトは露骨に苛立った様子だった。
一方、村長さんは、驚いたような表情を浮かべている。
「ウスラ殿が――中央騎士団から声がかかったあなたが、そこまで言うほど……ですか」
「はい。私などよりも、アルの方が強いですよ。ラインハルト殿の武勇も伝え聞いていますが……どうでしょう。本人たちがやりたいと言うのなら、戦わせてみれば?」
再び村長さんが視線を向けてきたので、俺はもう一度、力強く頷いた。
「……分かった。『奪嫁の儀式』はラインハルトに任せよう」
村長さんがそう言った瞬間、ラインハルトが笑顔を俺に向けてきた。
けれど、さっきまでと違って、嘲笑するような色は薄い。
どちらかというと、ライバル心丸出しの、野生の獣のような笑顔だった。
○○○
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