13話 『誰も知らない 前編』



 額に、ヒンヤリとした物が置かれる感覚がした。


 まぶたを開くと、俺の身体に覆いかぶさるようにしているイーナと目が合った。


「あっ――」


 イーナが小さく声を漏らす。


 ジワリと、でっかい目の端に、水が溜まった。


 涙が俺の頬にこぼれ落ちると同時に、イーナも俺の上に落ちてきた。


「兄さん!」


 叫びながら、俺の胸元に顔を擦り付けてくる。


 服の、胸の辺りが、徐々に湿っていく。


 身体に伝わる全ての感触が……柔らかくて、温かい。


 追い打ちとばかりに、すぐ目の前にあるイーナの黒髪から、甘いような、何とも言えない匂いが漂ってくる。


 相手はまだ九歳の少女。とはいえ絶世の美少女だ。


 しかも、いつもは微妙に距離を置かれていたのに、ここにきて突然の至近距離。


 思わず、イーナを抱きしめたい衝動に駆られたが……その誘惑に打ち勝つことができたのは、イーナが俺のことを、本気で心配してくれていたと分かるからだ。


 状況が全く分かっていないが、イーナの身体が微妙に震えていて、俺の身体に縋り付いているところを見ると、生死の間でも彷徨っていたのかもしれない。


 いや、命の危機に瀕した記憶は、全く無いんだけど。


 最後に覚えてるのは、北の森で……ひょっとして、あの後凍死しかけたとか?


 ……うん。


 あり得る、かも。


 だとしたら、かなり格好悪いな。


 せっかく魔物を倒したのに凍死って――っ、そうだ。


 芋づる式に、最後の光景が頭に蘇る。


 魔物を倒して、俺も倒れて――他の人はどうなった?


 ロンデルさんも、父上も、他の討伐隊の面々も無事なのか?


 今すぐにでも知りたいけど、今のイーナは、事情を聞けるような状態じゃない。


 おそるおそるイーナの頭を撫でたりしつつ、途方に暮れていると――ガチャリと、扉の開く音がした。


 母上だ。


 母上も、数日ぶりに目を覚ました俺を見て、ポロポロと涙を流すのかと思っていたら。


「あら、アル。目が覚めたのね! ちょうど昼食ができたところなの。お腹が空いてるでしょうから、早くいらっしゃい」


 普段と何ら変わらない表情でそう言うと、母上は俺の部屋から出て行ってしまった。


 パタンと、扉が閉められる。


「……イーナ」


 黒い髪をポンポンと叩くと、イーナは俺に抱き着いたままの姿勢で、顔をこちらに向けてきた。


 息がかかるほどの距離からの上目遣い。


 両目には、涙が溜まって潤んでいる。


 完全な不意打ちに、慌ててイーナから顔を逸らす。


 自分の顔が、一気に熱くなるのを感じた。


 イーナは、小さく首を傾げながら言った。


「どうしました、兄さん?」


「……」


「……兄さん?」


 ……はっ、いかんいかん。一瞬我を忘れていた。


 もう少しイーナの年齢が上だったら、取り返しのつかないことになっていたかもしれない。


 俺は、努めて平静を保ちながら言った。


「突然どうしたんだ? 俺のことを兄さんって呼ぶなんて」


 イーナは不思議そうな顔をしている。


「どうしてって……兄さんが私の兄さんだからです」


「いや、俺はイーナの兄じゃないだろ」


 ほぼ反射的にツッコミを入れると、イーナは愕然とした顔をした。


 そのまま、ピシリと固まってしまう。


 ……いやいや、どうしてそんな顔をするんだよ。当たり前のことを言っただけなのに。


 と、自己弁護を入れてみるが……罪悪感がすごい。


 まるで、俺が酷いことを言ってしまったみたいな気持ちになってくる。


 内心オロオロとしながらイーナの反応を待っていると、突然イーナの両目から涙が溢れた。


 ぼろぼろと、俺の頬に、イーナの温かい涙が降り落ちる。


 イーナは、俺を抱きしめていた両腕をバッと離すと、今度はその両手を使って、思いっきり俺の胸を押しのけた。


「兄さんの、バカッ!!」


 イーナは扉にぶつかるようにして、部屋から出て行った。



 ――



 寝床の上であぐらをかいて、ちょっと頭の整理をしてみた。


 ……やっぱり、イーナの行動は意味不明だ。


 俺が寝てる間に、頭でも打ったのかもしれない。


 うだうだ考えても仕方ないし、母上の言っていた通り、お腹も空いている。


 イーナの件を考えるのを止めて、俺は扉を開けて居間へと出た。


 ――そこに般若がいた。


「アルッ! そこに座りなさい!」


 仁王立ちの母上は、床を指差していた。


 母上の腰の辺りには、なぜかイーナがくっついている。


 もう昼食のことしか頭になかった俺は予想外の出来事に固まっていた。


 母上がもう一度「アルッ!」と叫ぶと、反射的に正座をしていた。


「アル、まずはイーナに言わないといけないことがあるんじゃない?」


 母上はぐいっと、自分の陰に隠れているイーナを俺の前に押しやった。


 イーナは挙動不審だ。髪の毛を触りながら、俺の様子をチラチラとうかがっている。


 ……何だ、これ。


 頭が追い付かない。


 「○○ちゃんに言わないといけないことがあるんじゃない?」とは、よく小学校の先生が使う台詞だ。


 主に、子どもからの謝罪を引き出すのに使われる。


 ……つまり、イーナに謝るように要求している?


 何をだ?


 イーナが俺のことを兄と呼ぶ。

 

 俺が否定する。


 イーナが突然泣き出す。


 これのどこに、俺の非があるんだ?


 俺の精神は、とっくに成人を超えている。対して相手は九歳の少女。ここで意地になるのは大人げないってものだ。


 何について謝ればいいのか分かれば、さっさと謝ってしまうのもやぶさかではない。


 だけど、何を謝ってほしいのか分からなければ、どうしようもない。


 ……はあ、もうどうでもいい。


 こちとら寝起きだ。しかも、死闘の後。少しぐらい労わってくれてもいいんじゃないか?


「僕から言うことは特に無いです」


 俺が適当にそう答えた瞬間、イーナは泣きそうな顔になって下を向き、母上は目を見開いた後、キッと、その形を鋭くした。

 

「アルッ、どこ行くの!」


 俺が玄関へ向けて歩くと、後ろから母上が怒鳴ってくる。


「まだ話は――」


 母上が右手首を掴もうとしているのが、見るまでもなく分かった。


 いつも以上に、意識が冴え渡ってるような気がする。まだ戦闘モードを引きずってるのかもしれない。


 ほんのわずかに右手を傾けると、母上の手のひらは宙を切った。


 俺は玄関の扉を開けると、笑顔で振り返りながら言った。


「夕方には帰ってきます」



 ――



 情緒不安定な母上とイーナの相手をする気力はない。


 あの後、俺が眠ってしまった後にどうなったのか、別の人に聞くことにしよう。


 まず、俺が今ここに居るということは、誰かが村まで運んでくれたということだ。


 少なくとも俺には、村まで自力で戻ってきた記憶はない。俺を運んでくれた人に、近いうちに挨拶をしておかないと。


 でもまあ、それはひとまず置いとく。


 それ以上に重要な、最初に確認しておかないといけないことがある。


 これが一番の気がかりだったけど、イーナの様子を見る限り……若干変になってるけど、落ち込んでいたりはしない。


 だから、いるはずだ。


 しばらく家に匿ってもらって、母上とイーナのほとぼりが冷めるのを待つとしよう。


 遠くに目的地が見えてきた。畑の中にポツンとある、木製の家だ。


 ……家の前に誰かがいるようだ。

 

 距離が近づくにつれて、その人が誰か分かってくる。


 俺の足音でも聞こえたのか、その人がこちらを向くと、目が合った。


「おお、アル。目が覚めたのか」


 父上が母上と同じような反応をしてくる。


 やっぱり、何日も寝込んでいた息子に対する反応じゃない。


「あの、父上」


「何だ?」


「僕って、どれくらいの間眠ってました?」


「昨日の昼前からだから、おおかた一日だな」


 一日って……イーナのあの『もう二度と目を覚まさないと言われていた人が、奇跡的に目を覚ました』って感じのリアクションは何だったんだ?


 ため息をつくと、それと一緒に力が抜けるような感じがした。


 なんか、どっと疲れた気がする。こういう時は、ロンデルさんにお茶でも淹れてもらって、ダラダラ過ごすに限る。


「ロンデルさんは中にいますか?」


 開けっ放しのロンデルさんの家の玄関を指差す。ここから見える範囲では誰もいない。


「ロンデル?」


 父上は、少し考え込むような仕草をした。


 残念。外出中らしい。


 もしいるなら「いるぞ」と言って、ロンデルさんの家の中を指差したらいいだけだし。


 だけど、考え込んでいるとこを見るに、今日どこかでロンデルさんを見かけてるんじゃないかな?


 それがどこだったかを思い出してる最中と見た。


 父上は軽く首を捻って、俺の目を見た。


「ロンデルって誰だ?」


 父上は真顔だった。


 俺は、ちょっとだけ呆れつつ、父上の顔を見た。


「……父上、ロンデルさんと喧嘩でもしてるんですか?」


「喧嘩? ……ロンドの事を言ってるのか? 喧嘩なんてしてないぞ」


 ロンドさんは討伐隊の一員だ。


「いえ、ロンドさんじゃなくて、ロンデルさんです」


「だから、ロンデルなんて聞いたこともないぞ。誰かと間違えてるんじゃないのか?」


 父上は眉間に皺を寄せて困惑している。とてもじゃないが、冗談を言ってる雰囲気じゃない。


 ……本気で言ってるのか?


「アル、大丈夫か? てっきり、大した事ないと思ってたんだが……」


 父上が俺の肩に手のひらを置いた。


「一度、一緒に家に帰るか。ちょうど倉庫で良い茶を見つけたところだったし、これを皆で飲もう」


 父上がそう言いながら俺に見せてきたのは、茶色の地色に灰色の模様がついている陶器だった。


 同じく陶器製の蓋を取り、俺に中身を見せてくる。


 独特の落ち着く香り。茶葉の香りだ。


 茶葉には色んな種類があるらしいけど、匂いだけで品目の差を判別できる特技は俺にない。


 それでも、父上が今持ってる陶器が、ロンデルさんのお気に入りの茶葉入れだということは知っている。


 父上がそれを持って、家で茶を飲もうと言っている。


「……駄目ですよ。勝手に持ち出したら、ロンデルさんに怒られますよ」


 父上は、無言で俺の頭に手を乗せた。ゆっくり左右に動かして、撫でてくる。


「よし、行くか!」


 父上は明るい声音で言って、俺がさっき通ってきた道を逆向きに歩いていく。


「……おい、アル。……どうした?」


 一歩も動こうとしない俺に、父上が声をかけてきた。


 その声は、本気で俺を心配している様子で――


 次の瞬間、俺は駆けだしていた。


 ただただ、父上から距離を取りたかった。


 意味の分からない事を言い続ける父上が怖かった。


 いつもと同じ表情でロンデルさんを知らないと言って、いつもと同じ表情で俺のことを心配してくれる。


 そのことが、たまらなく気持ち悪い。


 父上が俺を呼ぶ声が聞こえたが、無視して走り続けた。


 昨日の雪が、道の端っこに少しだけ残っていた。



 ○○○

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