10話 『雪に溶けて 前編』
本格的な冬が来た。
冬と言ってもそんなに厳しいものではない。木桶に水を張って外に一晩置いていたら、みぞれのような氷が水面を漂う……くらいの感じだ。
昨晩は珍しく雪が降ったようで、外に出ると地面には雪が薄っすらと積もっていた。
「雪か。今日は足場が悪くなるから気を付けろ」
隣に立っている父上が、白い息を吐きながら言った。
「そうですね、気を付けます」
俺は頷いてから空を見上げた。灰色の分厚い雲が太陽を遮り、いつもより世界がくすんで見える。
思えば、俺が前世で死んだのも雪の日だった。
こんな日には何か良くないことが起きそうだと感じるのは、俺が雪の日に死んだからなのかもしれない。
――
魔物が急増を始めたのが去年の二月。季節は巡って、もうすぐ一年になる。
魔物の増加はある一定量で止まった。かといって減るわけでもないので相変わらず忙しい。
父上と一緒に北の森の入り口に向かうと、既に討伐隊のメンバーは一人も欠けることなく揃っていた。
「おはよう。ウスラ、アルくん。今日も冷えるね」
ロンデルさんも当然のようにその集団の中にいた。
父上は渋い顔をしながら、ロンデルさんの頭の先からつま先までを観察している。
「……ロンデル、もう病気は治ったのか?」
「うん、もう治ったよ。体調も悪くないし大丈夫。二人には特に負担をかけてごめんね」
確かに、表情やら何やらを俺の目から見る限り……三日も寝込んでたとは思えないほど健康に見える。
前に会った時は顔が真っ白だった。それと比べると大幅な改善だ。
「そうか……体調が悪くなったらいつでも私に言うんだぞ」
父上はロンデルさんの肩を叩くと、他のメンバーにも声をかけに行った。
後には、俺とロンデルさんの二人だけが残される。
「……ロンデルさん、本当に無理しないでくださいね。僕と父上でも何とかなるんですから」
「二人とも心配し過ぎだよ。……でも、そう言ってくれるなら、今日は身体慣らしがてらのんびり魔物の相手をしようかな」
「約束ですよ、無理しないでくださいね」
苦笑を浮かべたロンデルさんが頷くのを確認して、俺はひとまず安心した。ここまで言っとけば、大丈夫だろう。
そのままロンデルさんと適当な雑談を続けていると、少し離れたところで父上が声を張り上げた。
「よし、皆集まれ!」
ワラワラと全員――総勢十三人が半円を描くように集まると、父上は口を開いた。
「雪が多少積もっているが、いつもと同じ道筋を取る。足元に少しだけ意識を割くようにしてくれ。
魔物らしきものの目撃は、昨日もいくつか村人から上がっている。まあいつも通りだ。今日も気を引き締めて取り掛かるぞ!」
――
空を見上げ太陽を探す。雲が分厚いので直接姿を拝むことはできないが、どの辺りにあるかぐらいは見当がつく。
――あった。ちょうど正面。ちょっと首を上に傾けるくらいの高さにあるようだ。
ほとんど無意識に太陽の位置を確認するのは、この世界に生まれてからの習慣だ。
時計なんてないから、太陽の位置と腹のすき具合で大体の時間を判断する必要がある。
出発した時と、今の位置を比較すると……。
「もう二刻か」
独り言のつもりだったけど、少し前を歩いていた父上には聞こえたようだ。
父上は歩く速度を落として、俺の隣に並ぶ。
「前に北の森を周った時、何匹魔物を討伐したか覚えているか?」
記憶を辿って、魔物との戦闘を一つずつ思い出していく。
「……確か、二十三匹だったような」
「私の記憶でも二十と少しだ。二刻もあれば魔物と二、三度は遭遇していたはずだ」
父上が口元に手をやりながら、俺が考えていたのと同じことを言ってくる。
ここ一年の感覚だと、二刻もあれば、魔物と遭遇しない方がおかしい。
もちろん、魔物と遭遇しないことはいいことだ。数ヶ月かけて徐々に魔物が減って、それに応じて遭遇も減るのなら、素直に喜べるだろう。
けれど、三日前は大量の魔物と出会ったのに、今日になってパッタリ姿が無いとなると話は別だ。どこか不気味なものを感じる。
「……たまたま、でしょうか?」
「どうだろうな。そうだったら嬉しいが……」
生憎と俺も父上もそれを本気で信じるほど楽観的な性格をしていない。
常に悪い事態を想定して、これまで討伐に臨んできた。今回もそれは変わらない。
とはいえ、魔物が少ないからとういうだけで、討伐を中断するわけにもいかない。
漠然とした不安だけを抱きながら、より一層警戒を深めて森の中を進んでいると――突然、父上が足を止めた。
俺も、言われるまでもなく同時に立ち止まる。
○●○
俺と父上は、同じ方向に目を向けていた。
視界右奥。森の暗がりの中。
圧倒的な存在感が、そこにあった。
見るまでもなく、自分とは格が違う相手なのだと理解できた。
息をすることも許されず、ただ目を見開いていると――暗がりの中から、そいつはゆったりとした足取りで現れる。
そいつは黒い狼の姿をしていた。
人間なんて丸飲みできそうな大きな顎。岩をも容易に砕くだろう鋭い爪――そういった暴力的な部分以上に、美しさが俺の目を惹きつけた。
漆黒の毛並みは絹のような光沢を放っていて、高貴な存在を包む服を
狼は身体の大きさを感じさせない優雅な身の運びで、こちらへと向かってきた。
――雪を踏み固めるように、強く前脚を突き立てて狼が停止したのは、俺のすぐ目の前だった。
距離、約五メートル。
近くで見ると、あり得ないほどの圧迫感があった。
黒炭のような両眼が、ジッと俺たちのことを見据えている。
微動だにすることができない。ただ呆然と、その姿を仰ぎ見ることしかできない。
――狼の口が裂けた。
真っ赤な口の中と、そこに並ぶ鋭い牙。
それが見えた瞬間、俺の中で何かが起こったような気がした。
恐怖が振り切って、やけくそになった瞬間だったのかもしれない。
動けるようになった俺は、勢いよく剣を鞘から引き抜いた。
剣先を狼に向ける。
決死の覚悟を嘲笑うかのように、狼は俺を無視して、鼻先を天に向けていた。
――巨大な声が、森の中に響き渡った。
腹の底に響くような、ビリビリと肌を震わすような、そんな声。
声に力が宿っているかのように、狼を中心として、何かが吹き抜けたような感じがした。
●○●
――無理だ。
耳をやられたのだろう。何も聞こえなくなった世界で、俺は思った。
こいつを倒してやろうなんて気持ちは、微塵も浮かんでこない。
ただ、死ぬんだとしたら一瞬で、痛みが無かったらいいなあとか……そういう考えが、頭に浮かんでは、消えていく。
だけど、そんなわずかな望みも、叶えられそうにない。
さっきの緩やかな足取りと、意地の悪い表情から判断するに、こいつは獲物をなぶって楽しむタイプだ。
腕を噛み千切って絶叫を楽しみ、足を引き千切って無様さを笑う。
最後はとどめを刺すこと無く、徐々に弱っていくのを興味深げに観察するような……そんな想像が、目に浮かんだ。
ああ、最悪だ。
そんなことになるくらいだったら、自決した方が百倍マシかもしれない。
舌を噛み千切るか? いや、怖いし苦しそうだから止めておこう。
その時、視界の端に、左手で持っている剣が入った。
首元に刃を添えると……冬の空気と同じ、ヒンヤリとした感触が伝わってきた。
『――皆! 動かないで!』
後ろから、ぼんやりとそんな声が聞こえた。
動くな?
一刻も早く死なないといけないのに……そんなことを言われても困る。
……つっても、これもいちおう頼みごとだしな。ちゃんと守ってあげないと。
両方とも守るとなると……動かないまま、死ぬ?
そんな方法あるのか? 俺にはちょっと思いつかないんだけど……。
もっとちゃんと言ってくれないと、どうすればいいか分からない。
何をすべきか、教えてほしい。
……何をすべきか?
俺は……。
――何をしてるんだ?
ゾっとして、剣を地面に投げ捨てた。
半ば無意識に自分の首を撫でると、浅く線が伸びていた。手を見ると、赤いものが付いている。
あと一秒遅かったら……あのまま、俺は自分の首を――
ハッとして、慌てて周りに目を向ける。
俺は今、魔物と相対している。それなのに気を抜くなんて、未熟にもほどがある。
胸の奥に苦いものが走ったが、そんなものに浸っている暇もない。
感情を噛み殺して、周囲に警戒を向ける。
ひとまず危険はないことを確認して、慎重に地面から剣を拾った俺は……困惑しながら立ち上がった。
……狼がどこにも見当たらない。
あんなデカイ存在、探すまでも無く視界に入ってくるはずだけど……。
「アルくん!」
聞き慣れた声に、俺は振り返った。
――そこには、異様な光景が広がっていた。
切迫した表情のロンデルさん。これは予定通りだ。問題はその後ろ。
これまで何度も言葉を交わし、一緒に行動してきた、討伐隊の面々。
彼らは、剣を首筋に添えたまま、固まっていた。
焦点のあっていない瞳で、虚空を見つめている。微動だにせず、停止している。
「……これ、は?」
隣を向くと――父上も、虚ろな瞳で剣を握っている。
「大丈夫。確認してみたけど、意識がとんでるだけだよ。脈も呼吸もちゃんとある」
ロンデルさんが冷静に指摘するので、父上の胸を確認してみた。
確かに、ゆっくりだけど前後に動いているようだ。
「でも、いったい何が……」
「うーん、どうだろうね……僕よりもアルくんの方が分かるんじゃないかな? さっきまで、アルくんも皆と同じだったんだし」
「僕が?」
ロンデルさんは頷いた。
最初は困惑したけど……考えてみたら、ついさっきの俺も、首筋に剣を添えていた。
自分でも、どうしてあんなことをしたのか分からない。
ただ、一刻も早く死なないといけないような気がして――皆も、あの時の俺と同じ状態ってことか?
そこまで思い至って、俺は頭が余計に混乱するのを感じていた。
改めて振り返ってみると、あの時の俺は明らかに異常だった。
しかも、俺だけじゃなくて皆も同じ状態に陥っているとなると……それには、原因があると考えるべきだろう。
原因は当然、あの狼だ。
あの狼が何かをした結果として、俺たちは正気を失った。
……でも、何かって何だ?
まさか、魔物が催眠術を使えるわけじゃあるまいし。
心の中で笑い飛ばそうとして、それができずに、俺は唇を引き結んでいた。
「来たね」
そう呟いたロンデルさんは目つきを鋭くした。
視線の先にそいつはいた。
見た目だけなら、さっきの狼と同じ。けど、大きさが明らかに違う。
さっきの狼は見上げるような大きさだったのに対し、今こちらへ歩いてきているのは、普通の狼より少し大きいくらいだ。
ロンデルさんは剣を両手で構えて、背中に皆を庇うかのように前に出た。
「……アルくん。皆のことは頼んだよ」
俺の返事を待たずに、ロンデルさんは走り出した。流れるような動きで、狼の首筋へと剣を滑らせる。
その瞬間、俺は思わず自分の目を疑った。
狼の姿が消えた。
――かと思ったら、ロンデルさんの顔の真横にそいつはいる。
狼は、頭を砕かんと口を大きく広げていた。
剣の勢いを使って、ロンデルさんは前方に転がる。
狼の牙が後ろ髪を掠めるのが見えた。
地面に降りたった狼は……低く唸って、ロンデルさんを睨んだ。
一方で、ロンデルさんは笑っていた。
ついさっき頭を齧られかけたにも関わらず、地面を転がって立ち上がったロンデルさんは、いつもの微笑を狼へと向けている。
その表情にイラついたかのように、狼は鼻を鳴らした。
狼が膝を曲げて飛び掛かる――寸前、ロンデルさんが地面を蹴飛ばした。
粉雪が宙を舞う。
巻き散らされた雪は、漆黒の身体を白く汚す。
大きく身震いして雪を弾き飛ばした狼は、殺気の宿った瞳で前方を睨んだ。
今やその瞳には、ロンデルさん以外は何も映っていないようだった。
呆然と立ち尽くす俺には目もくれず、森の奥へと走っていくロンデルさんを、狼は一直線に追って行った。
○○○
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