トリガー

野村絽麻子(旧:ロマネス子)

秘密

 八重ちゃんを見たのは朝の通勤時間だった。雨の日で、私は折り畳みの傘を開きながら駅のひさしから出たところで、足元のタイルに水が溜まってて滑りそうで嫌だなと思った視界に入ってきたのがピンヒールの足先。なんでこんな日にヒール? むしろ転倒希望か? と半ば八つ当たり気味の目線を上げたら、そこに八重ちゃんが居たのだった。

 八重ちゃんは傘をさしていなかった。さしていたのは隣に居る男の人で、八重ちゃんの毛皮っぽいコートはかなりのボリュームがあったのにきちんと傘に入れて貰ってて、反対に、男の人の体は半分以上は雨の中にあった。

 私なら天地がひっくり返っても着ないような短いスカート。すらりと長い脚はヒールの効果もあると思うけれど、冬の雨の朝という悪条件をものともしないほど綺麗だ。

 だから、エクステしてあるであろうまつ毛をバサリと瞬かせて、あの頃とまったく変わらない声で「美和ちゃん」と彼女が声を発した時、私は言葉が出なかった。何を言ったら良いかわからず、反射でやっと「八重ちゃん」と転がり出た。



 八重ちゃんと私は秘密を共有している。昔、ふたりでタイムカプセルを埋めたのだ。

 タイムカプセル、と呼んではいるが、果たしてあれはそんな可愛い代物かどうか。なにせ、中身が拳銃だったから。

 最初に見つけたのは私だった。学校からの帰路、家に帰りたくなくて街を流れる小さな川を眺めていた。消えたい。ドロップアウトしたい。そんな気持ちがいつも膜のように私を覆っていて、とても苦しくて、いつでも何処にいても居場所がないように感じていた。今考えると、それがつまり思春期というものなのだろう。

 欄干にもたれて水面を見下ろしていると、表面は大変穏やかに見えてもその実そうでもないことが、世の中には無数に存在するというのが摂理なんだなと、実感を伴って感じられる。

「手にぃー手をー取りぃーあいー 逃げぇーてゆぅーかなぁいかー」

 音楽の授業の課題曲を口ずさむ。マフラーに埋もれたままの唇からはそんなに聴こえないはずなのに、続きを歌う声が耳に届いた。

「私のー胸ーこそー」

 振り向く。そこには八重ちゃんが居て、可笑しそうにまばたきしていた。

 さん、はい。振る指先につられて同じタイミングで口を開く。

「そなたのー、ふるーさとー」

 綺麗な和音になったふたり分の歌声に押されるように、続きを歌って、それからまた最初に戻って、そうしてフレーズを繰り返す。

 自転車に乗ったおばさんが私たちの真横を通り過ぎた。

 傍目には課題曲を練習する女子生徒二人組の微笑ましい光景に見えているだろう。私が今にも川に飛び込みそうだったなんて、誰も思わない。

 それくらい私の顔に血の気が戻ってきたことを認めたので曲を締めた、とは後日八重ちゃんが笑って語ったことだ。

 歌い終わったところで、八重ちゃんは何も言わなかった。

 私と八重ちゃんはクラスで所属しているグループも違うし、派手目な八重ちゃんと地味目な私じゃ傍目から見てもタイプが違う。鞄に付けてあるテーマパークのマスコットキャラの大きなぬいぐるみを視界の端に映す。テーマパークなんて行きたいとも思わないし、もし仮に行きたいと思っても簡単には実現しない家庭環境の私からしたら、八重ちゃんの所属するグループはキラキラして、華やかで、かなり遠い存在だ。

 八重ちゃんはそういう女の子の中でも特にフレンドリーで、だけどやっぱりそんなに仲良しという訳でもなかったので、話題が思いつかなかったのもある。それなのに変に親密な空気が出来てしまったせいもある。要するに照れたのだ。照れて、それでまた川を見下ろした。その視界で例の紙袋が目に止まり、あ、と上擦った声をあげた私はそれを指差した。

「あれ、何かな」

 ふたりで橋の上から川辺をみる。

「ゴミじゃない?」

「……いま、動かなかった?」

 嘘じゃなかった。その時は動いたように見えたのだ。

「まさか猫!?」

 慌てて周囲を見渡して、川辺に降りられる階段を見つけて走り出す。スカートが捲れるのを構わずに柵を乗り越えて、階段を駆け下り、乾いた草の上に立つ。

 橋桁の側に打ち捨てられていた焦茶色の紙袋は、果たして動いていなかった。しゃがみ込んで恐る恐る手を伸ばし、つついてみて、袋の口を注意深く広げる。黒い塊りが見えた。生き物じゃない。腐ったりもしていない。変な汁も出てこない。大丈夫そう。

 袋を逆さにすると重い物が滑り出てきた。

「……いや、ウソでしょ」

「……ヤバいヤツだ、これ」

 黒くて鈍く光るその姿は何度か刑事ドラマで見たことがある。拳銃だった。


 瞬間的に色んなことを考えた。私の頭があんなにフル回転したのは、後にも先にもないだろう。

 これの引き金を引けば全部終わりに出来る。喜ぶべきか、悲しむべきか。わからない、でも、すごい。どうするんだっけ。こめかみに当てるの? それだと逸れるか。せっかく撃つのに。なら、口に咥える? 飛び散るかな。飛び散るよね。でもいいか、最後なら見なくて済む。それも確実に。弾は何発入ってる? 試し撃ちが必要かな。どこでしよう。何を撃つべきか。

「ねぇ!」

 バシンと肩を叩かれて私はハッとした。顔を上げると、心配そうに眉根を寄せた八重ちゃんがのぞき込んでいる。八重ちゃんは、無理やり口角を上げて見せた。

「び、びっくりしたぁ。美和ちゃんてば固まるからさ」

「……そ、そりゃ、固まる、よね」

「だよねー、あたしもビビったわ」

 あはは。いや、笑ってる場合とちがうわ。乾いた声が耳を掠めて通り過ぎる。

 びゅうう、と冷たい風が川辺を吹き抜けた。足元で枯れ草がざわざわと揺れて、寒さが込み上げる。これ以上、ここでこうしていても仕方ない。

「……届けようか、これ」

 交番に、と言い終わらないうちに八重ちゃんが「待って」と言った。

「あのさぁ、あの……例えばだけど、埋めるとか、どう?」

「……え、」

 私が何か言う前に八重ちゃんの手が私の手首をつかんだ。手のひらが熱い。

「違うの違うの、聞いて」

 八重ちゃんの目は真剣だった。

「これね、あぁ、あの場所にアレが埋めてあるんだな、って思ったら、何だか強くなれる瞬間がありそうな気が、するの」

 八重ちゃんの言葉が頭の中でぐわんぐわんに反響して、心臓から送り出された血液が身体中を駆け巡る音が聴こえるようだ。

「……お守り、ってこと?」

「そう! それ!」

 眩暈がした。あのキラキラした八重ちゃんが、これをお守りにしたがるなんて。こんな私と秘密を共有しようとするなんて。そこまで切羽詰まる何かが彼女にあるなんて、現実離れしている。

 私はふわふわした気持ちのまま、八重ちゃんと学校の裏山まで歩き、何かの石碑の隣に紙袋ごとそれを埋めた。


 それからの私は、憑き物が落ちたように「苦しい」と感じなくなった。拳銃を埋めたせいではなくて、八重ちゃんのような女の子でも、少なからず私と似たような気持ちを抱えているのだと分かったせいだろう。

 私は粛々と学生生活を送り、かと言って地味さは変わらず、でもそれなりに充実を感じながら卒業を迎えた。八重ちゃんとは特に仲が良くなったり悪くなったりもせず、廊下ですれ違うと何となく微笑み合う程度の距離感を保ち、進路が別れてそれきりになった。



 だからその時、駅の出口で十年ぶりくらいに再会した八重ちゃんを見てあの事を思い出したように、きっと八重ちゃんも思い出したのだろう。

 バイバイとあの頃のように手を振ってすれ違った次の週の月曜日、朝のニュース番組に八重ちゃんの写真が映った。高校の卒業アルバムの顔写真で、こういうのって誰が提供するのかなと考えながら折りたたみ傘を鞄に入れる。

 八重ちゃんはテレビの中で「雪松容疑者」と呼ばれていた。私はリモコンの電源を押して、部屋を出る。

 マンションの廊下を歩く。

「手にぃー手をー取りぃーあいー」

 小さく歌ってみると、吐く息は白く凍えて流れて行く。八重ちゃんは引き金を引いた。

「私のー胸ーこそー」

 エントランスを出ると視界が開ける。冬空はぼんやりした青色で、先週の雨の気配はかけらもない。今となってはどうでもいい事だけど、八重ちゃんが撃ったのはあの時隣にいた男の人だった。

 湿度の低い空気を肺いっぱいに吸い込む。指先が震えた。トリガーを引く時の八重ちゃんの手は、きっといつかのように熱かっただろう。

「そなたの、ふるーさとー」

 電車の時刻表を思い浮かべて足を早めながら、私の頬にはなぜか涙が零れている。

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