ふときみを思い出した医薬師のお話 4

 少しずつ白銀の世界に変わりつつある雪の上をナイーダは何度も何度も足を取られながら、それでも前へ前へと進ませてきた自分の足と止めた。


 自分の吐く息が白くなる。


 そして、その先に見える人物の名を思わず呼んでしまっていた。


「アル……」


 ずいぶんと長い月日が経った。


 最初のうちは手紙のやり取りもしていた。


 そんな彼との交流が途絶えたのはいつだったか、覚えていない。


「アル……」


 二年経っても忘れることのないその後ろ姿にまた、声をかける。


 振り返ったアルバートは驚いたように、藍色の瞳を大きく見開いたが、次の瞬間、ナイーダから瞳をそらせ、セトのヤツ……と小さく呟いたようだった。


 雲に覆われて、月が隠れてしまっているせいか、彼の顔に影がかかり、よく見えない。


 しかしながら、今まで感じたことのない、空気にナイーダはぐっと息を呑む。


 ナイーダとアルバートは小さい時からの友人であり、仲間だった。


 当時、女としての性別を隠し、生きてきたナイーダにとって、唯一その秘密を知り、自分を支えてくれる彼の存在は何にも変えることのできないかけがえのないものであった。


 近衛隊の一員としても人間としても、何においても優れていて、誰からも慕われているアルバートにナイーダはいつも憧れ、いつしか自分が男の身で、それが許されないものだと知っていたのに、彼女が彼に恋心を抱くようになるまでに、そう時間がかからなかった。


 いつも彼は笑ってくれた。


 ナイーダが失敗しても、成功しても。ただ側で見守り、優しい笑顔を向けてくれた。


 医薬師となり、彼からずっと離れた所に住むようになったナイーダは、それからもずっと彼の笑顔だけを忘れずに、そしてそれを唯一の心の支えとして生きてきた。


 だが、それは違った。


 思い出と共に美化され、思い浮かべていたあの笑顔は、今の彼には到底程遠いものだった。


 目の前の近衛隊隊長を名乗るこの男は、かつて自分に優しく接してくれていた男なのだろうか、そう思えるほどに印象が変わり果てていた。


「久しぶりだな」


 長い沈黙の後、先にポツリと呟いたのは、彼の方だった。


 その瞳にナイーダが映されたものの、それはとても遠く感じる。


「元気そうで安心した」


 嘘だ、とナイーダは思った。


 ぎゅっと強く、かじかんだ手を握りしめながら。


「お、おかげさまで」


 ナイーダはできるだけ感情を出さないように答えた。


「心配してたんだ。ちゃんと元気にやっているか。おまえは外での暮らしをしたことがなかっただろうから」


 でもよかった、と言うように少し口元を緩めたアルバートの横顔を見て、ナイーダは全身に走る怒りの感情を感じた。


「みんな心配してたんだぞ。おまえのことだからすぐには弱音を吐いてこないだろうとは思っていたけど……」


「思ってもないこと言うなよ」


 だから、思わず言ってしまっていた。


「え……」


 アルバートが笑顔ではなく、鋭い眼差しをこちらに向けた時も構わずに。


「本当は会いたくなんかなかったくせに……」


 自分の手を離したくせに……


 目を合わそうとだってしないくせに……


 ナイーダはそう叫んでやりたかった。


 でも、


「そうだな」


 ナイーダが次に見た彼の表情は、まるで凍り付いたようなものだった。


 それでも口元を緩め、苦笑するようにナイーダを見た彼に、彼女は頭を何かで殴られたような衝動にかられた。


「かつて、本気で愛した人間が、別の人生を幸せそうに生きている姿なんて、見るもんじゃないな」


 かつて、という言葉に、ナイーダは胸が痛んだ。


 足がふらつき、今にも倒れそうになる。


 たった二年、たった二年の月日が、彼にとってはすでに『かつて』という言葉に置き換えられていたことが信じられなかった。


 そして、この、感情を一切含まないような彼の言葉が。


「でも、姫やメレディス達も喜ぶと思う。おまえがこうして立派に医薬師として過ごしていると知ったら」


 困ったように自分の金髪の髪に触れていたアルバートだったが、口ごもってしまったナイーダを気遣ったのか、言葉を補うように、ナイーダがずっと親しくしてきた人物の名を出し、彼は言った。


 でも、もうナイーダの耳には届いてはいなかった。


「こっちもみんな、変わりなく元気にやっているし……」


「ふ、ふざけるな!」


 ナイーダは怒鳴っていた。


「そんな思ってもいないような言葉ばっかり、もうたくさんだ!」


 ナイーダは彼が、大好きだった。


 本当に本当に大好きだった。


 彼が笑ってくれたのが。


 自分を友として、優しい表情を見せてくれたのが。


 でも、今の彼は違った。


 近衛隊隊長として、かつて出会ったただの同僚に向けて愛想笑いをしている、そういった表情をしていた。


 言葉にはもう、昔の友人に向けるための心はこもってはいなかった。


 だから、ナイーダは我慢ができなかった。


「こんのっ、大嘘つき野郎!」


 その大声に驚いたような表情をしたアルバートにまた腹が立った。


「ぶざけるな! 何が『かつて』だ。嘘ばっかついて、おまえが勝手に過去に変えたくせにっ!」


 待ってる、って言ったくせに……


 戻ってこい、って言ったくせに……


 それなのに、彼は自分に背を向け、堂々と昔のことだと言い放ったくせに、本当は会いたくなかったくせに、こんな時まで感情を隠して優秀な隊長面を務めるなんて、そんな彼が許せなかった。


 久しぶりに握った拳が、もう言うことをきかず、無意識にも彼に向かって放ってしまっていた。


 彼にとってナイーダが放つ攻撃など、無意味に飛び回る夏の虫のようなものなのに。


 すぐに止められ、反撃でもされたらおしまいだというのに。


 だけど、ナイーダはそうするしかなかった。


 悔しいのか悲しいのか、それさえよくわからない自分に今にも泣いてしまいそうだった。


 ドカッという音が響き、ナイーダはそこで我に返った。


 アルバートは避けることもせず、ただナイーダの拳をそのまま顔に受けていた。


 確実に、彼は避けると思っていた。


 もともと威力のなかった自分の拳など、とっくの昔に見切っていただろうし、さらに剣の方ならともかく、稽古もせずにこの二年の時を経たナイーダのそれに、彼がまともに応じてくれるとは思わなかった。


 整った顔に赤みが差し、口元を伝う血を、何げなしに彼が拭った時、ナイーダは自分がしてしまったことに気付き、足がすくんだ。


 尻餅をついてしまいそうになった寸前、アルバートの腕につかまれ、ナイーダはかろうじて体勢を持ち直した。


「まだ殴り足りないのなら、何度殴っても別に構わない」


 素っ気なく呟いたアルバートだったが、ナイーダをつかむ手には力がこもり、ナイーダはぎょっとした。


 殴られるようなことをしたと、今ここで、この流れで図々しくも認める気なのだろうか。


「でも、ひとつ聞かせろ。俺がいつ嘘をついたって?」


 二年ぶりに近くで見た、彼の表情もまたセトと同じくらい逞しく、あの頃よりさらに男らしくなっていた。


「は、離せよ……」


 その距離に気付いたナイーダは慌てて彼から離れようと必死になった。


 これも、あの頃と同じ。


 一度だって、彼の体がナイーダの力で動いたことなどなかったというのに。


 そんな努力は虚しいと言わんばかりに、無力にしか感じられないというのに。


「質問に答えてから、だ」


 強い藍色の瞳に自分が映っていることに気付き、ナイーダは息を呑む。


「ナイーダ……」


 あんなに見たかった瞳は、冷え切ったようにして、ナイーダを見つめていた。


「な、何もかも、全部嘘だったくせに……」


 その瞳から、目をそらすようにして、ナイーダは振り絞るように叫んだ。


「好きだとか、待ってるとか、何もかも、本当は嘘だったくせに!」


 ナイーダの声が、暗い夜道に響き渡った時、アルバートの表情が本気で怒りの色に変わったのがわかった。


 恐怖とは、このことだろう、と初めて悟った気がした。


 近衛の時、何度も緊急時にはかり出され、戦ったナイーダではあったが、それでもこんな緊迫した空気は体験したことがなかった。


「は、離せよ」


 だから声を震わせ叫ぶので精一杯だった。


「おまえは、ずっとそう、思っていたのか?」


「い、痛い……」


 つかまれた腕が、感覚がなくなりそうなほど痛んだ。


「あ、アル……」


「はぁっ」


 悪い、とアルバートが手にこもる力を緩め、大きなため息をついたのはその時だった。


「おまえは何も変わってねぇな」

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