きみに恋をした医薬師のお話 12
窓から差し込むほんの少しの月明かりを頼りに長い渡り廊下に出た時、初めて自分の身体が痙攣していることに気が付いた。
壁に寄りかかり、冷えた指先をさする。
「よく頑張った。もう休んでいい」
後ろでチナンの声がして驚いたが、ナイーダはまだまっすぐ前を見て働いている。
そんな中で自分だけ休んでいるなんてありえない俺は首をふる。
「な、何言ってるんですか、チナン。まだまだ頑張れます」
「何を言ってる、だと? それはこちらの台詞だ。もう体力が限界に来ているだろ。中途半端な能力で現場に出るのは迷惑だと言っているんだ」
「………」
正論だ。
こんな判断能力宣落ちたやつに何ができるというのだろうか。
未だに苦しみを訴え続ける隊員達を前にして闘い続けるチナンや他の先輩医薬師を差し置いて寝てなんていられない。
そう思ったものの、自身の無力さも同時に感じ、何も言えなくなる。
「仕方ない。初めての現場にしては大した働きだった。おまえ、ナイーダも」
「チナン……」
「まだひよっこのおまえらにしてはよくやった。明日に備えろ。叩き起こすからな」
二年間必死に勉強を積んできて、未だ『ひよっこ』呼ばわりなのに凹んだが、それでも言われたことに間違いはなく、軽く一例をしてその場をさろうとしたそんなとき。
「チナン、質問があります」
凛としたナイーダの言葉が後ろから聞こえた。
「何だ? 時間がない。すぐに言え」
「はい。先ほどチナンが言っていた赤い花は、一体なんだったんですか? 見たこともない種類でしたが……それに……」
そこまで言いかけて、ナイーダはやめた。
チナンが要求してきた花をいくつも集め、慌てて彼らに渡すと、それを一目見ただけで、納得したように先輩医薬師達は頷き、てきぱきと行動に移った。
それに比べ、自分たちは何もわからなかったのだ。あの姿には本当に、自分はまだまだだと言うことを実感させられたものだ。
「原因がわからなかったからね。まずは先に血や尿を取ることにした」
「え……」
「だからそのための時間も必要だったし、何より、あの花は『ディーゼ』といって、何にでもよく効く花だと言われている。本来は春になれば作物を付けるものだが、冬の間にのみ咲く花の茎には大量のビタミンと毒消しが含まれている。覚えているか? 彼らの症状を」
予想もしなかった返答をぽんぽんされて、俺は混乱してしまう情けない自分の頭を必死に整理しながら、今度はここに到着したばかりの頃の情景を思い出すよう努力した。
あの時、とても、堪えられない状況だった。
それは、彼らがとても苦しそうで、顔が青白くて、呻き声が聞こえて。
そして、はっとした。
「顔がむくみ、お腹は異様に膨らんでいて、目がうつろでした」
俺よりも先に、ナイーダが迷いなく告げた。
「そうだ」
「え、栄養失調ですか?」
「だが、もしそうなら腸の吸収能力も弱まるだろうと思った。でもその症状はなかった」
そこで瞳を伏せ、彼は静かに言った。
「公害病だ。あの花の花びらがもう使い物にならなくなっていたから間違いない。水がやられている」
「み、水?」
ナイーダが目を見開く。
俺は俺でついていくのが精一杯だ。
「そ、それなら他の村の人も……」
「さっき聞いた話では、ここの人間はみな、ちゃんと浄化した水を口に含むようにしていたそうだ。つまり、熱い熱湯にして浄水し、口に含んでいた。だが……」
その後は聞かなくてもわかった。
「そういうことか」
日々の気遣いが己を守る。
隊員達もずっと言われ続けてきたことだろうのに、彼らはそれを守らなかった。
それが、あの結果だと、チナンは言いたかったのだろう。
「おまえらがそんな顔をしなくてもいい」
言うなりチナンは背中を向ける。
もう話すことはない、と言わんばかりに。
「今日中にたくさんまともな水分をたくさん取らせて浄化させてやる。ちゃんとあの花、ディーゼの茎もすり下ろして飲ませたからな。明日には落ち着くはずだ」
あとは俺ら仕事だから任せておけ。
そう珍しく口角を上げたチナンに、慌てて頷く。漆黒の闇に飲み込まれてしまいそうだった。
「たくさん集めてきてくれて助かった。明日は目覚めたあいつらに栄養のあるものを食べさせるからな。おまえは村の人に食事の支援を頼みに行って貰う。忙しくなるぞ。わかったらとっとと寝ろ」
そして、彼は背を向けて行ってしまった。
その背中を見て、俺はは歯を食いしばり、敬礼した。
その背中はとても大きかった。
自分が心から尊敬する、そんな先輩医薬師に。
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