きみに恋をした医薬師のお話 8

「気づけなかったのか、気かないふりをしたのか」


 チナンが一枚の紙を眺め呟いたその言葉に、俺は顔を上げる。


「それ、ナイーダの、ですか?」


 赤い付箋にスペースをすべて埋め尽くしたその特徴的な文字に見覚えがあった。


「カンタス、おまえはどう思う?」


 目の前に差し出されたそれを慌てて受け取り、俺は凝視する。


 そこには、現在ナイーダが調べを進めているという『呪いの森』で意識を失った女性とそこで治療を受けた者の名前がリストとして刻み込まれていた。


 数ある女性の名前の中に、二つだけ『表記なし』と記されたものが二つあった。


 『呪いの森』と呼ばれる、女性が足を踏み入れただけで体調に外を及ぼすと言われる、そんな謎な森に自ら入るだけに、名を持たない女性も数多くいた。だからそんな女性のことは『表記なし』と記されることが多いのだと聞いたことがある。


 でも、ここに記されたこの二つの『表記なし』のうち、一つにはかなり不可解な点があった。


 若い十五の女性だと記されていた。


 確かに、成人もしていない若い女性は目覚めるまでにかかる時間が他の者より長いということは結果として明らかになっていた。だが、その女性が目覚めるまでにかかった時間は、明らかに他のどの女性に比べてもかなり長いものであった。


「こ、これ……」


 俺が指した先を盛大な溜息を付いたチナンが赤色のペンで印をつけた。


「おかしいだろ?」


 ゴクリと喉が鳴る。


 おかしいなんてもんじゃない。


 ナイーダの研究には直接関わらないにしても、これは重要な比較対象になるのではないか。


「おい、ナイーダ、どうなんだ?」


「えっ……」


 チナンが声をかけた先を見て、はっとする。そこにはナイーダが立っていて、その口元はきつく結ばれている。


「言っとくけど、おまえがその部分を見る必要がないのだと思っているのなら、まぁそれはそれで仕方はないが、もし違うのなら、その部分を伏せた上でそれを題材として扱うことは不可能だと言える。確実に正確なデータの物に変えた方がいいと思うぞ?」


 調べることが困難なら……と告げるチナンの言葉を噛みしめるように、ナイーダは俯いた。


「何か、言いたいことがあるのか?」


 そんなナイーダを見逃さず、チナンはいつになく冷静な声を出した。


「言ってみろ」


「も、もしもここのデータに異例な事態があった場合、すでにちゃんと捜査いるはずなのに、この女性についてはこれ以上深く調べられていないのは異常だということです」


 自分の言葉を確かめるように丁寧にしっかりと述べたナイーダに少しほっとしたようにチナンは口元を緩める。でも、


「ああ、調べられなかったとなるならば、その人物がすでにこの世にいないか、調べる事の出来ないほどの高貴な人物か、どちらかだというわけだ」


 その言葉に今度は困ったように顔を上げたナイーダの表情は、いつもの堂々とした彼女のものではなかった。


「悪いことは言わない。ナイーダ、もうやめておけ」


「え……」


「この問題はそもそも女性のデリケートな問題であって俺にはよくわからんが、それ以上踏み入りたくない内容ならやめておいた方がいい。後々古狸どもにつっこまれて返答ができなくなるだけだ」


 情けなくも何も言えない俺はぐっと息を呑む。


 そして、おまえら今日は遅くなるなよ、とだけ告げて、チナンはそのまま立ち上がる。


 重い空気がさらに重くなった気がした。


 言葉が出てこない。


 でも、これはチナンの配慮だとナイーダもわかっているはずだ。


 チナンはいつも必要なことだけしか口にしない。そんな彼がこうしてわざわざ資料を片手に伝えてきたのだ。


 むしろ感謝をしなけれらならないほどだ。


「チナン!」


 再び沈黙を破ったのはナイーダだった。


 その瞳はひどくもろく、今にも崩れてしまいそうだった。それでも体が勝手に動いたのだろう。


 ナイーダは深く頭を下げていた。

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