ふときみを思い出した医薬師のお話
静まり返った研究室は昨日のままで、開きっぱなしの書簡と床にまで散らばった数枚の紙切れが見事な悪夢の続きを物語っていた。
そんな様子に自分でもため息が出た。
いくら昨日はせっかく迎えに来てくれたチナンに申し訳がなくて慌てて帰宅したにしても、さすがにこれはまずいだろう、と自分自身の生活習慣の狂いぶりに深く反省しながらナイーダは一つ一つを丁寧に拾い上げた。
ここのところずっと、ナイーダはこうして研究室にこもっては、多くの文字と睨めっこをしていた。食事をたびたび食べることを忘れ、チナンに怒られたこともあった。
本当に異常だと自分でもわかる。
年頃の人間がいつもいつも薬草片手に研究ばかりに追われる毎日だなんて。
だけど、ナイーダは時間を忘れ、ただひたすら研究に没頭するのが好きだった。
何もかも忘れ、自分が自分になれる、そんな気がした。
『おまえはやっぱりそうやって何かに向かって表情をキラキラさせていた方が似合うのかもしれないな』
そして、大好きな声を思い出す。
彼はそう言って、笑ってくれた。
「アル……俺、今、すごく幸せなんだ」
毎日毎日机に向かって本を読んだり、文字を組み合わせたり、薬草の調合実験なんかもあって、休む暇もないくらいに走り回って頭を使い、たまには先輩達について現場に行くこともあるし、文字通り本当に忙しくて忙しくて仕方がなく、楽しいことばかりではないけれど、それでも今のナイーダは充実していると胸を張って言える。
二年前、自分の立場と家を捨て、自分に合う道を捜そうと初めてこの医薬師の卵が揃う育成学校の門をくぐった時、後悔はなかった。
幼い時から身につけてきた知識や生活の知恵とは全く違った今までにない世界で、慣れないことも多く、泣きたくなることもあったけど、それでもナイーダはいつも笑っていた。
昔、限界を感じる生活の中で無理に笑おうと努力していた頃が嘘のように。
親の後ろ盾もないナイーダが、入学を拒否された時、自分が責任を持つからと自ら申し出てくれたチナンのためにも、ナイーダは誰よりも優れた医薬師になろうと誓った。
何よりここが居場所だと思えた。
勉強をして、新しい知識を増やし、そして困っている人のために努力をする。元気になった人々にありがとうと言ってもらえるたび、やりがいを感じた。天職だと思えた。
だから、後悔など、していない。
でも、いつも側にいた、彼はもういない。
彼のあの優しい笑顔が、ただそれだけがとても恋しかった。
「見せてやりたいよ」
ナイーダは青々と広がる空を見つめ、泣きそうに笑った。
「剣ばかり振り回していた男が、今では本を読んでずっと机にしがみついてるんだから」
おまえが見たら笑うだろうな、とナイーダは彼の優しい笑顔を思い出していた。
「見せてやりたいよ、アル……」
その声は夜の闇に静かに消えた。
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