第66話 いるはずのない人

 鳥の囁き合う声が辺り一面を漆国の闇が覆う夜空に響き渡る。そこに浮かび上がるように瞬く星ぼしは不気味に輝きを放つ。


 ナイーダはいつも以上に慎重に気配を消し、そっと部屋を後にした。


 ここにはいられない。彼女は焦っていた。


 だって、ここは……


「ナイーダ・ブェノスティー?」


 後ろから穏やかな声が聞こえた。


 はっとして振り返ると、声によく合う優しそうな表情をした色白の青年がナイーダを見つめて立ちつくしていた。


「エ、エリオス様……」


 初めて見たにも関わらず、一目で彼だと理解した。


 王子とは言い難い、布だけを繋いで作られた簡易的な衣装に身を包み、城を出た生活が合っていないのか、全身泥を被ったように薄汚れ、そしてやせ細ってはいたが、それでも王子たる威厳は失っておらず、誇らしげな立ち振る舞いでそこに立っていた。


「今回のことで、とても迷惑をかけてしまったと思って、詫びたくてここへ来たんだ」


 月光に照らされた彼の表情は影をおび、少し悲しそうにも見えた。


「そしてよくリリアーナを守ってくれたね。ありがとう」


「い、いえ、そんな……」


 自分は何もしていない。むしろ彼女を危険な目に遭わせたのも、甘い判断を下した自分自身だ。そう思い、すぐに罪悪感を感じた。


「リリアーナはね、君といるととても楽しいのだと言っていた」


「り、リリアーナ様にお会いしたんですか?」


 その問いに、少し困惑したようにエリオスは笑った。


「ああ。先程まで、ね」


 直感にも、その『先程』という言葉に、何かやけにひかかりを感じた。


「それで、マリーネ様の所には……」


「残念だけど、まだ戻ることはできないんだ。母をあのまま残して行くわけにはいかないからね」


 静かに瞳を伏せたエリオスには、ナイーダの考えていることはお見通しのようだった。


「リリアーナには、またつらい想いをさせてしまう。だけど、戻ることができないんだ。わたしのせいで、母をあんな目に遭わせてしまったから……」


 呪いの森で、眠らされているということか。


 先程、アルバートが教えてくれた言葉をいくつか繋げてみてもナイーダにはよくわからなかった。だけど、つらそうな瞳をするエリオスに胸が痛んだ。


「お、俺にできることはありますか?」


 だから思わずナイーダはそう叫んでいた。


「お、俺、何もかも中途半端で、人の役に立つことさえないんですけど、それでも、もし、もし俺があなたのお役に立てるのなら、何でもします。だから……」


 そんなにつらそうな顔をしないでほしかった。きっと、以前は人々の心を安らぎの空間で包み、優しい気持ちにさせる、そんな笑顔を持つ幸福の王子であっただろうのに。


「君はモールスによく似ているね」


 穏やかに緩められた頬を見て、ナイーダは驚いた。


「……あ、兄上に?」


 そんなこと言われたのは初めてだった。


 いつも、そうなれるように努力をしていたのは確かではあるが、誰からもそんな風に言われたことはない。


「その強い瞳と、人を元気にしてくれる逞しい言動がとてもよく似ていると思う」


 ナイーダは全身に伝わる震えを感じた。


「あ、兄上を知っているのですか?」


 ああ、とてもね、と優しく笑うエリオスに、ナイーダは思わず息を呑んだ。

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