第33話 アルバートの婚約者

「こ、ここ……」


 その言葉はナイーダの思考回路が停止させるには十分だった。


「こ、こんやく……しゃ……?」


(だ、誰の……?)


 頭がうまく回らない。


「そう、婚約者」


「だ、誰の?」


「いや、俺のだよ」


 ナイーダの言葉を次いで、アルバートは遠くを見つめて瞳を伏せた。


「だからもう、好きな人がどうとかこうとか言ってられないんだ」


「そ……そんな……」


 うまくまとまらない頭の中が、今度は勢いよく何かで殴られたような心境が襲ってくる。


「そうだな。ちょうど二日後の夜に行われるパーティーで発表されるはずだ」


 無意識にもあまりのショックに声が出なくなり、呆然としているナイーダにアルバートは笑う。でも、


「そ、そんなの聞いてねぇよ、俺っ!」


 ナイーダも引き下がってはいられなかった。


「お、お、俺……何も……」


「いや、言う必要もないだろ。親が勝手に決めたことでまだ発表もされてないし、正式になるまではって……」


 少し困ったように笑うアルバート。


(う、うそ……うそだ……)


 何度も何度も彼の言葉が頭の中で木霊した。


(正式に、って、正式に発表されたら……)


「ア、アルは……それでいいのか?」


 親が決めた結婚なんて、そんなの珍しいことじゃない。


 きっと真っ当に育った良家の子息やご令嬢であれば遅かれ早かれ成長するとともに話題に上がりだすものであることはナイーダも知っていた。


 ましてや先を期待されているアルバートに娘を譲ろうと努力する貴族は少なくはないはずだ。だから驚くべきことではないのだが、それでもナイーダは納得がいかなかった。


 アルバートがあまりにもその事実を素直に受け入れているのが、許せなかった。


「それで……」


「こればっかりは仕方ないさ。これは我が家やお相手の方々も、誰もが望んでることだし、長年想い続けてきた相手ともどうせうまくいかないのは目に見えてるしな」


 わざとらしく強調された単語に、明らかにリリアーナのことを言っているのだと鈍感なナイーダでも理解せざるを得なかった。


(だから……だからそんな顔をしてるの?)


 今にも泣きそうに大きな目を潤ませるナイーダは、自分ではその表情に気付いてないことにアルバートは微かに口元を緩め、彼女の頬に優しく触れた。


「なら、奪いに来てくれる? 王子様?」


 悲しそうに細められた彼の瞳がナイーダをとらえた。


「う、奪いに?」


「そう。俺を救ってくれる?」


「奪うことが、おまえを救うことになるのか?」


 もしそれが破談になっても……


 親の期待を裏切ることになっても……


「おまえの未来を、潰すことにならないか?」


「え?」


「おまえを攫うことで、おまえは幸せになれるのか?」


 それなら……と目の前で今度は困惑気味の表情を浮かべ出したナイーダに、アルバートは彼女が間違いなく何か大きく勘違いをしていることに気付き、思わず笑いそうになった。だから、迷うことなく続けていた。


「そうだな」


 ゆっくり口角を上げて。


「確かに、一つだけ助かる道があるとするなら、どこかの姫君がいいタイミングで現れてくれることくらいかな」


「ひ、姫君……」


 そこで、ナイーダの表情から色が消えた。


 それだけは、どう頑張っても自分には無理なことだと知っていたから。


「ああ」


 でも、アルバートも引くことをせず、そのままじっと彼女を見つめた。


 その強い藍色の瞳に、ナイーダは吸い込まれそうになる。


「アルは、本気で親の決めた未来から自分の運命を変える気はあるのか?」


「できるものなら」


 しっかりアルバートを見つめ返し、強い光を宿した彼女の表情に彼は少し安堵した。


「わかった!」


「え?」


「メレディスに頼んでみる!」


「は?」


 正気か?と乗り出しかけたアルバートは続く言葉に勢いよく滑り込みそうになる。


「メレディスなら申し分ない美人だし、そのパーティーの間だけ、アルの近くを離れなければいいんだろ。頼んでみるよ」


 名案が閃いたとばかりに突然生き生きし出した彼女に、アルバートは正直、本気で頭を抱えたくなった。


「い、いや、でも……」


「安心しろ。助けてやる」


 よし、とばかりにナイーダは目を輝かせてにっこり笑った。


「俺、さんざんおまえに助けてもらったからな。少しでも力になれるように頑張るよ!」


 メレディスに頼んでくると、意気込んで城の方に向かって駆けだしたナイーダを目で追い、アルバートは深い溜息をついた。


 なんでそうなるんだよ……と漏らした彼の言葉はナイーダには届かなかった。


 ナイーダは嬉しかった。


 あの、時折寂しそうな表情を見せることが増えたアルバートを助けることができる。


 そう思ったら胸が弾んだ。


(アルが悩んでたのは、このことか)


 最近までずっと遠くに感じていたアルバートに今日はぐっと近づけた気がしたのだ。


「……くっ」


 でも、それと同時に頬を伝う温もりにも気が付いた。


 これはメレディスにできて、自分にはできないこと。


「な、なんで……」


 アルバートに婚約者ができたと知ってショックを受けても、彼が悲しそうにしていても、自分は助けてやることさえできない。


「なんでだよ……」


 もう、今日はいつもみたいに止めどなく溢れてくる涙を止めようとは思わなかった。


 拭いながら、何度も何度も自分の立場を考えて、また泣いた。


 どうして……


 どうして気付いてしまったんだろう。


 気付かないでいたのに……


「なん……でだよ……」


 声がかすれてうまく出なかった。


「お……俺は……男なのに……」


 そう思っていた頃が、ずっと遠くの昔の日のことに感じられた。


 わかってはいるのに、どうしても彼に近づきたいと思う、そんなもう一人の自分自身の存在にナイーダは気付いてしまった。


 良き親友、良き戦友としてだけでなく、いつも彼と隣にあれる存在を羨ましく思った。


 今日は雲が月を覆う暗い夜でよかった。


 ナイーダは本気でそう思い、必死で涙を拭い続けた。

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