第8話 涙のわけ

「ったく、俺の俊足をなめるなよ!」


 口では強気に言っていても、部屋に入るなり腰が抜けかけた自分が情けなかった。


 さすがは近衛団の護衛たちだ。


 怪しい者とわかれば容赦がない。


 普段は追う側であるナイーダにとって、初めて追われる者の恐ろしさを知った。


「もう、二度とこんな格好になんてならないからな」


 お嬢さんと言われたことが未だ堪えていた。


(この姿なら、本当に女に見えるんだな)


 またしても憂鬱な気持ちになってしまい、そのためドアの外で止まった足音に気が付かなかった。


「悪い、入るぞ」


「な……」


 いきなり息を切らせて飛び込んできたアルバートにナイーダは目を疑った。


「休んでいるところ悪いな。そっちに変な女性が逃げ込まなかったか? 隊員がこっちも探しに来るかもしれなくて……って、え……」


 ナイーダを目にし、驚きのあまりアルバートの瞳が大きく見開かれたのを見て、ナイーダはこれ以上になく、絶望的な気分になった。


「な……おまえ……」


「ア、アル、こ、これは……」


 凍ったように固まった二人の間に冷たい風が流れる。一瞬が永遠に感じられた。


「おい、アルバート。見つかったか?」


 後ろの方でまた声がして、ナイーダは今度こそ生きた心地がしなかった。


 昨日まで一緒に遠出をしていた武官の一人でありナイーダの良き友人でもあるセト・ハリソンの声が聞こえたからだ。


 彼はナイーダが女であることを知らない。


 もうダメだ、と両手で頭を抱え、しゃがみ込もうとしたナイーダの手をアルバートは強引に引いた。


「おい、アルバー……」


「いや、こっちにはいない」


「え? でも、その方は……」


 戸口の前にセトは立っているのであろう。


 それでもナイーダには彼を確認することができなかった。なぜなら……


「ああ、言ってなかったな。俺の恋人だ」


「はっ?」


「ここで待っていてもらってたんだが、この騒ぎで驚かせてしまって」


「な!」


 驚愕した声を挙げたセトに声までは出せなかったものの、ナイーダも同感した。


 アルバートの腕にしっかり抱きしめられながら。


 困惑したセトが言葉を選んであわあわしている姿を前に、コホンと咳払いをし、平然として言ってのけたのだ。


「だから悪い。先に向こうを調べてきてくれ。それと、他の隊員をここに近づけるな」


「あ、ああ。それなら了解だけど……」


 そう言いかけて、まだ何か腑に落ちないように引かないセトにナイーダの背に回るアルバートの腕の力が強まった気がした。


「てかアルバート、やっぱり恋人いたんだな」


 楽しそうにセトは笑い、アルバートはどんな表情で答えたのかはわからなかったが、ナイーダは早くここからセトが立ち去ってくれることを心から祈っていた。


 普段からあんなに親しいセトでも、今だけは都合が悪い。


 セトの立ち去る音が聞こえ、そして初めてナイーダは安堵感を覚えた。


 そしてだんだん、全身に感じるアルバートの温もりを意識してしまった。


「は、離せ! いつまでそうしてる気だ!」


 ひとまずは助かったことにお礼を言うべきところなのに、ナイーダから発せられた第一声はやっぱりそんな言葉だった。


(また、助けられた)


「ちょ、ちょっと……」


 それでもなかなか離そうとはしないアルバートに違和感を感じた。


「ア、アル……」


「バカか、おまえ……」


 耳元で聞こえた彼の声は、昼間とは違い、ピリピリとした怒りがこもっていることがわかった。


「堂々とそんな格好で歩き回って、自分からばらす気だったのか?」


「ち、ちが……お、俺は……」


「その姿を見られたらもう言い訳はできないんだぞ!」


 いつもとは違う、迫力のある彼の声にビクリとしてしまう。


「わ、わかったからもう離せ……」


 どれだけ抵抗しても力では彼に敵わないということは嫌というほど知っていたのに、ナイーダはそうするしかなかった。


 引き寄せられ、間近に迫った藍色の瞳に見入っていたら胸の鼓動が大きくなり出してきたからだ。


「は、離せ!」


「これだけの力で動けないようなヤツに姫を守っていく資格はない」


 アルバートはこの時、ナイーダの瞳が微かに悲しそうに揺れたのを見たが、それでも容赦なく続けた。


「やめるなら今のうちだ」


 絶対口にはしないが、彼にとってもナイーダは大切な相棒だった。


 だから、彼は彼女に一番相応しい言葉を選んだ。


 だが、それに対するナイーダの答えも決まっていた。


「ふざけるな!」


 ドカッというまた鈍い音が響き、表情を引きつらせたアルバートがその場に崩れ落ちた。


「い、いってぇ……」


「お、俺は、俺は男だ」


 ナイーダは泣きそうになりながらもそれでもしっかりアルバートを見つめ、言い放った。


「俺は男だ。おまえの力になんか負けないし、おまえに指図される覚えもない!」


「チビスケ……」


 ナイーダに全力の力をこめて蹴飛ばされたアルバートは、痛そうに脇腹をさすりながら、それでも鋭い瞳でしっかり彼女をとらえ返した。


「死んでも知らないぞ」


 このまま続けて……そう聞こえた。でも、


「お、俺は最初からその覚悟だ!」


 男になった、あの日から。


「なら、勝手にしろ」


 長い沈黙の末、呆れたように溜息をついたアルバートにもうナイーダは我慢ができず、そのまま部屋を飛び出そうとした。


 あと少しでもここにはいられなかったから。


「待て」


 戸口の所で、アルバートに引き留められたが、振り返ることができず、さらに無視したナイーダに彼が何かを投げて寄越したことに気付いた。


 アルバートの上着だった。


「それ、着ていけ。外はまだ冷えるし、そのままじゃまずいだろ」


 余計なお世話だと力いっぱい投げ返してやりたかったが、ナイーダにはできなかった。


 涙でシミを作り出した上着を握りしめ、彼女は全力でその場から駆けだした。

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