第7話 怪しい影と逃亡者
自身の衣服がないことにナイーダが気が付いたのは、メレディスが部屋から出ていったそれからすぐのことであった。
リリアーナがナイーダために作ってくれたいつでも休息をとることができる秘密の裏庭に近いというこの部屋から自宅まで、明日の朝一番に馬を走らせたとしてもそう怪しむ者はいないであろう。
あの庭は門番の目を盗んで抜けられるようにもなっているのだから。
だが、いくらそんな整った場所にいようとも、さすがに女物の衣装では帰る気にはならない。
万が一、父にでもばれたら大変なことになるのは目に見えている。
「くそ、メレディスのヤツ、どこに俺の服をしまったんだ……」
絶望的な気分になりながら慌てて部屋を捜したナイーダであったが、結局それらしいものは見つからず、途方に暮れるはめになった。
「ああもう、どこなんだよ!」
絶体絶命の大ピンチであった。
しかしそれも束の間、ドアの向こうでなにやら物音が聞こえた。
直感でメレディスだと気付いたナイーダは、慌ててベッドから飛び出した。靴も履かずに。
「メレディス!」
戻ってきてくれて助かったよ!と、勢い良くドアを開いた彼女に、暗闇の影は怪しく飛び上がった。
「誰だ?」
明らかにメレディスとは思えない、黒い人影は、ナイーダの声に反応し、慌てて走り出した。
「な! 盗賊?」
思った時には既に遅く、その影は角の所ですっと消えた。
「く、くそ、待てっ!」
(この近衛団副隊長のナイーダ様を前によくも堂々と!)
ナイーダもそのまま後を追った。
メレディスの言っていたことは本当だったらしく、走っても走っても続くのは細い通路が続く一方で、本当に人通りの少ない場所であった。
おかげで障害物もなく、そのまま足音を頼りに、先を行く影をナイーダは追い続けた。
「くそ、どこに行きやがった……」
幾度の階段を駆け上がり、角を曲がり、それでも影の動きは止まらず、ナイーダは困惑していた。
いつの間にか足音が消え、気付いたら外に出ていたナイーダは、辺り一面を照らしている大きな満月に目をやった。
ふと肌寒さを感じた。
上着も持たずに、それも裸足で出てきてしまったからだ。でも、締め付けていたものから解放した肌に触れる風は気持ちよかった。
風がナイーダの解き放たれた美しく長い髪を左右に揺らす。
「ったく、捕まえられると思ったのに……」
自他認める俊足の持ち主であるナイーダであったが、今回ばかりはお手上げであった。
「あーあ、また俺は一つもまともに仕事がこなせなかったよ」
思わず座り込んでしまう。
そしてまた、溜息とともに嫌なことを思い出してしまった。
『もうここにはいられないのよ』
先程、メレディスに言われた言葉だ。
メレディスにとっては、性別という秘密がばれたら、という意味でその言葉を発したのであるが、それでもナイーダにとっては別の意味に聞こえていた。
ここにはいられない。
仕事をできなくなって、ここから追い出される。そんな風に。
男になると決めてからずっと、それが普通だと思って生きてきた。
だが、それが認めてもらえなくなったら?
ここをクビになって、突然女として生きろと言われたら……いったい自分はどうすればいいのかわからなかった。
何をやっても失敗ばかりのナイーダ。
いつもアルバートのさり気ないフォローによってさ問題ないかのようにうまく切り抜けてきたが、それでも一人で行った今回の遠出の仕事ではかなり手こずった。
だから、一人になれる休息の時でさえ、さらしもはずせない程に気をはっていた。
今までは考えないように心がけてきたが、今回ばかりはそうもいかなさそうだった。
アルバートがいるのといないのとでは、こんなにも違うという事実が痛かった。
『バーカ。俺に任せとけ!』
不敵の笑みを浮かべるアルバートの顔が思い浮かび、なぜか顔が熱くなるのを感じる。
「なっ……」
さっきまでのメレディスの話や彼に抱き抱えられたのが原因だろう。
予想もしていなかった自分自身の反応に、またナイーダは一人でいらだちを覚えた。
「バカめ。俺を追ってくるなんて、言い度胸だ。思い知れ……」
「え……」
先程の足音が、今度は後ろに迫ってきていることに気付いた。
きらりと光る長い刃物をナイーダに向け、全力で走り迫ってくるその影が、逃したとばかり思っていた怪しい存在だとわかり、彼女にとってはこれが神の救いの手のように感じられた。
(チャンス!)
一瞬にして、ことは片づいた。
ドカっと大きくて鈍い音が静かな夜の闇に響き渡り、大きく半円を描きながら吹っ飛んだその影は、その時一人の天使を見た、とその後何度も語っていたという。
「よし、捕獲!」
目の前でナイフを持ったまま半目で横たわる、怪しげな人物に向かってナイーダは満面の笑みを浮かべた。
「これでようやく!」
自分の手柄ができたのだ。
戦闘態勢に入った時、ヒラヒラうごめくスカートの裾が少し邪魔には感じたものの、あまりにすんなりことが片付いたことに喜んでいたナイーダはあまり深く考えてはいなかった。
「なんだ、今の音は!」
そう言って後ろから駆けてきた同僚の護衛たちの声にも、いつも通り毅然として対応した。
「な、なんだ、こいつ……」
「ああ、城内をうろうろしていた」
「お、お怪我はありませんか?」
「な、あるわけないだろ」
誰にものを言っている?おまえらの上司だぞ、俺は……と言いかけて、ナイーダは全身に流れる冷や汗を感じた。
慌てて彼らに背を向け、すぐにでも逃げ去ろうとした、そんな時、
「なんだ、騒々しいぞ」
また、さらに新しい声が加わった。
聞き覚えのある声が。
それにはまた絶望的な気持ちになった。
「ああ、隊長、この侵入者がこちらの女性を襲ったようで……」
目の前に気を失うようにして倒れ込む男をチラリと確認し、少し不思議そうに一人の武官が答える。
「また派手にやったもんだな」
隊長と呼ばれた男は、はは、と笑う。
「いえ、こいつは我々が到着した時には……」
「まぁいい。連れていけ。下の牢にでも閉じ込めておこう。目覚めた頃に尋問すればいい」
彼はまったく感情のこもっていない声で淡々と用件だけを続ける。
まさに、隊長の名に相応しい、立派な態度であった。
ナイーダは逃げようとしていたことさえすっかり忘れ、背を向けたままもその振る舞いをしっかり聞き入っていた。
「大丈夫ですか? お嬢さん」
だから、その彼の視線が次に自分に向けられたことに気付き、深く自己嫌悪した。
「怖かったでしょう。もう大丈夫です」
普段ならば、『お嬢さん』なんて言われたのがわかった時点でぶん殴ってやるつもりだった。でも、今はまずい。
「夜道は物騒です。送ります」
こんな姿、こいつに見せられるわけがない。
こんな所で、アルバートに……
「け、結構です!」
できるだけ声を高音で発し、そのままナイーダはもと来た道をめがけて全力で走り出した。
それと同時に、後ろの方で、怪しい女が逃げた!という声とともに数人の武官が追っかけてきた音も聞こえた。
(や、やばい! 俺のバカ!)
内心半泣きになりながら、ナイーダは必死に入口を捜した。
あの時は無我夢中にあの影を追っかけてきてしまっただけに、どこに入口があったのか覚えていなかったのだ。
まさか自分の同僚に追っかけられる日が来るなんて予想もしていなかったナイーダであったが、あまりの彼らのしつこさに息を切らせながらもなんとか逃げ切ることに成功し、普段の厳しい近衛団の練習に感謝したほどだった。
やっとの想いで入口を見つけた時には足はもうフラフラで、一刻も早く休みたいと思う一心で部屋に向かった。
そしてまた、隊長として偉大に見えたアルバートの姿を思い出し、自分自身への自己嫌悪の気持ちと共に深い溜息をついた。
(あいつ、やっぱり女性には優しいんだな)
普段の彼の自分へ対しての扱いの違いが、ふと気になった。
(女性だったら、か)
無意識にも少し寂しくなった。そして、
「いたか~?」
と、未だに後ろの迫りつつあった声にまたナイーダは慌てて駆けだした。
(い、いつまでついてくる気だよ!)
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