第4話

 次の日の昼すぎ、コンビニから家に戻る途中で、パーカー姿の加奈ちゃんを見かけた。どうしてこんな時間に、しかもなんで私服なのだろう。そう思ってすぐに今日が土曜日ということを思い出した。

 このまま通りすぎたいところだけど、この距離だとあっちが先に気づいて声をかけてくるかもしれない。それならいっそぼくの方から声をかけるべきか、どうしようか。少しだけ歩くスピードを落とし、考えていると、加奈ちゃんの動きに違和感を感じた。

 彼女はさっきから、きょろきょろとあたりを見回しながら歩いている。なにかを警戒、あるいは探しているような動きだ。だとしたら、なにを気にしているのだろう。乗り物だろうか。でもこの辺は住宅地で、車やバイクはほとんど通らない。来たとしても音でわかるだろうから、あんなふうにしてまで注意する意味はないように思える。

 なんとなく、こっちに気づかれる可能性は低そうに思えたぼくは、このまま通りすぎることに、

「あ! お兄ちゃん……」

 決めた途端、加奈ちゃんが振り返った。明らかに見つかってしまった、みたいな顔だ。それはすぐに気まずそうな表情へと変わっていった。その慌てようをちょっと不思議に思いながら、いま気づいたふりをして、加奈ちゃんに近づいた。

「こんにちは、加奈ちゃん。これからどこか行くの?」

「えっと……」

 ぼくが前に立つと、加奈ちゃんはたったいま思い出したように、青色の手提げをサッとうしろに隠した。あの中には、なにか見られたくないものでも入っているのだろうか。さっきの行動や表情と言い、きょうの加奈ちゃんはどうも少し変な感じがする。

 彼女はふいに、路地の奥を覗き込んだ。そこはちょうど家と家の間の、隙間の部分。人ひとりが通れるくらいの狭さだ。ぼくもそこに目を向けてみた。でも、これといって目につくものはない。ただ路地の奥に道路と家が見えるだけだ。

「なにかあったの?」

「ええと、ええとね」

 目を泳がせる加奈ちゃん。ぼくはなんだかとても悪いことをしているような気がして、たまらず切り出した。

「加奈ちゃん、もし言いたくなかったら――」

「お菊がいなくなっちゃったの!」

 ぼくの言葉をさえぎって、加奈ちゃんは声をあげた。


「――お菊、見つからなかったね」

「うん」

 あれからぼくは、加奈ちゃんと一緒に菊水丸を探した。前にも一度、脱走したことがあるらしく、そのときは公園の植え込みの中で見つかったというので、今回も公園を中心に探した。でも、見つからなかった。最後は加奈ちゃんのお母さんからの着信で切り上げることになり、ぼくらはいま、こうしてふたり並んで帰り道を歩いている。

 まだ夕方の六時前だけど、もうほとんど日は落ちていて、あたりは薄暗い。きっとあと三十分もすれば真っ暗になってしまうのだろう。お母さんが心配して電話をかけてくるのも無理はないと思った。

「きっと、帰ってくるんじゃないかな」

「うん……」

 加奈ちゃんは、猫にあまり興味がないぼくからしてみれば同じような内容の話を、毎回、本当に楽しそうに話す。それ前も聞いたけどと言っても、気にせずに話し続けるものだから、あるときからぼくは口を挟まずに、最後まで聞くようになった。

 たとえ学校でうまくいっていなくても、つらい目にあっていても、家に帰れば菊水丸が待っている。玄関でお腹を見せながらゴロゴロしてくれたり、ベッドに入ればすぐに掛け布団の上で丸くなる。朝は一緒に起きるし、学校に行くときは玄関まで見送りに来てくれるそうだ。

 ふと、加奈ちゃんがきのう教えてくれたMマークの話を思い出した。ムエザ、だったか。そう、菊水丸は加奈ちゃんにとってのムエザなんだ。きっと人だとか猫だとか、そんなことはふたりにとって、問題にすらならないのだろう。

 でも、だからこそ気になることがある。どうして加奈ちゃんは、あんな嘘をついたのだろう。

「あれ、加奈ちゃん?」

 さっきまで隣を歩いていた加奈ちゃんがいないことに気づき、ぼくは首を左右に回した。いた。加奈ちゃんはぼくの少しうしろの街灯の下で、うつむきがちに佇んでいた。

「どうしたの?」

 ぼくらの家はもうすぐそこに見えている。立ち止まった加奈ちゃんの元に歩み寄ると、彼女は小さく口を開いた。

「ごめんなさい」

「え?」

「ウソついてた」

 ああ、やっぱりか。

「ウソ?」

 わかっているけど、ぼくは気づいていないふりをして訊き返す。

「そう、ウソなの」

「なにがウソなの?」

 加奈ちゃんは顔を上げた。悲しげな表情が、街灯の光を受けて、薄闇の中に浮かんでいた。

「ほんとうは、お菊はいなくなってなんかないの。ちゃんと、家にいる」

 ――大人しい子で、今まで一回も脱走したことないんです。

 昨年、加奈ちゃんは、息子の自慢話をするお母さんのような口ぶりでそう話した。

 ひょっとしたら、それから脱走したことがあったのかもしれない。でも加奈ちゃんのことだ、もしそうだとしたら、ぼくに話し聞かせていただろう。まるで大事件でも起こったように、身振り手振りを交えながら、大げさに話していたに違いない。だから、前に公園の植え込みの中で見つかったなんてことは、あるはずがないのだ。

「ウソをついて、ごめんなさい。あんなに手伝ってもらったのに、ごめんなさい」

 手提げを持つ加奈ちゃんの小さな手が、震えていた。

「ぼくは怒ってないから、大丈夫だよ」

「……ほんとう?」

「うん、ほんとうに怒ってないよ。でも、加奈ちゃんがどうして嘘をついたのかは、ちょっと気になるかな」

「えっと……それは……」

 またうつむいてしまう。落ち着かないのか、右腕をさすりだした。

「お兄ちゃんを……その……探してて……」

「え、ぼく?」

「あ、ううん、違う!」

「違うの?」

「ううん、違わないけど……」

 いったい、どうしたのだろう。加奈ちゃんは、手提げの中をごそごそとあさりはじめた。

「あの……これ」

 中から出てきたのはオレンジ色の紙袋で、持ち手の部分に太めのリボンが巻きついている。

 ぼくは眉根を寄せた。

「えっと、加奈ちゃん。これは?」

「……ょう日」

「え?」

 加奈ちゃんがなにかしゃべったけど、ごにょごにょと聞き取れない。

「……お誕生日、なんでしょ」

 誕生日。そうか、そうだった。きょうはぼくの誕生日なのだった。

 ようやくこの紙袋の意味がわかった。それはいい。でもどうしよう、と思った。こんなときぼくは、どんな顔をして、なにを言えばいいのかわからない。いや、わからないのじゃない。忘れてしまったんだ。

 低学年のときは、家でお誕生日会を開いたこともあった。何人か友達を呼んで、みんなでお菓子を食べてジュースを飲んで、ゲームをしたりした。そして最後に友達ひとりひとりから、おめでとうの言葉と一緒に、プレゼントを受け取った。

 あのときのぼくは、どんな顔をしていたのだろう。どんな顔で、どんな言葉で、誕生日プレゼントを受け取っていたのだろう。思い出そうとしても、思い出せない。記憶はモヤがかかったように、頭の中で白くなっていた。

「……いらない?」

 どうやら、時間切れのようだ。ぼくはそれっぽい言葉を言うことにした。

「あ、ううん、そんなことない。でも、ほんとうにもらってもいいの?」

 加奈ちゃんがこくり、とうなずく。

「じゃ、じゃあ」

 ぼくはおそるおそる紙袋を受け取って、右手にぶら提げた。

 それからお互いに立ち尽くした。加奈ちゃんはなにも言わないし、地面を見つめたまま。たまにぼくの目をチラ見してはすぐにそらす。なにやらぎこちない空気が、ぼくらの間に流れていた。

「……開けないの?」

「え、ここで?」

「み、見たくないなら、別にいいけど……」

 すぐに開けたほうがいい気がして、ぼくは紙袋を開いて中身を取り出した。

 それはビニール袋に包まれた、黒いなにかだった。ていねいにたたまれていて、最初はなんだかわからなかったけど、これは、

「帽子だ」

「帽子、好きなんでしょ?」

「え、どうして?」

「だってお兄ちゃん、いっつも帽子かぶってるから」

 べつに好きなわけじゃない。いざというときのために、顔を隠しているだけだ。

 もちろんそんなことを言えるはずもなく、そうだね、と返しておく。

「かわいくない?」

 と言いながら、加奈ちゃんはぼくの手の中の帽子を見る。かぶれ、と言われている気がしてぼくは、あわててビニール袋から帽子を取り出した。

 広げてみると、ふつうの帽子だった。黒い無地のキャップ帽。

「あ」

 いや違う、無地じゃない。帽子の正面に、白い糸で大きく刺しゅうがされてある。これはアルファベットのMだ。

 そのMマークをまじまじと見つめていると、加奈ちゃんの視線を感じた。そこにはいつもとは違う、熱っぽさがあった。その視線に見守られながら、新しい帽子を頭に乗せてみる。サイズはばっちりだった。はじめてかぶったとは思えないくらいにしっくりくる。

 いつものように深くかぶり、位置を調整して加奈ちゃんの方を見た。

「どうかな?」

「似合うよ」

 新しい帽子のツバの下で、加奈ちゃんが口元をゆるめ、ぼくの頭に向かって両手を伸ばすのが見えた。

「でも」

 伸ばした手が、帽子を少しだけ持ち上げた。ちょっとだけ視界が広くなる。加奈ちゃんがいたずらっぽく笑っていた。

「こうしたほうが、もっと似合うかな」

「そうかな」

「そうだよ」

 深さを直そうとして加奈ちゃんに止められる。帽子のかぶり方ひとつでこうも落ち着かないものなのか。

「行こっ」

 ぼくらは歩きだした。それからは特に話すこともなく家の前に着いて、ぼくはばいばいをしようとした。

「ねぇ、お兄ちゃん」

「なに?」

「いつも、ありがとうね」

 お礼を言われた理由がわからずに、ぼくは目だけで訊き返した。

「仲良くしてくれて」

 そんなに嬉しそうに言われても。ぼくにはいまも昔もそういうつもりはないので、言葉に詰まる。

「お兄ちゃん、今度、うちに遊びに来てよ」

「どうして?」

「お母さんがね、言うんだよ。あまりお兄ちゃんとお話しない方がいいよって。ひどいよね」

 ぼくは苦笑いをした。ひとり娘がぼくみたいなやつと仲良くしていちゃ、そりゃあお母さんも心配になるだろう。ひどくもなんともない。

「でもお母さんも、わかると思う。ちゃんとお話すれば、お兄ちゃんがいい人だってわかると思うの」

「そう、かな」

「そうだよ。だからお兄ちゃん、今度うちに来てね」

「うん……また今度ね」

「約束、だよ」

「うん」

「もう逃げちゃやだよ」


「くそ、くそ、また負けた……」

 ぼくが使っていたキャラが、勢いよく場外へと消えていった。いったいこれで何回負けた。まったく、後で記録を見るのがおそろしい。きっとぼくの勝率は、見てられないくらいに落ちていることだろう。

 でも、いまはそんなことは問題じゃない。離れないのだ。別れ際に加奈ちゃんが言った、あの言葉。あの言葉が、いつまで経ってもぼくの頭の中から出ていってくれない。あれからもう何時間も経っているのに。真夜中の二時を過ぎてもなお、ずっとあの意味を考え続けてしまう。

 あの日、加奈ちゃんはぼくだと気づいていたのだろうか。

 いや、そんなことはない。ぼくは頭を振った。もしそうだとしたら、今みたいな関係にはならなかったはずだ。だってそうだろう。いじめから助けようとせずに、逃げ出したやつと仲良くするなんて、ふつうに考えてありえない。そう、ありえない。絶対にありえないはずなんだ。

 でも、じゃああの言葉はなんだろう。加奈ちゃんは言った、もう逃げないでね、と。どういうことだ。なにから逃げる。ぼくがなにから逃げたというんだ。そんなの考えるまでもない。決まっているじゃないか。加奈ちゃんからだ。ぼくはあのとき、加奈ちゃんから逃げ出したんだ。助けることができたはずなのに。手を差しのべることができたはずなのに。なにもせずに、ぼくは――。

 はたと気づく。違う。ぼくは加奈ちゃんから逃げたんじゃない。あそこで行われていたいじめという現実そのものが怖くて、ぼくは背中を向けて走り出したんだ。

 はじめて逃げたのは小学五年生のときだ。ぼくは、急に勉強についていけなくなった。どれだけ勉強をしても、どうしようもなかった。わかりません、わかりません、わかりません。ぼくがそう答えるたび、先生は怒り、みんなは笑った。その笑い声を聞くのが嫌で、嫌で、ある日、学校に行こうとしたら、玄関をまたげないことに気づいた。そうしてぼくは、不登校になったのだ。

 ふと、加奈ちゃんからもらった帽子を見る。それを真っ直ぐにかぶれば、Mの刺しゅうが額のところに来る。Mのマーク。聖なる証、祝福。ぼくにそんなものを受け取れるはずがない。紙袋に押し込んで部屋を出て、リビングに向かった。

 冷蔵庫からコーラのペットボトルを取ろうとして、ビールの缶が目についた。そして、目を離せなくなった。気づけばぼくは、それに手を伸ばし、プルタブを開け、中身を喉の奥に流し込んでいた。ひどく苦い味がした。今日はぼくの誕生日だ。

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ぼくと、加奈ちゃんと、セイナルアカシ 深江浜町 @fukaesann

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