第3話

 播磨加奈ちゃんがぼくん家の向かいに引っ越してきたのは、去年の秋のことだ。

 十月のある日、たしかお昼の一時を回ったころだったと思う。リビングでひとり、ごはんを食べていたら、インターホンが鳴った。出ようか、無視しようか。迷っていると二度目が鳴ったので、ぼくは茶碗の上に箸を置いて、いやいや玄関へと向かった。

 おそるおそるドアを開けると、隙間に女の人の顔が見えた。その一瞬でぼくは視線を逃していた。相手がとんでもなくきれいな人だったからだ。きっと本能がそうさせたに違いなかった。

「突然すみません。赤松さんのお宅、でお間違いありませんか?」

 穏やかな声で訊ねた女の人に、ぼくは小さくはい、とだけ返した。目も合わせず、ぼそっと返事をしたぼくは、ふてぶてしいやつに見えたに違いない。にもかかわらず、ぼくの視界の端っこで、女の人はほほえんでいた。

「私――私たちは、播磨と申します。先日、お向かいに引っ越してきました。ご挨拶をしたいので、すみませんが、もう少しここを開けて頂いてもよろしいですか?」

 なるほど、そういうことか。こないだ向かいに建ったあの立派なおうちはこの人の家だったのかと、ぼくは納得した。そして考えた、そういうことなら開けないわけにはいかないな、と。ここで追い返すような真似をすれば、後でお父さんに伝わるかもしれない。お父さんのことだ、怒ってきたりはしないだろうけど、万が一のことがある。ぼくの毎日が脅かされるのは、あってはならないことだ。ならその可能性は摘んでおくべきだろう。それに挨拶だけならすぐに終わるはずだ。そんなふうに考えて、ぼくはゆっくりとドアを全開にしたのだった。

「ありがとうございます。改めまして、播磨です。新築工事期間中は、たいへんご迷惑をおかけしてすみませんでした。これからはどうぞよろしくお願いいたしますね」

 両手をふともものあたりに添えて、ぺこりと頭を下げた播磨さんを、ぼくはこっそりと観察した。手入れが行き届いてそうな髪、控えめだけど高級そうな服と靴。それになんだろう、このオーラのようなものは。まるで上品さそのものを身につけているようだ。

「あの、ちなみにご家族の方は?」

 顔を上げた播磨さんと目が合ってしまい、ぼくは大慌てで視線をそらした。

「いま、ひとりです」

「そうなんですね。でしたらこれ、よかったらまたみなさんで召し上がってください」

 多価そうな紙袋をおずおずと受け取りながら、これでもう帰ってくれないかな、と願っていた。播磨さんと話すだけで、どんどん自分がみじめに思えてきて、その気持ちから逃げ出したかった。ぼくみたいなやつに、ていねいに接してくれるのが辛かった。そのきらきらとまぶしいオーラをぼくに向けないでほしかった。すぐにでも階段を駆け上がって、二階の子供部屋に戻りたかった。

 でもぼくの願いとは裏腹に、播磨さんは自分の腰のあたりを見て、こんなことを言った。

「ほら、加奈もご挨拶なさい」

 播磨さんの背後からゆっくりと顔を出したのは、小さな女の子だった。お母さんの影からこっちをうかがう少女は、なにかに怯える小動物のようだった。彼女は、少しの間なにを言おうか考えていたみたいだったけど、やがてぼくを見上げて、つぶやくようにこう言った。

「播磨、加奈です。よろしく、お願いします」

 ぼくはこのとき受けた感覚を、いまだに忘れることができない。目をつむれば、今でもついさっき起こった出来事のように思い出すことができる。

 うまく言い表せないけど、加奈ちゃんのすべてがわかった気がした。彼女がこれまでにどんな生き方をしてきて、どんな考え方をするようになって、そしてどういう性格になったのか。言うなれば加奈ちゃんの歴史を、ぼくは彼女の目を見ただけでわかった気がしたのだ。

 そして、このとき受けた感覚は、およそ二週間後に確信に変わる。

 その日、コンビニから家に戻る途中でぼくは、公園に立ち寄った。なんとなくベンチに座って買ってきた飲み物を飲みたいと思ったのだ。スマホの時計を見ると、十六時を過ぎたところだった。まだ同級生に会うような時間じゃないと安心したぼくは、ところどころペンキの剥げたベンチに、ちょこんと腰をおろしてペットボトルのフタをひねった。

 ジュースを飲んでいたら、公園の植え込みの向こうに、三人の女の子たちが歩いているのが見えた。S小の制服を着た彼女たちを見て、ぼくは違和感を感じた。三人が三人とも、ランドセルを背負っていなかったからだ。

 そうか、いったん家に帰ってランドセルを置いて来たのか。そう思って納得しかけたとき、女の子のうちのひとりが振り返ってなにかを言った。それに続いてほかのふたりも立ち止まり、うしろに向かってなにかを言いはじめた。それから少しして現れた女の子を見て、ぼくは右手からペットボトルを落としそうになった。

 現れたのは加奈ちゃんだった。彼女は、左右と前を赤いランドセルに囲まれていた。両手にランドセルを提げて前かがみに歩く加奈ちゃんは、遠目にもつらそうに見えた。それだけでもう、彼女がどんな状況にいるのかは明らかだった。

 女の子たちのもとにたどり着く寸前で、加奈ちゃんが転んだ。その拍子に手に持っていたうちのひとつから、どさっと中身が飛び出して、直後にその持ち主らしい女の子が短い悲鳴をあげた。その子が追い討ちをかけるようにまくしたてると、加奈ちゃんは四つん這いになって、ぶちまけられた中身をせっせと手元に集めていった。ぼくは息もできずにその様子をただ見ていた。

 それから女の子たちは、加奈ちゃんから各々のランドセルをはぎ取り、三人並んで帰っていった。ひとり取り残された加奈ちゃんは、うつむいたまま動かなかった。ぼくも動けなかった。どうしよう、どうしよう、どうしよう。加奈ちゃんが顔を上げた。どうしようがやばいに変わった。でももう遅かった。加奈ちゃんがゆっくりとこっちを向いた。まるでスローモーションのようだった。

 その瞬間、ぼくは立ち上がり、加奈ちゃんがいる方向とは逆方向に走り出していた。走って、走って、走って、ただひたすらに、自分の家を目指した。玄関のドアを乱暴に開け、階段を駆け上がり、部屋のベッドの端っこで震えていたら、塞いだ耳の奥からけたたましい胸の音が聞こえた。それは足音のようだった。瞬時に頭の中に、小さな足で追いかけてくる加奈ちゃんが浮かんだ。ぼくはぎゅっと目をつむって、頭の中の加奈ちゃんにひたすら謝り続けた。何度も何度も、ごめんなさいを繰り返した。それでも彼女は追いかけてきた。暗闇の中で、あの目がぼくを見ていた。ひと目見たときから感じていた。あの目はそう、ぼくと同じ目だった。

 それからぼくは、加奈ちゃんを見かけるたび話しかけるようになる。それは、あの日のことを謝りたかったからじゃない。知りたかったのだ。あの日、加奈ちゃんがぼくに気づいていたのかどうかを、どうしても知りたかった。だからぼくは、何気ない会話をするふりをして声をかけ続けた。こんにちは、こんばんは、さようなら。加奈ちゃんも言う。こんにちは、こんばんは、さようなら。本当にただの、あいさつだけの関係。もしも加奈ちゃんがあのとき猫Tシャツに反応してくれなかったら、今でもそんな関係が続いていたんじゃないだろうか。

 いまだに知りたかったことはわかっていない。でも、ぼくは思う。あの日、加奈ちゃんはぼくだと気づいていなかったんじゃないかと。もしもぼくだと気づいていたなら、仲良くしようなんて考えなかったはずだし、そもそも最初に声をかけた時点で無視されていてもおかしくはなかっただろう。だからもう、ぼくの目標は達成したようなものだ。

 だけど今でもぼくは加奈ちゃんと会話をしている。確かに自分から声をかける回数は減った。でも向こうから話しかけてきても無視したりはしない。それはどうしてか。ぼくはある夜の日、ベッドの上でそう自分に訊いてみた。そしたらすぐに答えがわかった。やわらぐように思えたからだ。加奈ちゃんがいじめられていたあの日に感じた罪悪感が、彼女と言葉を交わすたび、和らいでいくような気がしたからだ。

 でもだからといって、あの日のできごとがなかったことにはならない。いくらそんな気がしたって、ぼくの中にはまだあの罪悪感が消えずに残っている。

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