第2話
帽子を取りに戻って外に出ると、冷たい風に体が震えた。十一月に入ってもまだあたたかい日が続いていただけに、裏切られた気分だ。長袖Tシャツの上にパーカーを重ねるだけじゃ足りないように思えて、悩む。もう少し着込んでこようか、どうしようか。そうして考えていると、向かいの播磨さん家の玄関のドアが開くのが見えて、胸の中でつぶやいた――ああくそ、なんてタイミングなのだろう。すぐに引き返したかったけどもう遅い。ドアから出てきた加奈ちゃんともう目が合ってしまったから。彼女はランドセルのストラップを掴みながら小走りで近づいてくる。そしてぼくの前に立つと、目をまん丸にしてこっちを見上げた。
「おはよう、お兄ちゃん。どうしたの、こんな朝はやくに」
「おはよう、加奈ちゃん。えっと、ちょっとコンビニに行こうと思って」
「え、コンビニに行くの? 病院じゃなくて?」
「あぁ、うん、そうだね……」
「病気はどう? 元気になった?」
「ううん、相変わらずかな」
「そっか、はやく元気になるといいね」
病気というのはうそだ。ただの言い訳である。
ある日、加奈ちゃんにぼくが学校に行っていないことを知られた。きっと彼女のお母さんから聞いたのだろう。ぼくがありえない時間に外を私服で歩いているものだから、加奈ちゃんのお母さんが勘づいたとしても無理はないと思う。
「あ。ネコTシャツだ」
加奈ちゃんの視線につられ、ぼくも自分の胸のあたりをのぞいて納得した。いまぼくが着ているTシャツは、白地に猫のキャラクターがでっかくプリントされたもので、去年お母さんがイオンで買ってきたやつだ。加奈ちゃんがぼくに対して打ち解けるようになったきっかけでもある。
そういえばあのときも、加奈ちゃんはこうしてぼくの胸のあたりを見つめていた。
――猫、好きなんですか?
――あ、これ? 好きといえば好きだけど……。
――そうなんですね。わたし、猫飼ってるんですけど、見ます?
そう言って、ポケットからスマホを出した加奈ちゃんは、愛猫の写真を見せてくれた。画面上で、茶色のでっぷりとした猫が、こっちに向かって大きく口を開けていた。今にもスマホの枠を飛び出て攻撃してきそうだった。でも加奈ちゃんは言った――大人しい子で、今まで一回も脱走したことないんです。
――そうなんだ。
――はい。名前は※※※って言うんですけど、ぜんぜん大人しいんですよ。
名前……名前はなんだったか。ぼくらは顔を合わせるたびその猫の話をしているのに、名前が難しくて、ぼくはいまだに覚えることができていない。
「そういえば、加奈ちゃん家の猫は元気? なんだっけ、あの……侍みたいな名前の……」
「菊水丸ね。菊水丸だからお菊。もう、そろそろちゃんと覚えて。前にもこういうのあったよ」
「そうだそうだ、キクスイマル、菊水丸だ。ごめんね、加奈ちゃん。もうちゃんと覚えたから……」
「えー、ほんとかなぁ」
ぼくが苦笑いしていると、加奈ちゃんは道の向こうを指さした。その方向は通学路で、目的のコンビニがある方向でもある。一緒に行く? ということなのだろう。
ぼくは少し考えた。加奈ちゃんと一緒に歩いているところをあまり人に見られたくない。それにほとんどないだろうけど、同級生の誰かに会う可能性だってゼロじゃないと思う。他にも色々と考えてみたけど、結局は一緒に行くことに決めた。もし誰かがいたならそのときは引き返せばいい。それに帽子で顔を隠しているから大丈夫だろう。うなずくと、加奈ちゃんが歩きだしたので、ぼくはその隣に並んだ。
「そういえばお兄ちゃん、猫のMマークの話って知ってる?」
「猫のMマーク? そんなのあるの?」
「そうそう。猫のおでこのところにはね、英語のMみたいな形の模様があるんだよ。ちょっと待ってね」
加奈ちゃんは取り出したスマホの画面を丸っこい指で弾いていく。画像を選んでいるようだ。これこれ、と声を上げて指を止めた。画面をこっちに向ける。菊水丸の寝顔のどアップだった。
「ほらお兄ちゃん、お菊のおでこをよく見てみて。なんかMみたいに見えない?」
加奈ちゃんが人差し指でさしたところをじっと見つめてみた。ギザギザの模様みたいなやつがある。なるほど、たしかにこれはアルファベットのMに見えなくもない。
「あぁ、たしかにMっぽいね。これがどうしたの?」
「ムハンマド」
「え?」
加奈ちゃんは得意げに笑った。
「ムハンマドだよ、お兄ちゃん」
「ム、ムハンマド?」
「そうそう。このMマークはね、ムハンマドのMって言われてるんだよ。ムハンマドが触ったセイナルアカシなんだって」
それから加奈ちゃんが話したところによれば、こんな感じになる。
大昔、毒蛇に襲われていたムハンマドを一匹の猫が助けだした。彼がお礼にその猫のおでこをなでると、そこにMの模様が浮かび上がった。それはセイナルアカシ――たぶん聖なる証――として、今日まで語り継がれてきた。この話から、猫のおでこのMマークはムハンマドのMと言われるようになったそうだ。ちなみにムハンマドが飼っていた猫の名前はムエザと言い、親友のように接していたらしい。
加奈ちゃんはこんなふうに、よく猫にまつわる言い伝えや伝説やらを話し聞かせてくれる。へぇ、と思うこともあれば、それはさすがにどうなの、と思わずつっこみたくなるようなのもあったりと、まぁ内容は色々だ。ちなみに今回はそのどちらでもない。でもひとつ、気になったことがある。
「ねぇ、加奈ちゃん」
首を傾げる加奈ちゃんに、ぼくは訊いてみた。
「その……ムハンマドって人はだれ?」
加奈ちゃんは目だけで上を見た。頭の上に浮かんだはてなマークを眺めるみたいに。
ちょっとの間そうしていたけど、答えは出たみたいだ。
「んー、なんかめっちゃえらい人」
ちょうど分かれ道にさしかかる。右の道の奥にランドセルの集団が見えた。今日はここで加奈ちゃんとお別れのようだ。
ぼくはバイバイしようとしておや、と思った。加奈ちゃんが立ち止まったまま動かなかったから。それにどこかこわばって見える。
「あ、あのさ、お兄ちゃん」
「なに?」
加奈ちゃんはあからさまに目をそらした。おまけに手をモジモジさせている。やっぱり様子がおかしい。
「あの……お兄ちゃん、明日が誕生日だよね?」
「え? あれ、そうだっけ?」
「え?」
「え?」
ぼくらは互いに顔を見合わせて、ちょっとだけ沈黙した。
「えと、十一月十五日なんだよね、誕生日?」
「そうだね、十五日」
「ほら、やっぱり明日なんじゃん」
加奈ちゃんは唇を尖らしてぼくの目の前にスマホを突き出した。そこでようやく今日が十一月十四日だということを知った。ぼくみたいな生活をしていると曜日感覚がなくなるというのは本当のようだ。
「じゃああしたがぼくの誕生日だ。でも、それがどうかした?」
「なんでもない」
「そうなの?」
「なんでもないよ」
「そ、そう?」
「だから、なんでもないって言ってるでしょ」
なんだか、いきなり機嫌が悪くなったような。これ以上は喋らない方が良い気がして黙っていると、加奈ちゃんはくるりと背中を向けた。
「じゃあまたね」
「う、うん。またね」
いったいなんだったのだろう。あしたがぼくの誕生日だからといって、それがどうしたというのだろう。でも加奈ちゃんはもう行ってしまった。彼女の薄紫色のランドセルが集団の中に混ざり、すぐに見えなくなって、ぼくは心底ほっとした。安心感から体が軽くなったような気さえした。もう一年も経つのに加奈ちゃんと別れた後の開放感はずっと変わらない。
一年――そうか、あの日からもう一年も経つのか。コンビニに向かって歩き出すと、冷たい風が吹いた。そういえばあの日も、こんなふうに風が冷たくて、ぼくは背中を丸めていた。
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