ぼくと、加奈ちゃんと、セイナルアカシ
深江浜町
第1話
「……また負けた」
モニターに『YOU LOSE』の文字が浮かび上がり、ぼくは思わずつぶやいた。いったい、これで何回目の負けなのだろう。日付が変わる前から部屋でずっとオンライン対戦をしていたのだけど、三回目からは負けを数えるのをやめてしまっていた。次は勝てる、次は勝てる。そう思いながら続けていたのに、ゲームは言い続ける。お前の負けだ、と。なんだか、勉強机に貼ったポケモンのシールにさえ、そう言われているような気がした。
それなのに、ぼくはとても落ち着いている。どうしてなのだろう、なんの感情もわいてこない。なにもない。そう、なんにもないんだ。前に同じような状況になったときは、怒り狂ったというのに。そのときに破り捨てた漫画は、いまだに床でバラバラになったまま。それを見ても、やっぱり怒りを思い出さない。ぼくはぼーっとすることにした。無に浸るように、コントローラーを手にしたまま、『YOU LOSE』で止まった画面を眺め続けた。穏やかな時間が続く。でも、それは突然やってきた。
急に手がぶるぶると震えはじめてぼくはあれ、と思った。ぶるぶる、ぶるぶる、ぶるぶる。震えはどんどん大きくなっていく。ぶるぶる、ぶるぶる、ぶるぶる。止まらない、抑えられない。突然、頭の底がかっと熱くなった。なにかが噴き出したようだった。それはあっという間にぼくの中を駆け巡っていった。熱い。頭が、耳が、目が。熱い、熱い、熱い。
「ああ……ああ……」
燃えてしまいそうな目の奥で、むかしの記憶が流れてゆく。
ぼくひとりだけが立っている終わりの会。どうしてまた宿題をやってこなかったんだ、しわくちゃな顔をした先生が唾を飛ばしながら責め立てる。なにも答えられないぼく。男の子たちは笑う。それを注意する女の子たちだって笑っている。何度読み返してもわからない問題文。次の問題に答えなさい、次の問題に答えなさい、次の問題に答えなさい、次の問題に、次の、次、つ――。
ツギノモンダイ二コタエナサイ。
「うるさいっ!」
だんっ。自分の叫び声に混じって大きな音が聴こえた。見れば、部屋の隅っこでコントローラーがひっくり返っている。どうやらぼくは投げつけてしまったらしい。どうしようもなく自分がみじめに思えた。バカにするな、バカにするな。それはすぐに衝動に変わった。壊したい、壊したい。いや壊さなければならない。あれはよくないものだ。よくないものは壊さないといけない。つき動かされるようにしてぼくは、足の踏み場が限られた床の上を強引に進み、進み、コントローラーを頭の上に持ち上げて、やめた。急に虚しくなったのだ。コントローラーを埃がかった教科書類の上に放り、スマホの時計を見る。朝の七時半を少し回ったところだった。徹夜でのゲームもすっかり慣れっこだ。
この時間なら大丈夫だろう。お父さんは仕事に出ていてはち合わせることはないはずだ。念のため注意しながら階段を降りたけど、やっぱりリビングには誰もいなかった。
冷蔵庫を開けて飲み物を探す。ない。ぼくは舌打ちをした。そう言えば、昨日でジュースを全部飲んでしまったのだった。飲んでからぐっすりと寝るつもりだったのに。面倒だけれど近くのコンビニに買いに行くしかない。どうしても喉の乾きを潤したかった。お小遣いは……まだ残っていたはずだ。冷蔵庫の扉を閉めようとして手が止まる。どうしてか、缶ビールが目についたのだ。
ぼくがまだ家族とご飯を一緒に食べていた頃、お父さんのテーブルには決まってこれとグラスが置いてあったことを思い出す。グラスを傾けるたび、赤くなっていくお父さんの顔が、ぼくにはひどく悲しげに見えていた。その赤さが、まるで泣いているときのようだったから。だから、そんな顔をしてまでどうしてビールを飲むのか、ぼくは不思議でならなかった。
いつだかぼくは訊いたことがある――それ、おいしい? そうぼくが問うと、お父さんはそっとグラスを置いて、赤い笑顔をこっちに向けた。
――なんだイツキ、お前も飲みたいのか?
――ううん、そういうんじゃないけど。いつも飲んでるから、おいしいのかなって。
――実はそんなにうまくない、って言ったらどう思う?
――え、うそ?
――それが本当なんだ。うまいのは最初の一杯だけで、後はただ苦いだけなんだよ。
――ええ、そんなのおかしいよ。変なお父さん。
ガハハと笑い、ワイシャツの腕をテーブルの上で組んだお父さんに、ぼくは訊いた。
――じゃあ、なんでいつも飲んでるの?
そうだなぁ、とお父さんは首を傾けて、少ししてから言った。
――イツキはさ、学校は好きか?
――うーん、好きでも嫌いでもないかなぁ。友達と遊んでるときは楽しいけど。
――そうかそうか。じゃあ勉強はどうだ? 好きか?
――やだ!
ぼくが即答すると、お父さんはいたずらっぽく笑った。
――算数。
――嫌い!
――夏休みの宿題。
――量多すぎ!
――通知表。
――見たくない!
――じゃあゲームは?
――好き!
――そうだよな、ゲームは楽しいよな。ずっとずっとやっていたいって思うよな。
――うん、思う!
お父さんは残り少ないビールを飲み干して、ぼくに向き直った。グラスの内側で、白い泡が弾けていた。
――じゃあこれが最後の質問だ。
――うん。
――どうしてゲームは楽しいんだと思う?
ぼくはすぐに答えられなかった。そんなこと、考えたこともなかったから。
一生懸命考えていると、お母さんがやってきて、ビールの空き缶とグラスを持っていった。そのエプロンの背中に向かってお父さんが言う――おかわりもらっていいか?
お母さんは振り返った。そして、今日はもうだめだよと意地悪そうに言った。わざとらしく悔しそうにするお父さんがおかしくて、ぼくは質問の答えを考えることを忘れていた。
お母さんが家からいなくなったのは、それから一ヶ月くらい経った後のことだった。
どうしてゲームは楽しいんだと思う、か。今ならなんとなくその答えがわかる気がする。あの頃は、ゲームをすることが楽しかった。勉強がつまらなくても家に帰ってゲームをすればスッキリとした。でも今は違う。ゲームをしてもイライラしてばかりだ。そのイライラを叫んだり物に当たることで、なんとか発散している。
気づけば、ぼくはビールに手を伸ばしていた。でも、すぐに手を引っ込めて、今度こそ冷蔵庫の扉を閉じた。背中を向ける。ぼくはまだ、あれを飲んでいい年齢じゃない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます