第2話





「あーもう、飲みすぎたぁ」


 ほろ酔いのいい気分で、緑子はマンションのエレベーターに乗った。

慣れた指先で5階のボタンを押す。

 今夜は久しぶりに遭った大学での友人と、つい飲みすぎてしまった。

昨夜の出来事が頭の片隅にあって、なんとなく帰りたくなかったというのもあったかもしれない。


 ポーン、と上品な音を立てて扉が開くと、緑子は少し酔いがさめるのを感じた。

今更によみがえった咲夜の記憶に、おそるおそる廊下の様子を窺う。

深夜のそこは、しんと静まり返って人の気配すらない。


 それに安堵してホッと息をつく。

そのまま自室に向かった。

途中、くだんの507号室の前を通ると、ドアがほんの僅か開いているのに気付く。


「……」


 なぜ、と瞳を瞠った。

その視界に、ドアの間に挟まった濡れたスニーカーが目に入った。


「……え!」


 まさか、まさか、まさか……。

すぅ、と冷たいものが足元から這い登る。

まだわずかにアルコールで火照っていた頭の中が、一気に冷めるのを感じた。


 どうしよう。


 由美理に言われたように、通報した方がいいのだろうか。

けれど、あまり関わりたくはない。


 どうしよう。


「……」


 早くなる鼓動を抑えて、緑子はそっとドアに手をかけた。

軋む音ひとつ立てず、上等な作りのドアが開く。

隙間からのぞいた灯りのない玄関は、真っ暗で何も見えなかった。


「……」


 一呼吸おいて、緑子は背筋を伸ばした。

今は空室だったはずだが、もしも不審者が入り込んでいたりしたら、会社の責任問題だ。

社員である緑子には確認しておく義務がある。

 とりあえず確かめるだけ確かめて、何かあれば警察を呼べばいい。


 それだけを心に決めて、緑子は音をたてないようにドアを開いていった。


 スニーカーを跨いで、一歩、中へ。


 背後で閉まりかけたドアは、挟まったそれで止まった。


 玄関から続く廊下、その向こうには解放された扉、奥の部屋へと続くドアの向こう。

家具が何も置かれていないせいで、大きな窓から外が覗けた。


 人工の灯りが、細々と射し込んでいる。


 それでうっすらと床に何かの輪郭が見えた。



 床――空室で、何も置かれていないはずの床に。



「……」


 くらりと眩暈がして、緑子は壁に手をつく。

そのまま、そこにずるずると座り込んだ。

なんだろう、あの床にある黒いもの。


 よく見えない。


 だけどそこから冷気が漂ってくるような気がして、吐き気がした。


 あれはなに、あれは、何。


 ああ、だけど。



 ――たしかめたくない。



「……?」


 冷たい空気。

それは背後からも流れて来ていて、緑子はのろのろと顔を上げ、後ろを確かめようとした。



 うしろ――。



 そっと、いつのまにか開かれていた、ドア。


 立っていた人。


 何かを振りかぶり、躊躇無く振り下ろす。


 ガツ、と鈍い音がして緑子は一瞬だけ赤く染まった世界を見たと思った。


 それが最後の記憶。







 由美理は、手にしたハンマーをそのままに、足元に倒れている友人を見下ろした。


 向かいのビルの看板の人工灯の光が点滅して、一瞬だけ室内を撫でていく。


 それは部屋の白い壁に隙間なくびっしりと書き殴られた、無数の赤黒い文字を浮かび上がらせた。



 あやまって、謝って、アヤマッテ――。



 ハンマーを放り出し、ただの肉の塊になった友人を引き摺っていく。


 奥の部屋に黒々と蟠ったものの上に放り出すと、由美理は部屋を出た。

 スニーカーを部屋に蹴り入れて、鍵を掛ける。


「……馬鹿ね。だから、早く通報しなさいって、言ったのに」


 苦く呟いて、眉を顰める。


 新築のマンション。

すごくお金がかかったのよ。

会社の生死がかかってる。

おかしな噂は困るの。



 ――でも緑子になら、一部屋だけ貸しててあげる。


 永久に。





 少しの間の静寂。

 去っていく靴音。



 由美理は振り返らなかった。




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507号室 春くる与(はるくるかな) @harukurukuru

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