507号室
春くる与(はるくるかな)
第1話
「ちょっと聞いてよ。昨夜すごく怖いことがあったのよ」
その朝、いつもより早くに目が覚めてしまった早川緑子は、30分早く出社した。
既にオフィスにいた、社長であり、高校時代からの友人である桑田由美理をつかまえる。
そして開口一番に、こう言ったのだ。
上司と部下らしからぬぞんざいな口調は、他の社員達がまだいないからである。
なによ、と由美理は笑った。
実家が裕福だったこともあり、由美理はまだ三十代の若さで、この洒落たオフィスを構える不動産会社を興した社長だ。
もともと商才にも恵まれていたのだろう。
今では管理しているマンションは数十棟にものぼる。
対して緑子は、その会社の平社員。
結婚して専業主婦になっていたのが、夫の浮気で離婚。
出戻って就職に困っていたところを、友人の由美理に拾われたのだった。
境遇には随分な差がある。
だが、あまり物事に執着しないおおらかな性質の緑子は、そんなことには頓着していなかった。
おかげで気が強く物事は打算で動くタイプの由美理とは、とても相性がいい。
親友である、と互いに公言して憚らない間柄は、気兼ねのないものだ。
「昨夜、飲みにいったじゃない?部屋に帰ったらふたつ隣の507号室の前に、女が座り込んでてさ……」
「女?」
「鍵でもなくしたのかと思って、どうしたんですか?って、声掛けたのよ。それなら、私があんたに連絡すればいいかなって思って」
「ああ、なるほど……。それで?」
緑子が住んでいるマンションは、この会社の所有しているものだった。
一年以内の新築で、会社としてもかなりの資金を注ぎ込んだ高級マンションである。
そんな場所に緑子が格安で住めるのは、もちろん由美理の計らいだった。
旦那の浮気から離婚、実家にも戻れずにいた緑子を慰める意味もあったのだろう。
こんな部屋に住めるのなら、離婚も悪くない等と緑子は考えていた。
「それが、なに言っても反応がなくて。おかしいなと思って、よくよく見たら……。その女、ドアの前に座り込んで何かの鍵で鍵穴のあたりを、ずっとなぞってるのよ」
「……なにそれ、気持ち悪い」
「でしょ?それにドアの前に、その女のものなのか、スニーカーが片方だけ落ちてて。それがなぜか、ぐっしょり濡れてるの……」
「――その女、実在してるの?」
「やめてよ、私もそれ疑ってるんだから!」
「やめて欲しいのはこっちよぉ。あのマンション、お金かなりかけたんだからね。変な噂立ったら困るっ!」
笑いながら由美理が言った。
緑子の方も、怖いと言いつつ楽しんでもいる。
二人は笑いあいながら珈琲をいれ、由美理のデスクに向かう。
「で、それからどうしたの?」
「怖くなっちゃって……。あわてて自分の部屋に逃げ込んだんだけどね。――その後も、かなりの時間、そこにいたみたい。夜中の三時くらいまで、ギギギ……ってドアを引っかく音が聞こえてたのよね。おかげで怖くて怖くて、ろくに眠れなくって。早く来ちゃった」
「警察呼びなさいよ、完全に不審者じゃないの」
「呼んでみて、誰もいませんでしたよ、て言われたら余計に怖いじゃない」
「管理会社の社員のくせに、だらしないわねえ」
珈琲を啜り、由美理が形のよい眉をしかめる。
緑子は肩を竦めた。
「さわらぬ何とかには祟りがないって言うじゃない」
「ボーナス減らしちゃおっかな」
「ああん、それは困るぅ」
きゃらきゃらと笑って軽口をたたく。
そんな緑子の様子に、由美理も肩を竦めたが。
「――あ、ねえ。507号室って、あそこじゃないの?ほら……半年くらい前に、出て行った……」
「ああ、そういえばそうだわ」
「もしかして、あの時の女が戻ってきたんだったりして」
「まさか……。もしそうだとして、何のために?」
「相手の男が、またあそこに住んでるとでも思ったとか」
「……ありそう」
「やあね。それはちょっと本当に危険よ。復讐とかいって、火でもつけられたらたまったもんじゃないわ。次にもし見かけたら、すぐに通報しなさいよ」
「――そうね」
半年前。
507号室に新しくはいってきた住人は、男女の二人だった。
結婚はしていないようで姓は別だったが、同棲カップルという奴だったのだろう。
彼らが入居して、数日。
その騒ぎは真夜中に突然、起こった。
「あやまって!あやまって!あやまれぇっ!!」
響き渡った怒鳴り声は、女のものだった。
浮気でもされたのか、ヒステリックにわめき散らす声がマンション中に響き渡る。
行き届いた設備が自慢のマンションで、防音もしっかりしていた。
それでも近い部屋の住人が飛び起きるくらいの、凄まじい叫びだった。
騒ぎで目が覚めた緑子は、しばらくは様子を窺った。
下手に介入して大事にしてしまうのも躊躇われたからだ。
しかし、ほどなくして通報を受けた警察が来たことで、事態は収まったようだった。
ホッとして、その夜はそのまま眠りについたのだが。
それから507号室の住人たちは、たびたび、そんな騒ぎを繰り返すようになった。
とくに女の方が癇癪もちであるらしく、昼といわず夜といわず、おかまいなしに騒ぎ始める。
痴話喧嘩ですませるには、あまりに度を越した叫び声が響く事に、さすがに管理会社に苦情が入った。
会社の方から彼らに注意を入れると、契約者である男性の方は、解約を申し出て部屋を出て行った。
ただし女の方とは別の日に引越しをしたので、どうやらそれをしおに別れたらしい。
それが半年ほど前の出来事で、それで話は終わりになったと思われていたのだが。
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