第45話 密偵

 ベニスになんて、辺境伯軍の誇り高い青灰色の軍服を着て欲しくない。かといって、国軍の紺色の軍服だって着て欲しくない。何とも複雑な気持ちだ。

 全ての思い出が偽物だったのだと受け入れるには、楽しかった記憶が私の中に根を張っていて簡単には取り除けない。

 だから、宰相が叫ぶベニスの裏切りは聞きたくない。


「そうだ! そこにいるベニスが、アッカーベルトの指示で王太子殿下の誘拐を指揮したと言っている! それが全てだ! アッカーベルトはこの国を乗っ取ろうとしているのだ! ハインス、お前も軍人なら、さっさとアッカーベルトを捕らえろ!」


 全く動く気配なくガハハと笑っているブライアンに宰相が歯ぎしりしていると、代わりにベニスが父に向かって歩き出した。

 自分の命令に従うことに気をよくした宰相が、ニヤリと口元を歪めた。


「この役に立たずのハインスの地位は、ベニスのものとする! お前の手でその憎き戦闘狂を捕まえろ!」

 宰相がそう叫ぶと、ベニスの歩みはアッカーベルト辺境伯の隣で止まった。


(ベニスはこんなにも浅はかだった?)


 さっきとは状況が逆転していて、ベニスの証言が偽証だと証明するのは簡単だ。そうなれば宰相は「自分はベニスに騙された」と言って、今度はベニスに罪を擦り付けるに決まっている。

 こんな場所にのこのこ現れたら、今度はベニスが地下牢行きになる。宰相なんて見捨てて、さっさと逃げてしまえばいいのに。どうして戻ってきたの?


 辺境伯は冷たい目でベニスを見下ろしている。その凍てつく藍色の目を直視したベニスは、左腕を右胸に置いた……。

 私達全員の目の前で、堂々と父に向かって軍隊式の忠誠を誓ったベニス……?

 宰相だけでなく、私も驚愕で目玉が飛び出しそうだ。


「どういう、ことだ……?」

 喉の奥から押し出したような宰相のかすれ声に、ベニスはニヤリと不敵に笑ってみせた。

「どういうことでしょうねぇ?」

 ベニスらしい人を食ったような喋り方が復活している。


 国王の隣から飛び出した宰相は、ベニスの前に立つと収まらない怒りを爆発させた。

「ふざけるな! お前に聞いているんだ! お前は私が二十年前に、アッカーベルトに送り込んだ密偵だろう? 十年前の失敗だって、温情をかけて許してやっただろうが!」


(二十年前って……)


 私は信じられない思いでベニスを見ると、思いがけず目が合った。ベニスは悲しそうな目で微笑むと、すぐに目を閉じた。


「家族をスヴェン様に殺された俺は、確かに二十年前に宰相の密偵になりました。でもね、スヴェン様は俺が思っていたような戦闘狂ではなかった。民や国を守るためにしか戦わない、家族思いの父親だった」

「……お前、何を言って……? 父親も、二人の兄も、お前の目の前でアッカーベルトに殺されたんだぞ!」


 ドタバタと床を蹴りつけ真っ赤になって激昂する宰相を前にしているのに、ベニスはなぜかチラリと私を見た。

「二十年前はそう思っていたけどな。でも、今は違う。俺の家族は、自分達の利益ばかりを追いかけて愚策しかひねり出せない馬鹿な政治家や国に殺されたんだよ!」


 宰相に向かってそう言ったベニスは、やけに晴れ晴れとした顔をしていた。

 逆に宰相は死人のような顔色で、数時間前とは立場が逆転しているのをようやく理解したようだ。もう立っているのがやっとで、腕はだらりと下がり上半身がフラフラと揺れている。

 二十年も宰相にとって都合のいい密偵だと思っていたベニスが、実は自分を裏切っていた。

 その事実は、宰相の唯一の証拠と身の安全が失われたことを意味する。


「……どういうことだ……」

「どういうことも何もないよ。十年前にあんたの密偵だとバレた俺は、それからはアッカーベルトの密偵として、あんたからの情報を流していただけだ。意味が分かるか? 俺に温情をかけたのは、あんたじゃなくてスヴェン様なんだよ!」

「…………」


 言葉を失った宰相は怒りに任せてベニスに殴り掛かったが、片手で簡単に払われた。力を失いよたよたと後ろに下がると、足をもつれさせて床にベシャリと尻もちをついて倒れ込んだ。


 太陽が雲に隠れたせいで、青空なのに部屋の中に影が落ちて薄暗くなった。それはほんの数秒のことで、すぐ部屋に明るさは戻ったが、宰相達三人に陽の光が当たることはもうない。




 父の怒りのこもった低い声が、執務室を震わせる。

「ベニスから聞いての通りだ。もちろん、今回の計画も事前に知っていた。乗ってやったのは、宰相と国王とクラウスお前らが国を売る愚か者なのかをこの目で見届けたかったからだ」


 三人を拘束した父は執務室のバルコニーの扉を開け放ち、最後の力で抗う宰相達をその場に立たせた。

 バルコニーからは、王城の入り口にあたる大門前の大きな広場が一望できる。祝賀行事がある以外は静かなその広場が、いつの間にか人で埋め尽くされていた。広場に入りきらない人が、大門の外に溢れているのも見える。


 三人がバルコニーに出てきたことで、集まった民衆の怒りと不満が一気に爆発した。広場から一斉に怒声が湧きあがり、城が揺れるほど轟いている。


「売国奴!」

「裏切り者!」

「強欲宰相!」

「役立たず国王!」

「国はお前達のものじゃない!」


 その声をバックに、父が三人に駄目押しした。

「城の外を取り囲んでいたのは、我が軍だけではない。この国の腐った政治に業を煮やした国民達も、お前達に引導を渡しに集まっていた。私を殺したところで、お前達の望んだ未来は永遠に訪れなかった」


 自分達の非難に燃える国民達の怒りを前に、国王も宰相もクラウスも抗う力を失った。

 紙屑のようにクシャクシャになった三人は、国民の罵声を全身受けながら地下牢に連れて行かれた。もちろん見張りに立つのは、青灰色の兵士達だ。

 国軍の多くは宰相に加担したとして、三人と共に仲良く地下牢行きとなった。地下牢がこんなに大賑わいになるなんて、今までで初めてだと思う。




◆◆◆◆◆◆


読んでいただき、ありがとうございました。

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