第36話 疑惑

「このリボンに見覚えは?」


 フィンから渡されたベルベットの紺色のリボンは、去年の誕生日に私がアントンに送ったものだ。イニシャルを刺繍したのが私なんだから、見間違えるはずがない。そう言いたいのに、声が出ない。

 リボンを置かれた私の両手が震えているので、フィンもアントンのものだと確信したのかリボンを回収した。


 状況を説明してくれている間、フィンは冷たくなっていく私の手をずっと握ってくれていた。それでも私は現実を受け入れられず、怖くて怖くて仕方がない。

 アントンは暗殺の危険にさらされていたのに、どうして大丈夫だなんて思ってしまったんだろう? どうして明日もアントンに会えるのが当たり前だと思ってしまったんだろう?


 リズベッドだった時にブライアンに言われた言葉が、なぜか思い出された。


『いつでも話せるなんて思わず、思った時に思ったことを伝えないと後悔するかもしれませんよ?』




 アントンが、消えた。

 朝になって侍従がアントンの部屋に入ると、部屋はもぬけの空だった。

 アントンのいつもの悪戯かと思って部屋中を捜索したけど、どこにも見当たらない。大慌てで外にいる護衛に事情を話して、城中を大捜索したが、アントンはどこにもいない。

 アントンは消えてしまったのだ。いや、消えたんじゃない。誘拐された。

 だって、紺色のリボンで束ねられた美しい金色の髪の束が、ベッドの上に置かれていたのだから……。


 昨日の夜に寝室に入ったのを最後に、誰もアントンを見ていない。窓だってドアだって破られていないし、護衛だってしっかり扉の前に張り付いていた。

 アッカーベルト家の息のかかった護衛が……。




 宰相の執務室ではバチバチと火花散る音が聞こえそうなほどに、宰相とアッカーベルト辺境伯が睨み合っている。

 執務机とソファという結構な距離が空いているのに、ぶつかり合う視線がはっきりと見えそうなほどだ。父の隣に座っている私なんて、はじけ飛んできた火花で火傷しそう。


「部屋も荒らされておらず、事件が起きた気配が何もないんだ! 護衛が関わっているに決まっている!」

「護衛は近衛だろう? なぜ私を呼びつける必要がある?」

「その近衛は、元アッカーベルトの兵士だろう? 上官の命令よりも、よっぽどお前の命令に従うというのは有名な話だ!」


 宰相は自分の執務机を殴りつけて、激昂した。

 父は腕を組んでソファに座ったまま微動だにせず、宰相を睨んでいる。

 私はいたたまれず、気が遠くなりそうだ。


「お前は言っていたな? 『娘の十五年を台無しにした王太子を決して許さない!』と。王太子殿下も、そんなお前を恐れていた。ことあるごとに『アッカーベルトに殺されるかもしれない』とこぼしていたのを、複数の者が聞いている!」

「娘の人生を台無しにされかけたのだから当然だろう? それがどうした?」

「その恨みを晴らすために、王太子殿下を攫ったんだろう?」

「バカバカしい。緊急だというから来てやったが、付き合い切れんな」


 立ち上がろうとした父の周りを、近衛兵や王城警備の兵士が取り囲む。

「ほう? 城の兵士が私の相手をしてくれると?」

 ニヤリと笑う父に恐れをなした兵士達は後ずさる。


「相手は丸腰だ、お前達の敵ではないだろう! 怯むな!」

 士気の下がった兵士達を宰相は怒鳴りつけるが、スヴェン・アッカーベルトは全身凶器のようなものだ。力の差を感じて下がれる兵士達の方が賢い。


 父はわざとらしくため息をついて宰相を見た。

「何の証拠もないのに、私を拘束する気か? 気は確かか?」

「証拠はある! お前の息がかかった護衛が、昨日の夜から行方不明だ。お前の指示で殿下を攫ったに決まっている!」

「その護衛に私が指示を出した証拠は? その護衛が王太子を誘拐したという証拠は?」

 思いっきり右眉を引き攣らせた父は、うんざりした声を出した。


 さっきから宰相が叫んでいるのは、宰相の推測による状況証拠だけだ。

 父がアントンを誘拐した証拠があるのなら、グダグダ言ってないで見せて欲しい! ある訳がない! だって父にはアントンを誘拐する理由がないもの。

 アントンを誘拐したのは絶対に、宰相だ。私達の揺さぶりに焦って行動に出たに決まっている。リズ様を女王にするために、アントンを……。


 万全の体制で準備していたはずなのに、どうしてこんなことに?

 疑問ばかりだけど、今はそんなことを考えている場合じゃない。早くアントンを助けないと!

 こんなところで足止めされている間に、アントンを探したいし、証拠を見つけて宰相に鉄拳を喰らわせたい。もちろん非力な私ではなく、父が!


 カッカする私の前で、宰相が怖いくらいにこやかに笑った……。

 いや、これは笑顔なんかじゃない。完全に何かを企んでいる顔だ。宰相の瞳の奥に、前回も見たゾッとするような冷たい狂気が隠れているのが見えてしまった。

 人を馬鹿にした笑顔を向けられているのに、私の怒りが不安に変わっていく。冷たい汗が背筋を伝って、リズベッドだった私が「逃げろ!」と警告する。


「心配しなくても、証拠はちゃんとあるから安心しろ」


 宰相は勝ち誇った態度で、鷹揚にそう言った。

 その表情は強がりではなく自信に満ちていて、恐ろしさすら感じる。

 宰相の言う『証拠』がどんなものなのかは分からないけど、相当な自信があることだけは間違いないと、あの顔が言っている。


 父がアントンを攫うはずがないのだから証拠があると言うのなら、それは宰相が作り上げた偽物に決まっている。

 偽物にも関わらずここまで堂々と切り札にしているなんて、一体どんな証拠なのだろうか?


 勝利を確信した宰相の態度が怖くて、私はいつの間にか父の青灰色の軍服の裾をギュッと掴んでしまう。不安を隠せない私に気づいた父が、私に向かって力強くうなずいてみせてくれた。


 そんな私達が気に入らなかったのか宰相は舌打ちをすると、扉の前に立つ兵に目で合図を出す。

 扉は私達の真後ろになるため私が扉の方を振り返ると、兵士二人が合わせ扉を開けているところだった。

 廊下から執務室に入ってきたのは……、青灰色の軍服。私が見間違えるはずのない、アッカーベルト辺境伯軍の軍服だ。


(……嘘、でしょ?)


 忙しい父に代わって私達姉弟を助けてくれて小さい頃から兄のように慕ってきた、家族同然のベニスがそこにいた。

 左の目尻から口元まで伸びた傷を歪ませて、険しい目を一本の線にしてニカッと笑うベニスではない。まるで、敵陣が攻めてきた時のような厳しい表情をしている……。


 アッカーベルト辺境伯軍の副官で父の右腕であるベニスが、父を見ることなく横を通り過ぎて真っ直ぐに宰相の下へと歩いて行く。

 そして、宰相の隣に立ち、私達と向き合った……。




◆◆◆◆◆◆


読んでいただき、ありがとうございました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る