現在の試練

第33話 宰相の苛立ち

 その日、宰相の執務室は荒れていた。

 エリセイル帝国から友好の証として送られた色鮮やかな花や鳥が描かれた壺が、怒りで息の荒い宰相によって床に叩きつけられ粉々に割れた。

 その瞬間、執務室で働く者達は自分の存在を消すために、息をするのも止めた。巻き込まれて壺の二の舞になるものかと、全員に自衛が働いた結果だ。


 誰からも目を逸らされている宰相は、肩まであるダークブロンドの髪を振り乱して暴れている。

 青灰色の瞳からは普段の冷静さが消え、怒りで血走り見開かれている。

 スッと通った鼻梁も、鼻の穴が大きく広がり鼻息が荒い。

 白い肌も、怒りで紅潮している。

 冷酷に見える薄い唇は、白くなくなるまで噛みしめられているか、「スヴェン・アッカーベルトォォォ」と恨み言が吐かれているかのどちらかだ。


 執務机に積み上げられていた書類が全て床にぶちまけられたが、一体誰が片付けるのだろうか? 

 神経質な宰相は、書類の仕分けの仕方一つでも小言が止まらない。それなのに宰相が暴れる度に書類が混ざり合っていく。部下はすぐにでも拾い上げて仕分けたいのに、宰相の怒りに巻き込まれたくないから側に寄れない。

 あの書類を順番通りに並べるだけでも、今日は遅くなるだろう。執務室には見えないため息が次々に重なって、疲弊が激しく重苦しさが増すばかりだ。

 部下たちの願いは一つ、宰相が今すぐにでも部屋から出て行ってくれることだけだ。




 王城内では朝から、ある噂でもちきりだ。


「さすが淑女と名高い王女殿下だけある」

「王太子と違って、美しさに品があるものね」

「私はどっちを応援しようかしら?」

「どっちも素敵よね? 迷うわ」

「俺は両方応援するよ。その方が面白いだろ?」


 ゴシップネタは本当に人を惹きつけるし、鬱憤を晴らすのにもってこいな話題だ。

 最近のネタは王太子の卒婚だったが、ゴシップというより心温まる美談の色合いが濃くて好奇心が満たされるものではなかった。

 しかし、今回の噂は、完全に人々の興味を惹きつけるゴシップネタだ。だから、噂に伴う憶測もジャンジャン出回って、噂が出て数時間だというのにとんでもなく大きな話に膨れ上がっている。

 王族の侍女だって、洗濯係だって、大臣だって、下男だって、みんなが同じ話で盛り上がっている。

 今お茶会を始めたら、一週間は終われないかもしれない……。




 王太子の執務室に集まっているのは、アントン、フィン、リズ様、サートン、私の五人だ。

 執務机の上で両肘をついた手に顎を乗せたアントンが、「よくこんなこと思いついたな? 辺境伯、怖い」と怯え顔だ。


「リズ様の婚約に横槍を入れるには効果的だったでしょ? 我が家としたら、宰相にちょっとした仕返しもできたしね。それに我が家に宰相の怒りが向けば、アントンも多少は安全になるんじゃない?」

「リズのことばかりではなく、俺のことも考えてか! いいぞ、名案だ! でかした! さすが、辺境伯だ! 俺は信じてた!」


 満面の笑みを浮かべたアントンは、飛び上がって小躍りした。普段は骨が何本か溶けちゃったかも? と疑うぐらいダラリと過ごしている姿からは想像がつかない機敏さだった。

 ここまで現金だと、怒る気も起きない。


 当のリズ様とサートンはずっと真っ赤になっているが、しっかり隣り合って座っている。昨日まで真っ青だったリズ様の顔色が、一気に薔薇色なのだからいいことをした。

 微笑ましい表情で二人を見ていたフィンが、フッと顔を引き締めて忠告する。


「アントンだって引き続き注意が必要だけど、サートンも狙われる可能性があるからな。気を抜くなよ」

「分かっています。俺が王太子殿下の護衛に入れなくなりますから、アッカーベルトの息のかかった優秀な護衛を配置しました」

「うんうん、俺の暗殺計画がなくなった訳じゃないからな。みんな、気を抜くなよ!」


 気分がよくなっているアントンは私たち一人一人を指差して、気合を入れてくれた……。

 もちろん私達が引きつった笑みでしか応えられなかったのは、言うまでもないよね。




「辺境伯が『アッカーベルト家として、王女殿下の婚約者に名乗りをあげる』と言い出した時には、驚いた」

 フィンがそう言って昨日を思い出して笑うと、サートンも後に続く。

「俺も同じです! 父に急に呼び出されて何かと思えば、『王女殿下をお前に降嫁させるよう、明日願い出る』と言われて俺も驚きました」


 宰相への嫌がらせとリズ様とクラウスの婚約を阻止するために、父が考えたのが婚約に横やりを入れることだ。

 朝一番に国王と謁見した父は、こう直訴した。


「十五年も王家のために身を捧げたルーリーが婚約を解消され、アッカーベルトには王家との繋がりがなくなりました。ここは嫡男サートンに第一王女殿下との縁を結ばせていただき、王家との繋がりを取り戻したい。第一王女殿下の降嫁を願います!」


 我が家としては王家との繋がりなんて一切要らないけど、王家は違う。軍事の要であるアッカーベルトの力を取り込みたい国王は、涎をたらさんばかりに欲を丸出しにした。

 そんな乗り気な国王の隣で、宰相は顔色を失っていたそうだ。宰相は今にも怒りをぶちまけそうに、口をパクパクと動かしていたらしい。

 国王が「降嫁も悪くないな」と言うものだから、宰相も焦って「我が家との話の方が先です」と訴える。それに対して父が、「ルーリーとの婚約は、十五年前からだ」と言い返す。

 是非その場に立ち会って、怒りに身体を震わせる宰相を見物したかった。


 リズ様とサートンの婚約話は保留となったけど、私達としては時間稼ぎと嫌がらせと揺さぶりが目的だから別に構わない。

 宰相の慢心か口約束だけだったのが幸いして、クラウスとの婚約話も正式なものではなくなった。サートンと同様に保留となってくれて、私達の計画は幸先よい滑り出しだ。


 でも、安心はできない。

 この揺さぶりで宰相がどう動くか待っているのだけど……。宰相だって馬鹿じゃない、必ず何か報復措置を取ってくる。それを思うと、不安だし怖い。

 私にアントンとリズ様を守れるのだろうか……?




◆◆◆◆◆◆


読んでいただき、ありがとうございました。

本年もよろしくお願いいたします。

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