あなたと私の成れのはて

フー・クロウ

あなたと私の成れのはて

 涙が出なかった。

 娘や孫がワンワンと泣きながらあなたと最期のお別れを済ませた後、私は花に囲まれて冷たくなったあなたの頬を撫でた。


 悲しくなかった訳ではない、寂しくないはずがない。約五十年近く連れ添った人を亡くしたのだ。胸から色々な感情が溢れ出しているのに、それでも涙は出なかった。


 式も全て終え火葬場へと移動し、成れのはてとなったあなたとの対面は、今までの全てが嘘だったかのように呆気ないものだった。


 もう明日から朝早く起きて朝食を作る必要もないのだろう。

 居間でテレビを観るあなたに熱いお茶を入れる必要もない。出不精のあなたを必死に誘って、ぶらりと二人で散歩に出る必要もない。


 私は明日から自分の為に、自分の為だけに日々を過ごしていけばいい。

 そう、私は……明日から……私は……


「おばあちゃん、大丈夫……?」


 気がつくと、孫のひかりが私の顔を除きこんでいた。泣き腫らした眼で、私を心配しながら見つめている。

 高校生の孫にこんな顔をさせるなんて不甲斐ない。私は必死に口角を上げながら答えた。


「大丈夫だよ。私もあの人も歳だからねえ、自然なことだよ」

「自然なことだけど……当たり前のことだけど、悲しいものは悲しいじゃん……」

「……あんたは優しい子に育ったね。じいさんもあっちの世界で喜んでいるよ」


 そう言いながらひかりの頭を撫でた。


 いつの間にこんなに大きくなったのか。私の膝上までの身長で、必死にチョコチョコ歩いていたのがつい最近のはずだったのに。

 孫の成長に気がつくと共に、時間の流れを実感する。


「あなたも逝っちまうわけだねえ……」


 



 その後数日が経ち、私は一人で生活を送っていた。


 朝六時には起きて朝食を作る。居間で過ごす時はとりあえず熱いお茶を入れる。涼しく、過ごしやすくなった夕方頃を見計らい散歩に出かける。

 なんだ、結局あなたがいなくても何も変わらないじゃないか。唯一変わったとするなら、この大きな家が一人分広くなっただけ。


 よく考えてみると何十年も続けてきた生活のサイクルをこの歳になって変えるなど無茶な話しだ。少し感じる違和感も直に慣れる。

 一人分の食事の準備も、テレビを観る時、外を歩く時、隣に誰もいないこともきっとすぐに……


「おばあちゃーん! 来たよー!」


 玄関先からチャイムもなしに、陽気な声が響いた。そのまま荒々しい足音が一直線に居間へと向かってくると共に、襖が開く。


「ひかり……? 学校はどうしたんだい?」

「終わった! だから来た!」

「部活は?」

「気分じゃないからサボった!」

「サボったって……あんた……」

「おばあちゃん、お腹すいた! 夕飯食べてくから!」


 そう言いながらひかりは雑に荷物を放り、制服のままテレビ前に座り込む。


「とりあえずお茶!」

「まったく、私は世話人じゃないんだよ。ご飯も食べるなら事前に連絡するなりしてくれないと、材料も足りないじゃないか」

「じゃあ、あとで一緒にお買い物行こ! 私、ハンバーグ食べたい!」

「その放漫さ……随分じいさんそっくりに育っちまったねえ」


 "えへへ"と何故か誇らしそうに笑う孫の顔が、若い頃のあなたに似ていた。


 熱いお茶をすすりながらだらしなくテレビを観る姿も、私の話なんか聞かないで自分の話ばかりする無粋さも。

 自分の観たいテレビが終わったタイミングで、"早く出かけよう"と急かす自分勝手さなんかそっくりだ。嫌なところが似てしまったものだ。


「おばあちゃん、見て! もう紫陽花咲いてるよ!」

「……あんたと私は見てるものが一緒なんだねえ。じいさんは、花なんか見やしないからね」

「じゃあ私、少しはおばあちゃんにも似てるんだねー」


 そう笑いながら、ひかりは私の横を歩く。

 私の背丈などとうに追い越していて、歩幅が違う為かペースを合わせようと変な歩き方になっている。そんな不器用さもあなたにそっくりだった。




 それからというもの、ひかりは事あるごとに家に来た。

 学校帰り、暇な休日。帰るのが面倒臭いからという理由で無計画で平気で泊まっていったりもする。


 困ったものだ。あなたのいない生活に慣れようとしたところに、偽物のあなたが住みついてしまった。


「……あんた、そんなにウチばっかり来て。美智子も秀樹さんも心配してるんじゃないの?」

「んあー? おかーさんとおとーさん? うるさいのがいなくて清々してるんじゃない?」

「そうはいってもねえ……」

「おばあちゃん家に来てるだけなんだから心配も何もないじゃんー。それより、おばあちゃん暇! なにか面白いものない?」


 相変わらず人の話を聞かない娘だ。

 いつの間にか、あなたが使っていた湯飲みも茶碗も、箸も布団も、気付けばひかりのものになっていた。

 まあ、それは別に構わない。だが、年頃の娘がこんなにジジババ臭い家に入り浸っているのが、なんだか不憫に思えてしまう。


「こんな古い家に、若者の退屈を凌げるものなんてあるはずないだろうに」

「んー、じゃあアルバム!」

「アルバム?」

「おじいちゃんとおばあちゃんのアルバムが見たい!」


 これまた突拍子もないことを言い出したものだ。ジジババの若い頃の写真なんか見たところで何が面白いのか。何より気恥ずかしく、あまり心よく見せられるものではない。

 ただ、目を輝かせ期待に満ちた表情を浮かべる孫の顔を見て、断るに断れなくなってしまった。


「まったく……倉庫にあるだろうから勝手に見ておいで」

「嫌だ、おばあちゃんと一緒に見る! 持ってくるね!」


 そう言いながら、ひかりは部屋を飛び出して行った。私は溜め息をつき、お茶をすすりながら少し昔を思い出す。


 結婚をして娘が産まれ、娘が嫁いでひかりが産まれて……。

 プロポーズされた時、娘の旦那が挨拶に来た時、初孫が無事産まれた時、あなたはどんな顔をしていたのだっけ。


 朧げに浮かぶあなたのあの頃の顔が、私の胸に何かを訴えかけてくる。それと同時にドタバタと足音を立てながら、やかましくひかりが戻ってきた。


「おばあちゃん、あったよ!」


 そそくさとひかりは私の隣に座り、持ってきた赤いアルバムを広げた。


「わー、おじいちゃんもおばあちゃんも若いねえ! おじいちゃんこう見ると結構男前じゃない?」

「顔が良かろうが中身はロクなもんじゃなかったよ。頑固で、自分勝手で、どれだけ私が振り回されたことか」

「へえ、おじいちゃん最低だねえ」

「性格はあんたそっくりだよ」


 ひかりは都合の悪いことは聞こえませんと言わんばかりに、私の発言は無視してニヤニヤしながらアルバムのページをめくっていく。


「でもさ、見てよ。どの写真もおばあちゃん笑ってるよ」

「……思い出くらい笑顔で残そうと必死だったんだよ」

「幸せじゃなかったの?」

「さあ……どうだろうねえ」


 本当はそんな問いかけの答えはわかっていたが、はぐらかした。

 孫にノロけているようで恥ずかしい。自分に素直になれない。そんなくだらない建前はいくつもあるが、答えなかった本当の理由はきっと別にあったのだろう。

 

「ねえ、おばあちゃん。これはなんの写真?」

「……これは、新婚旅行だねえ。伊豆に行ったんだけど、あの人予約した宿を間違えてねえ。全くもって情けなかったよ」

「じゃあ、これは?」

「あんたのお母さんがお腹にいることがわかった時だね。あの人あたふたして、"何すればいいのかわからない"っていきなり写真撮り出したんだよ。……バカだねえ」

「じゃあねー、これは? ……おばあちゃん?」


 ひかりが私の異変に気づき声をかけた時には、今まで溜め込んでいた何かが一粒一粒水滴となり、私の両目から溢れ落ちていた。

 その様子を見て、今まで能天気に笑っていたひかりは一気に顔を青ざめさせる。


「ご、ごめ……おばあちゃんごめんね! 私、無神経だったね! すぐしまってくるから!」

「……ねえ、ひかり。これ以上にない幸せな日々だったのに、忘れてしまうものだねえ」


 そう話しながら、私はアルバムを手に取りパラパラとめくっていく。


 思い出と共に、私の中にあなたが少しずつ駆け巡る。くだらない日々が。確かにそこにあった温もりが。終わる事なんてないのだと思っていた幸せが。

 

 そして冷たくなってしまったあなたの顔が。


「私はね、最期を見ても涙が出なかったんだ。

こんなに幸せだった日々の成れのはてが、こんなに呆気ないものだなんて思わなかったんだよ。ただ虚しくて虚しくて、涙を流すことさえ出来なかったんだ」

「おばあちゃん……」

「ありがとうね、ひかり。私はやっとあの人が亡くなったことを悲しむことができたんだよ。だから……」


 話しの途中で、私の手に温もりを感じた。


 少し震えながら力強く握ってきた孫の手は、私の手よりも少し大きかった。

 ひかりの顔を見ると、目に涙を溜め込みながら真っ直ぐに私の情けない目を見つめていた。


「ねえ、私おじいちゃんにそっくりでしょ?」

「……そうだねえ。いいところも、悪いところもそっくりだよ」

「じゃあ、私のこと大好きってことだよね?」

「当たり前じゃないか。私は頑固で自分勝手で、誰よりも優しいあんたが大好きだよ」


涙を浮かべながらも、ひかりは私に笑いかける。


「おじいちゃんとおばあちゃんの日々の果ては虚しくなんかないよ。私はこんなにもおじいちゃんに似てるし、おばあちゃんにも似てる。散歩に出たら花も見るし、特製ハンバーグの作り方だって覚えたよ。おじいちゃんとおばあちゃんが紡いでいった成れのはては私だから……おばあちゃんが大好きな私だから。安心して沢山泣いてよ」


 不器用な孫が必死になって紡いだ不器用な言葉達が、どうしようもなく私を優しく包んだ。

 温もりを感じながら、私は年甲斐もなく涙をこぼし続けた。

 ひかりはそんな私の手をいつまでも繋いでいてくれた。




 その夜、ひかりはいつものごとく帰る素振りも見せず、当たり前のように寝巻きに着替え始めていた。

 もう何を言っても無駄だと察した私は、自分の布団を敷き電気を暗くする。すると、ひかりが私の布団に猫のようにサッと入り込んできた。


「あんたの布団はあっちだろうに……」

「今日は一緒に寝るの。もう決めたの」

「はいはい。好きにしな」


 まるで幼な子のように、ひかりは甘えてきた。私が背中を向けて寝ていると、それが気に食わないのか"おばあちゃん、おばあちゃん"と何度も呼びかけ、背中をつついてくる。


 なんとも可愛い娘に育ったものだ。へそ曲がりの私にこんな孫娘が出来たのは奇跡に近いのかもしれない。


「ねえ、おばあちゃん」

「まったく……うるさいねえ。なんだい」

「私もね、面倒臭くて素直じゃなくて、でも誰よりも優しいおばあちゃんが大好きだよ」


 私は何も言葉は返さずに、向けていた背を返しひかりの方を向く。

 そして、しわくちゃな手でひかりの頭をできる限り優しく撫でた。

 "へへへ" と嬉しそうに笑うひかりの顔は、やっぱりあの頃のあなたによく似ていた。







 月日が経った。

 私は今病院のベットで愛する家族に囲まれている。もう目も見えない。呼吸も苦しい。あとは、そこまで近づいてきている最期を受け入れるだけだ。

 意識が薄れゆく中で、声が聞こえてきた。


「おばあちゃん! おばあちゃん!」


 いつものやかましい呼び声と共に、手から確かな温もりを感じた。


 あなた、見てるかい? 大好きなあなたとの日々の果てにはこんなにも温かいものが紡がれていたんだよ。

 虚しくなんかない。きっとこの温もりは、その先もずっと繋がっていく。私とあなたが一緒に生きた証は、ちゃんと繋がっていく。

 だから私は…………






















「律儀に待っててくれたんですか? 珍しい」

「……待ちくたびれたよ。さっさと、熱い茶でも入れてくれ」

「はいはい……あ、そうだ。あなた」

「何だ」

「私の人生は最高に幸せでしたよ」

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