私は彼女を殺してしまった

中州修一

私は彼女を殺してしまった

富田紗枝は海沿いの街で、保育士をしている。親切で人望に厚く、学生時代には勉学や運動において非凡な才を持ち、また職に就くと、仕事に対する情熱も人一倍だった。

保育士である母の姿を見て育ち、わき目をふることなくこの道の奥深くまで踏み入った。気がつけば責ある仕事も引き受けるようになり、後輩に指導することが多くなる頃には、時として10年が経過していた。

優秀で職に愛着を持ち、人柄故に人望が厚い。しかし富田は毎日を充実と捉える一方で、仕事に対してしこりを持つことが多くなった。

それは、かつての友人たちとの再会し、何となしに世間話をした時に現れる。生まれた地から一度も外に出た事のない富田にとって、久しく出会う旧友と話をする時間は異世界との出会いでもあり、自身が選ばなかった未来の可能性への気づきでもあった。

かつて自分よりも成績が振るわない者が、立派な大学を卒業して、地元の外で家庭を持つようになっていたり、他にも世界を股にかけて仕事をしている者、事業を立ち上げ成功している者など、最初は関心深く聞いていた富田も、ついには彼らを嫉視してしまうようになった。素直に再会を喜べなくなった彼女は不可視で、不気味な何かに付き纏われ、後ろ髪を掴まれながら子供たちに接していた。


翌年。富田と親しい仲で、東京で教鞭を振るう大志は彼の父の訃報を受け、葬礼のため数十年ぶりに帰省していた。

香を炊き縁遠くなってしまった親戚と世間話をした後、余暇を持て余した大志は、昔気に入っていた観光名所の近辺を散歩に出た。父を亡くした悲しみが最初のうちは彼の心を蝕んでいたが、暫く歩くうちに、視線は足元から行き交う人々やこの懐かしい景色へと移っていった。

彼は意識しないうちに、この街を懐かしむ気持ちを誰かに分けたくなった。妻と子供を抱えてからは地元に帰ることができなかった大志は、人並みのどこかに旧知の友人を探すようになっていた。

その内、学生の頃よく利用していたカフェが左手に見えてきた。路地沿いがガラス張りになっていて、赤い屋根は塗装が剥がれつつある場所。富田との思い出が全てがそこにはあった。


彼は店へ入ろうかと足を踏み出したが、しかしすんでのところで身を翻し、元の方向へと流れる。1人で訪れたところで、刺激的で充実していたあの頃に戻れる訳ではないと考えた為である。

そうしてカフェを横切ろうとした。しかし、視線はそのカフェのガラスへと向かい、ガラス越しに彼女を捉えてしまう。目に入った瞬間、彼女もまた、こちらに視線を向ける。互いに目があった途端、互いに皿のように丸く目を開き、富田だけすぐさま視線を下へとやった。「あぶないところだった」彼女の口からそんな言葉が聞こえてくるようだった。そして大志は暫く立ち止まっていたが、やがて我慢できなくなり、道を引き返してカフェの扉を乱暴に開き、その懐かしい顔に向かって声を震わしながら言った。

「久しぶり」


「久しぶりだね」捻り出すように答えていた彼女の、静かだが確かに凛と響く懐かしい声とその顔を見て、彼は否応なしにこのカフェでかつて過ごした、彼女との思い出が胸の奥底から溢れ出してきた。

大志は父を亡くしたと知った時とは違った、胸の違和感を感じた。彼女の私をとらえる瞳には、懐かしむと同時にどこか畏怖の情を湛えていた。かつての富田とは違う、消えてしまいそうな風貌に、ここで当たり障りなく別れてしまったらもう一生会えないなではないかと彼の直感はそう叫んだ。


彼は彼女の隣へと腰をかけ、しかし初めは取り留めのない話をしていた。大志の職の話、子供と妻の話、ここであった思い出話。しかし、大志の話を聞くに連れてどんどん顔に影を落としていく富田に対して、ついにいたたまれなくなり聞いてしまった。

「何かあったのか」

またそれを問われた彼女は、急に笑顔になって知らない風を装ったが、思い当たる節があるようで、だんだんと俯きがちになり、か細い声で次のように語り出した。


今から半年ほど前、今みたいにカウンターに座っていると、高校時代に交際を持ちかけてきた男性と再会した。彼は私のことを覚えてはいたが、私は名前を言われるまで気が付かなかった。

彼は高校時代は進路に悩んでいたが、卒業したあとすぐに東京へと進学した。彼はそこで芸能の世界に興味を持ち、現在では舞台俳優として幾つか役をもらっているらしい。

決して安定もせず、裕福な暮らしをしているとは言えなかった。しかし、私の目の前で嬉しそうに夢を語り、追い続ける彼を見ていたら、私の人生で積み上げたものに対して何か遠く及ばないものを感じてしまったんだ。それは夢とか、目標とか、そんな表面的なものではない。

私は本当に私の意思でこの道を選び現在まで生きてきたのだろうか。

彼だけではない。ここ数年、親しかった人たちと話すといつもそのことが浮かんでは、自分の胸中を荒らしてくるようになった。みんなと話すと、胸にぽっかり穴が空いたような感覚になる。

もう引き返せなくなった場所まで歩いてきて、今まで自分の道だと思って歩いてきた道が、実は自分のものではなくなったと知らされたかのように、段々と私は私がなんなのか分からなくなってしまった。もし私も地元を抜け出して、何かしらの可能性に触れることができたのなら、なんて考えた日には、後悔という言葉では表せないほど悔恨が胸に突き刺さってくる。そして母や父、この道に誰かが追いやったのだと疑心暗鬼になり、周囲の人のせいにしてしまう自分自身が醜く感じられた。


富田はただ淡々と語り続ける。しかしそれらはたった今纏まらない考えをだらだらと述べるのではなく、整然としていて、状況を示すために一つ一つの言葉を丁寧に選び抜いていた。

彼女はただ俯いていたが、ふとまっすぐと顔をあげ、行き交う人並みへと目を移した。大志も同じように目を移すと、観光に来た人たちがポツポツと右から左、左から右へと流れていく。彼女はその人たちを見ながら言葉を続けた。


ただ、こうしてこのカフェで1人で考え続けて、この悩みから解放される一つの方法が浮かんだ。それは、この今更暴れ出したこの野心を、環境に埋もれさせて殺す事だ。

無垢な子供たちと接する時だけは私は私の中で暴れる情動を忘れることができる。あそこでなら、私が私であることを認めてくれる人がたくさんいる。私も余計な事を考えずに働ける。そしてこのまま惰性で働き続けば、いつかきっとこの感情すら忘れて、楽になれるだろう。


大志は、次第に迫力を帯びる富田の言葉に気圧されながら聴いていた。やがて彼女は自らを嘲るかのように笑った。


さっき、私の選んだ道じゃないってさっきは言ったけど、考えようによってはこれこそが私の道なんだって思うときがあるんだ。

私はずっと、この仕事しか見てこなかった。見られなかった。他を見れば、私が私では無くなってしまう気がしたから。それに、この夢を掲げていれば親からは賞賛と安堵がもらえて、周囲の人間には私が私であることを証明できていた気になっていたから。

でも、そんな風に他人に依存して小さな自尊心を満たし続けた結果がこれだよ。自分の意見は持たず、他人の意見しか聞き入れなかった。自分が選んだ道だったつもりが、本当は無数の他意によって築き上げられたまがい物だったんだ。


大志は途中から呼吸を忘れて彼女の言葉に聞き入っていた。彼女はずっと1人で話していたが、不意にこちらを見て、大志の顔を見つめながら言う。


大志に一つだけお願いがある。ここで長い時間一緒に過ごした大志に言って欲しい事がある。私の夢はこの道を歩む事だったんだって言って欲しい。私が私を見失う前に、あなたに私の夢は今の私だったって。そうしたら私は、いつもみたいに笑って子供達の前に立っていられる。この気持ちを忘れるまで押さえつけることが出来る。

この自分の行き場のない気持ちを周りの人にぶつけなくて済むから。子供たちや両親を嫌いにならなくて済むから。


ガラス越しの景色は段々と暗がりを見せ、大志が帰らなければならない時間が近づいてきた。


しかし、大志は何も言わずにいた。何も言えずにいた。

富田に憧れ、彼も教育の道を目指した。彼女の隣にたっても遜色ない男になろうと誓い、この地を飛び出した。だからこそ、大志にとって、かつて好意を寄せていた、憧れていた彼女とは違う、現在の彼女は見るに耐えなかった。富田の望む言葉をかけるということは、即ち大志自身の夢をも否定する事になる。


不気味な沈黙が2人の間に落ちた。お互いの視線もだんだんと元の窓ガラスへと戻っていき、やがて大志だけ、下を向いて静かに肩を振るわせ始めた。

「ごめんね」富田は静かに言うと、次の瞬間、彼女はやけに明るい声で、自嘲的に笑った。


本当は、あの頃言うべきだったんだよね。私が何も考えず、変なプライドを持って就職する前にさ。


大志はもう、富田の言葉を聞いてはいられなかった。あの頃の彼女を表面しか掬って見られなかった自身の未熟さと、大志自身の道を示してくれたかつての彼女を崩していく目の前の女に。彼は怒りにも似た、強い悲壮感が全身に縛り付いていくのを感じた。


最後に、私はもう帰るから、窓に映る私の姿を見ていて欲しい。今のこんな私じゃなくて、大志が目標にしてくれていた、あの頃の私に戻って、これ以降ここには戻らないでおこうって思ってもらいたい。


大志は辛うじて首を縦に一回振ると、富田はゆっくりとカウンターから離れた。店の外に出る音を聞いて、大志は顔を上げる。右手側から姿を現した富田はこちらを振り向き、あの頃のままの顔でこちらに手を振ると、人並みへと消えてゆき、大志はもう彼女の姿を見ることはもうなかった。

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