第3章 働かぬもの、食うべからず

 ああ、これは夢だ。


アールにはわかっていた。


 最初の記憶はアールがすべてを失った日のこと。

幼い自分の手を引いて、時には抱えて、彼女は走ってくれた。

そうしてどれだけ逃げただろう。ようやく落ち延びたのはこの国の最果て。

彼女は私に仮面を被せた。

それは私を守るため、二度と奪われないため。

いつまでも母のように思っていた。人目を忍んで、時には無理をして会いに行った。

彼女もいつも柔らかな笑顔で出迎えてくれた。それは確かにささやかな幸せな日々だった。


まるで穏やかな日々から逆流するように記憶が呼び覚まされる。

血のように赤い世界。そこら中に倒れた家族と、血だまり、その真っただ中に立ちはだかった一人の少女が私を見つめている。

そのか弱くて白くて小さな手が、私に手を伸ばす。嗤い、ながら。


みんな死んだのに。

どうしてお前だけ――。



「はあっ、はあっ……」

彼女が荒い息をつきながら目が覚めたのは見知らぬ部屋の柔らかい寝具の上だった。

近くに置いてある自分の武器をお守りのように抱き寄せると、アールは息を整える。

「大丈夫……」

自らに言い聞かせるようにそう呟く。

もう何度も見た夢だ。

ただの夢。

……いつもと違うのは。

彼女がもう、どこにもいないということだった。



「何だこの服は」

「メイド服だ」

カルヴァではない女たちに色々もみくちゃにされながら着せられたのは、妙な服だった。

「まあ、可愛らしゅうございますわ」

後からやってきたカルヴァがにこにこ答えてくれるが、ちっともうれしくない。

「だから、なんなんだこれは!」

「色々調べては居るんだがな。母上の考えていたことが何か判明するまで日が掛かるんだ」

「……つまり?」

「お前、これから俺の身の回りの世話をしろ。その為の服だ」

「な!?」

「ブラン、何もアール様にそのような」

険悪になった雰囲気におろおろしながらカルヴァがとりなすが、ブランディールに何かを耳打ちされすぐに満面の笑みを浮かべる。

「まあ、そうなのですね」

「一応、な」

何をこそこそと言っているのか分からないが、カルヴァまで丸め込まれてアールは途方に暮れた。

「何を言っているんだ」

「じゃあお前、まさかただ飯食らいをするつもりなのか?」

「ぐっ……」

普段からお役目大事が身についているアールだったから、それ以上逆らうことも出来ずに彼女は呻いた。

「……何をすればいい」

「身の回りの世話だよ。掃除洗濯、肩揉みなんでもござれでやることだな」

「……警護や射撃は得意だが」

「生憎ここは平和でな。俺を狙うような輩はおらん」

「うぐ……」

自分の私室の掃除や洗濯などはやったことがあるが、他人のものなど触ったことがない。

それが男であるなら尚更抵抗があった。

そんな様子のアールを面白がるようにブランディールが鼻を鳴らした。

「心配するな。大したことをやらせるつもりはない」

「それは助かるが……」

「ただ面白いからやらせるだけだ」

この男はっ……!

まるで玩具でも見るような目で男は笑った。

悪趣味な男だ。

こんな見てくれのメイドを侍らせていては、王家が乱心したと思われるではないか。

「カルヴァ、何とか言ってくれ。君の夫だろう」

アールの言葉に二人は急にきょとんとしたかと思うと顔を見合わせる。

「ぷっ」

「あら」

くすくすと漏れる笑い声。

いったい何が可笑しいのかと困惑するアールにカルヴァが説明を始めた。

「説明が足りなくて申し訳ありません。私はブランの従姉妹にあたります。彼とは兄妹のようなものですわ」

「従姉妹……?」

「何を早とちりしているのやら」

くつくつとまだ喉を鳴らしているブランディールは何故か嬉しそうである。

「しかし、従姉妹だとしても結婚できるのでは……」

言い訳のように口にするアール。

「気になるか?」

「馬鹿な。……くだらない話をしている暇があるなら、何か指示してもらいたい」

「結構やる気じゃないか」

「世話になるのだから、多少は我慢しよう。ただし、期待はするな」

半ばやけっぱちで彼女はあたりを見回した。

特に散らかっているわけでもない部屋だが、何をすればいいのやら……

「まずは肩でも揉んで貰おうか」

「力仕事だな。任せろ」

アールは指を鳴らすと、執務机に座った彼の後ろに回って肩に手を触れた。

「お前。熱い手だな」

「体温が高いんだ我慢しろ」

「いや……」

彼の肩は思っていたよりがっしりしていたが、ところどころ妙なこりがあった。アールは自分がいつも痛いと思うところをやわやわと押し始める。

「なかなかやるじゃないか」

「少しは黙ったらどうだ」

思えばここに来てから、生まれてから今までで一番他人と会話している気がする。

最初は口がぎこちなかったり、声が掠れていたものの、思ったよりちゃんと話せるものだ。

それも時々、リッツェが自分と話をしてくれていたからだろう。


リッツェが、いたから――

「鼻声だな」

鼻をすすったアールに、ブランはそう言った。

昨日泣いた事を気取られそうで彼女はうまく答えられない。

一晩経っても、思い出すたびに目尻に熱いものがこみ上げてくる。

彼女が死んだなんて。

まだ、信じられない。

「……」

「なかなかよかったぞ」

しばらくたった後、ブランは肩もみを止めた。どうやらこれから公務があるらしい。

「その調子で夜を頼みたいところだが」

「ふん、仕方あるまい」

「ぶっ」

急に吹き出したブランディールは心底おかしそうに笑い声を上げた。

「?」

「ははは、お前、まるで箱入りだな」

「何だって?」

「まぁお二人ともすっかり仲良くなられて」

どこをどうみたらそう見えるのか、感動したようにカルヴァが瞳を潤ませる。

「俺はこれから仕事だ。おとなしくしてろよ」

「私が城内を案内しますわ。ささ、参りましょう」

「む……」

追い払うようにひらひらとブランに手を振られ彼女は部屋を後にした。カルヴァに案内され、まず城の入り口まで戻る。

「まず、入り口から。昨日はこちらから入ったでしょう?」

「ああ」

「まっすぐ絨毯を奥に進むと謁見の間。玉座がございます」

「なるほど」

「次、左手が食堂、そして侍女達の部屋。右手に進めば兵士と給仕の部屋。そして最奥が先程行ったブランの部屋ですわ」

思ったより部屋数が多そうなので途中でメモを取ることにして、カルヴァにペンと紙を借りる。

「階段を上がって二階のまっすぐ奥にすすむと、図書室になっています」

「本があるのか?」

「ええ。まずそこへ行きましょうか?」

こくり、と頷くと彼女に連れられ階段を上る。すれ違う侍女たちが一瞬ぎょっとした顔でこっちを見るのが分かった。無理もないことだ。

自分ならこんな風貌の者が自分の職場に居たら即捕まえる。

それにメイド服を着せようというのだから、ブランはよっぽどの変わり者だろう。

図書室にたどり着くと、そこはとんでもない量の本に埋め尽くされていた。

「すごい……!」

これだけの図書室にはお目にかかったことがない。

所長であったリッツェの部屋ですら、この量の十分の一の量しか無かった。

思わずふらふらと本棚に近寄ると、その中のひとつを手に取ってみる。

だが悲しいかな、その中に並んだ文字は彼女が知るものとは大きく違っていた。

「私の国の文字と違うのだな」

そもそも、閉ざされていた世界の向こう側なのだから言葉が通じるだけでも奇跡なのかもしれない。残念そうに呟いたアールにカルヴァが優しく微笑みながら言った。

「アール様は本がお好きなのですね」

「……あの施設での娯楽は本くらいしかなかった」

「ではまずこの本から始めませんか?」

一冊の本を手に取ると、彼女はアールにそれを手渡した。

「これは?」

「文字の本ですわ。きっと読めるようになりましょう」

ここにどれだけの期間居ることになるのだろう。

どうせ帰れない、と彼は言った。それがどういう意味だったのか、彼女には分からない。

(別に、帰る場所もないけど)

リッツェが死んだなら、もうあそこに居る意味も無い。そして、帰れる場所も。

「……読んでみる」

また、所長のことを思い出して目頭が熱くなってきたアールは声をかみ殺してそれを隠した。

「近いうちにまた来ましょう」

「ああ」

その後もカルヴァに連れられてアールは城内を散策したのだった。


それから、ブランディールの世話をしつつ一週間が経った。

何故か彼女をここに連れてきた張本人のヴァンには一度も会えていない。

いろいろと聞きたいことがあるので何度かカルヴァに尋ねたが、

「今少し遠方に居て」

と言われ肩透かしを食らったような気持ちで過ごしていた。

彼女は仕方なく、時間の合間をみつけては足しげく図書室に通っている。

もうじき夕刻になるが、カルヴァとブランは昼食時に二人とも公務があると言っていた。

王族というものは大変なのだな、と他人事のように思いながらたまたま手に取った一冊の本をめくる。

一文字一文字、単語を辿りながら読み進めると、それはどうやら御伽噺の本のようだった・

「あるひ、かのじょはいいました。このよでいちばんうつくしいもの、それをさがしにいくのだと」

朗読のように口に出してみると、たどたどしい言葉が不思議と文章になっていく。


それは彼女が知らない世界の物語だった。

アールの国には、常に自由など無かった。王族が支配し、民はそれに従うだけ。

従わなければ、死ぬだけ。それに理由などない。

きれいなもの、うつくしいもの、そんなものは貴族しか手に出来ない。

……この国は平和なんだろう。

「かのじょがよみちをあるくと、きらきら、きらきら、ほしがといかけます」

ほし?ほしってなんだろう?

頭を捻るが、分からない。リフェルローアにはそんなものは無いからだ。

(問い掛けるというからには、生き物なのか?)

「あなたはなにをさがしにいくの」

不意にぱちぱちと拍手が聞こえてきて、アールは身構えた。「誰だ!」

いつもなら持ち歩いているはずの銃は危険だと言われ、先日ブランに取り上げられてしまっている。

何の武器も持たないというのはどうも心もとない。

だが、薄暗い廊下から現れたのは敵などではあるはずもなく、この城の主たるブランディールその人だった。

「……なんだ。お前か」

「ここがずいぶん気に入ったんだな」

「この量の本にはお目にかかったことがないからだ」

「まさか一週間で読めるようになったのか?」

「いや……分からない単語が多すぎる」

アールはひざの上に単語の本を広げながら朗読をしていた。

子供向けであろう単語の本には絵柄が付いていて分かりやすくなっているのだが、そもそもあっちの国に無いものは何なのか理解することは出来なかった。

「どれ、貸してみろ」

「お前仕事は」

本を取り上げてブランディールはアールの隣に座った。

「後はほっといても平気だろ」

「ずいぶんな王様だな」

「ここか?まだ最初のほうじゃないか」

そう言いながら彼はアールが読んでいた箇所を再び読み上げた。

「彼女が夜道を歩くと、きらきら、きらきら星が問い掛けます」

普段の嫌味な口ぶりではない、子供に言い聞かせるようなその話し方が妙に優しくて、アールは何だか居心地が悪くなった。

「ほしとはなんだ?」

ああ、とブランディールが頷いた。

「お前の国、月も太陽も星もなかったな」

その言い方が少し妙だったが、きっとヴァンに伝え聞いたのだろう。

「御伽噺よりも先に地学とかやったほうがいいんじゃないか」

そう言いながらも彼は星について説明してくれた。いつも空に浮かぶ光の粒、あれが星というものらしい。その後さらに、続きを読み始める。

「貴方は何を探しにいくの?聞かれた彼女は答えました。この世で一番美しいものを探しに行くの、と」

「……」

「それは神々しいもの、誰も見たことが無いもの、けして燃え尽きないもの、光輝くもの、握りしめることができないもの……」

「なんだそれは。そんなものあるわけないじゃないか」

ぷ、と笑いながらブランはアールに答えた。

「それがあるんだなあ。だが、お前にはまだ早い」

そこでぱたん、と本を閉じるとそれを彼女に突き返す。

「少し外に出るぞ」

「なぜだ?」

「見たほうが早いだろう?」

「何を」

「星だよ星」

彼に促されテラスから外に出ると辺りは赤い光に包まれていた。

ブランディールが言うには、この国には太陽と月というものが同時に存在しているらしい。

「あれが太陽、そして月。こっちに来た時にも見ただろう」

「ああ」

何度見てもそれは神々しく、どこかぞっとするほど美しい。

「そしてあれが星だ」

そこら中に散らばる光の宝石。星は、朧げな小さな光を放っていた。

「……」

その美しさに声も出せずにアールは立ち竦んだ。

彼女の様子に小さく笑ったような声を出してブランディールが言う。

「ここからだぞ。本当に美しいのは――」

太陽の赤い光が少しずつ和らぐと、やがて欠けるように一気に光が収束し、それに反応するように月が淡く白く光り輝き始める。まるで朝と夜の交代だ。

太陽は先ほどより存在感を失い、世界が闇色に包まれる。そして星は月の光とともに優しく寄り添った。

「……どうだ?美しいだろう」

「うん……」

呆けたように彼女は呟いた。不意に瞳の奥に熱いものが込み上げる。

「あの星が……語り掛けるのか?」

「比喩だろう」

「……そうか」

太陽も月も美しいが、彼女は星を見たときに何故かリッツェを思い出していた。

柔らかく温かい光。あの世界にはない輝きが、そこにはあった。

それがまるで、今まで彼女を包んでくれたリッツェのようで――。

「そろそろ夕飯にしよう」

「ああ」

城内に戻る直前に、一度だけアールは振り向いて空を見上げる。

星はまるで彼女に語り掛けるように、小さく瞬いた。

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アティリスの扉 河瀬鳴月 @natuki_kawase

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