第2章 紅き血の王
少年はこう言った。
『扉を開けるのに、それぞれの王族の遺伝子情報が必要』なのだと。
…つまりは、彼は私のことを王の血族だと知って来たのだ。
扉を開けるため、と言って彼はアールの髪の毛を部屋の台の筒のようなものに入れた。
数分後、妙な機械音と共に前の扉があっけなく開かれる。
だが其れはアールが来た扉とはまた別の扉であった。
「此処から先は別世界だよ。さあ、おいで」
「…」
暗い闇の中に飛び込んで行こうとする少年に、後ずさりするアール。
「一度入ったら、向こう側にしか出られないシステムなんだ。また後で戻ればいい」
「…だが、その世界が安全である保障は無い」
「見たくないのかい?自由な世界を」
その言葉に、彼女の心と身体は強く震えた。
帰っても、常に追っ手に怯える日々が待っているだけだ。
好奇心と、恐怖心が心の天秤に掛けられて踊る。
失うものなど、もうこの身以外には…
「自由…?」
「宗教の自由、職業の自由、そんな国を」
そんな国が在るのだろうか。
『神の子』に逆らって、死んで行った人たちが生きられるような世界が向こうにはあるのだろうか?
「行こう」
その手を取れば、もう戻れないのだろうと何となく気付いては居たが、アールはやがて恐る恐る自分の手を重ねた。
「行くよ…舌噛まないように気をつけて」
少年に引っ張られ、彼女はぶわっ、と扉の中の闇に飛び込む。
闇夜よりも深い黒、何の光も見えない暗闇の中で、その手の感触だけは確かに存在していた。
舌を噛まないように、と注意を受けた時点で気付くべきだったかもしれない。
闇の中に飛び込んだ直後、強い重力を受けてぐん、と体が下へと引っ張られる。
地面が無かった。
要するに落下しているのだ。
「落ちてるぞ!」
「しゃべらないほうがいいよ」
慌てたアールとは対照的に少年は至極冷静だった。
やがて闇の霧を抜け、風圧とともに風景が変わる。
そら。
空だった。
だがそこには、彼女が見たことのないものが浮かんでいた。
「なんだ、あれは……!」
大きく輝く、赤くて丸い火の玉。
反対に青白く輝く、細い弓のようなもの。
そして粉のようにちりばめられたきらきら光るもの。
美しかった。
そして同時に、ひどく恐ろしくも思えた。
白く渦巻く雲の隙間から、まるで神々が姿を現したかのようだ。
「……ああ、君達には太陽が無いんだね」
「タイヨウ?」
少年はアールの手を握ったまま、こちらを向いて寂しそうに笑った。
「ほら、あれは月だよ」
少年が指差したのは青白く輝く弓。
彼女の知る空には、少なくともあんな巨大なものは浮かんでいない。
リフェルローアではただ灰色の空が広がるだけだ。
「もうすぐ下につくよ」
落下速度が少しずつ緩むのが分かって、彼女は下と言われたほうを凝視した。
そこには小さい粒のようなものが幾つも見えた。
動いているところを見ると、どうやら生き物らしい。
「仲良くやれればいいけど」
「なに?」
「……いや、こっちの話さ」
地面に近付くにつれ、小さい粒が段々と大きくなっていく。
それは皆人の形をしていた。
その中に燃えるような髪の色をした男が立っている。
男は何かに気付いたようにこちらを見上げ――
それと同時に二人は地面にふわりと舞い降りた。
「ただいま、ブランディール」
アールの手を引いて少年は紅い髪の男に呼びかけた。
「……ふん」
ブランディール、と呼ばれた男はじろりとアールに視線を投げる。
まるで値踏みするかのような目つきだった。
側に何人も人が仕えているところをみると立場のある者なのかもしれない。
だが、大勢の人目に晒されることに慣れていないアールは少々気分を害した。
「随分なまっちろいやつだな」
「なんだと?」
反射的に銃に手を掛けようとしたアールを後ろに追いやるようにして、少年が前に出る。
「挑発しないでくれよ、ブラン」
「聞いた話ではもう少し骨がありそうだったが」
「聞いていた?どういうことだ」
「それはおって説明するから。その銃から手を放してくれるかい?」
少年に宥められてアールはしぶしぶその手を下ろす。
この状況で武器を手に取ればアールだけではなく少年もタダでは済まないだろう。
「母上も何故こんなガキをわざわざ迎えにこさせたんだか」
はぁ、と溜め息を吐いて男はアールの顔を覆っている仮面を指さした。
「母上……?」
「第一なんだこれは。どういう風習なんだ」
「その母上がつけさせた物らしいよ」
「脱がせろ。そういうのは好かん」
「それが……うーん取れなさそうなんだけど」
「なんだと?馬鹿な」
男はそういうと自らアールの仮面に手を掛ける。不意打ちの行為にアールは思わず身を引いた。
「なっ……」
しかしその手から逃れることは出来ず、額から力いっぱい仮面を引っ張られる。
「いた……!」
「ブラン!女の子に力ずくはダメだよ」
「……なんだって?」
少年が放った言葉にブランディールという男がぴた、と動きを止める。
「姫だったんだ」
男の視線が自分の身体を上から下まで通過するのに耐え切れず、アールは今度こそ身体を引いて逃れた。
分厚いコートを羽織っているものの、そういう視線には不快感を覚える。
そのことが雄弁に自分を女だと証明している気がしてアールは唇を噛んだ。
「……道理で、歳の割りになまっちろい訳だ。悪かった」
「謝られている気がしないんだが」
「気にするな」
「……」
男は睨んでいるアールのことを無視すると、何事かを思案し始める。
暫くののち側に控えていたドレスの女性に二言三言耳打ちすると、彼女と少年の方へ向き直りこう言った。
「暫くここで生活してもらうぞ。どうせ帰れない」
有無を言わさぬ口ぶりにアールは押し黙った。元より喋る習慣が無いだけとも言えるが。
「カルヴァ、頼んだぞ」
「おまかせください」
先ほど耳打ちした女性は優雅に一礼するとアールの手を取った。
「カルヴァ、と申します。お名前を聞かせて頂けますか」
カルヴァは赤毛に黒い瞳を持つ美しい人だった。
彼女の身に着けているものは一目見ただけで豪華なものだとアールにも分かる。身分のある方なのだろう。
彼女は穏やかな雰囲気の中にも凛とした強さを感じるような、うら若く麗しい女性だった。
落ち着いた雰囲気からアールより少し年かさは上くらいに見えた。
礼儀正しい自己紹介であったが、アールは一瞬迷う。
今まで名前など聞かれたことが無かったからだ。
長には最初から名前を知られていたから、名乗る必要など無かった。
そして、女性が自分の本当の名を教えるということがどういうことなのか彼女とて知らないわけではなかった。この国ではそういう風習がないのだろうか。
「……アール」
迷った末にアールは愛称を答えた。
嘘ではない。長がつけてくれた愛称なのだから。今となっては彼女の名前でもある。
「突然のことで戸惑われているでしょう、精一杯おもてなしさせて頂きますわ」
そう言って女性は朗らかに微笑んだ。
彼女が案内された場所は広い建物の中だった。
落ちているときには空に釘付けになっていたから見えなかったが、かなりの規模の城のようだ。
「おかえりなさいませ」
二十人ほどの侍女が絨毯を挟んで二列に並んでいる。
お辞儀のタイミングがよく揃っていて、まるで軍隊のようだとアールは思った。
ブランディールを先頭に、アールとカルヴァ、そして少年が少し離れて歩く。
これだけの荘厳な雰囲気に物怖じしないその態度から、彼が王族であることは明らかだった。
ということは、この美しい女性は――
「おい、聞いているのか」
顔を覗きこまれていることに気付いてアールは視線を上げる。
話しかけられるという習慣が無いからか、考えに没頭してうっかり聞き流していたらしい。
「……私か?」
「他に誰がいる」
「何か」
「この国に入った以上は、俺に従ってもらう。いいな?」
「……」
言葉では答えずアールは頷いた。
元より上には逆らわないという規律でやってきた彼女にとって、考えるよりも先に体が動いていたという状態だ。だが、郷に入っては郷に従えと言う。
この状況でいけ好かないとは言えど、身分のありそうな男に噛み付くことは不利に思えた。
「まずその服をなんとかしろ。カルヴァ、風呂に入れてやれ」
「かしこまりました」
「面は……取れるかどうか試してみてくれ」
「はい」
「終わったら食堂に来い。いいな」
「……分かった」
素直に頷いたアールに男は一瞬拍子抜けしたような表情を浮かべたが、何も言わずに去っていった。
「アール」
彼女を此処に連れてきた張本人に名前を呼ばれ、アールは後ろを振り返る。
「これまでのこともちゃんと説明する。あとで食堂で会おう」
アールは小さく頷いた。が、彼女にはもうひとつ気にかかっていたことがあった。
「……名前」
「え?」
迎えに来た、と言った少年の名前を、彼女は知らなかった。
「貴方名乗ってらっしゃらないんじゃないかしら?」
くす、と優しい笑みを浮かべてカルヴァが補足する。自分が言葉足らずだということに気付いてアールはぼそりともう一言口にした。
「教えてほしい」
「あ……」
アールの言葉に何故か少年は少し困ったような顔をしたが、一瞬考えたあとこう答えた。
「ヴァンって呼んで」
「わかった」
「それじゃ、またあとで」
「ではお部屋に参りましょう」
カルヴァに案内された部屋は彼女の想像を超えていて、アールは思わず視線を端から端へと彷徨わせた。
警備隊のモニタールームより、いや下手をすると所長の自室より広いかもしれない。
「囚人を入れるには随分……広い部屋だな」
それはアールにとって本音以外の何物でも無かったが、カルヴァにはそうでは無かったらしい。
「ふふ、囚人だなんて!とんでもない」
花がこぼれる様な美しい表情を浮かべてカルヴァが微笑む。
「アール様は客人としてこのカルヴァが精一杯おもてなしさせて頂きますわ」
「客人……?」
あの男の態度ではとてもそうは見えなかったが。
そういい掛けてアールは口を噤んだ。目の前のカルヴァに失礼だと思ったからだ。
「すぐに服を用意させます。湯浴みを致しましょう」
「ゆあみ?」
「御風呂ですわ。そちらでも入られるでしょう?」
「……ああ、しかし」
「さあさ、こちらへ」
カルヴァに押されるようにしてアールは浴室に入った。
ここも無駄に広い。湯船に至っては、10人くらいが一度に入れそうな大きさだ。
「お手伝い致します」
「……一人がいい」
「分かりました。ではまずご案内いたします」
素足で歩くカルヴァに続いて靴を脱ぎ、服を着たまま浴室内を歩いた。
「こちらが浴槽、体を洗うときはこちらの取っ手を引っ張ればお湯が出ます」
黙ったままアールが頷いたのを見ながら彼女は説明を続ける。
「体を洗う時はこちらを。泡立ちが良くなりますわ」
手渡されたタオルで体を洗えということらしい。それはやたらとふわふわで触るのも恐れ多いような上質なものだ。
「あちらに石鹸がございます。何かほかにお判りにならないところはございますか?」
「大丈夫だ」
「では、私はお召し替えの準備を致します。何か御用があればすぐにお呼びくださいね」
気配が遠のくのを待ってアールは服に手を掛ける。
裸を見られるなんてことは彼女にとって考えられないことだった。
ごとりと重々しい音を立ててコートを床に落とすと、まるで足枷を外したように肩が楽になる。時折肩こりに悩まされる程の重さをもつそれは、彼女の体格を隠すのによく役立ってくれた。
着ていた服を脱ぐと、次に白い布が現れた。
巻かれた白布を解くと、隠していた胸が露わになる。
下着を脱いでアールは自分の肉体に溜め息をついた。……忌々しいほど、女そのものだった。
「ふ……」
自嘲するように小さく笑うと、恐る恐る湯船に足を浸ける。
思ったほど熱くない。そのまま一気に体ごと沈みこんだ。
正直な話リフェルローアでは、湯を沸かすことは殆ど無い。
風呂は大体が水風呂だ。湯に入れるのは大層な金持ちか、王族くらいのものだろう。
アールが湯に浸かりながらふとそこらを見ると、先ほど説明された白い石鹸が置いてある。
良い香りのする上等な物だ。
どこにでも同じようなものはあるのだな、と関心しながらそれを手に取るとすぐに泡が立った。
警備隊のシャワー室に置いてあるものとは明らかに違う。あれは硬くて泡立ちにくくて、いつも腹が立つくらいだった。
アールはさっき手渡されたタオルで身体を洗いながら、湯の方が軽く泡が立つことに気付いて、彼女は小さく唸った。
慣れない、と思っていたものの、初めて浸かった湯は想像以上に良いもので。
アールは再び湯に浸かりながら、暫く出て行く気にはなれなかった。
「まあ、こんなにふやけて」
彼女が浴室を出ると、カルヴァが微笑みながら布を広げて待っている。
中にも身にまとうものらしき布が用意されていたのでアールは裸を見られずに済んだことにほっとしていた。
まあもし着るものがなかったら、そのまま前の服を着て出て行くつもりではあったのだが。
「湯加減は如何でしたか?」
「……気持ちよかった」
「それはようございました」
布に包まったままのアールを椅子に座らせて、カルヴァが髪を拭いてくれる。
触れられることに慣れていない彼女は最初それを断ろうとしたが、カルヴァの手は母性を感じさせるもので拒む気にはなれなかった。
姉……姉が生きていれば、こんな感じだったのかもしれないと思う。
「服はこれを、との指示が出ております」
「……」
彼女が差し出したのは黄色い女性物の服だった。
カルヴァが身に着けているものほど贅沢なものではないが、所謂ドレスという類のものである。
ふわりとしたスカートに絞った袖、開いた胸元。女性が着るには何らおかしいところはないが。
「……もう少し、簡素なものがありがたいのだが」
目眩を堪えながらアールは藁をもつかむ気持ちで呟いた。
「では、こちらは如何です?」
次に差し出されたのは白に近い水色の、先程より色もデザインも地味なものではあったが、やはりドレスである。首でボタンを留めるタイプで幸い胸元は露出していない。しかし下はやはりスカートタイプだ。
「うっ……できればもう少しその……いかにも女物という種類以外にないだろうか」
「このような服もございますが」
最後にカルヴァが見せてくれたのは、紺色の首まであるセーターに同じ色の足元まである長いスカートを合わせたものだった。
先ほどまでのドレスと違い丈の長さが長く、足を隠してくれそうには見えるがこれもスカートには違いない。
「申し訳ありません、急なことでしたのでアール様に合うサイズがあまり用意がなくて……」
「……」
「お気に召しませんか……」
アールが頭を抱えたのを見て、困ったようにカルヴァが肩を落とした。
「いや、そんな」
断れば彼女が叱られてしまうのかもしれない、慌ててアールは思ってもないことを言ってしまう。美しい瞳がじっとアールの次の言葉を待っていた。
「……これはあいつの命令か?」
絞りだした彼女の問いかけに目をしばたたかせてカルヴァが首を傾げる。
「?」
「命令なら、下の者は従わねばならない」
「命令だなんて」
戸惑うようにカルヴァはそう言ったが、アールは日ごろから染みついた感覚が抜けずにいた。
此処がたとえリフェル・ローアとまるで環境の違った異国とは言え、上の者には従っておいたほうがいい。
カルヴァは客人と言ってくれたが、本来自分は囚人のようなものだ。
ブランディールがどう思っているかは分からないが。
それならば、自分の自尊心にしがみ付いていても何の価値もないことだ。
「……う」
自我と感情の狭間で揺れ動いた天秤は、結局自我を振り落として軍配を上げる。
アールは最後の一番地味な服を指さしてこう言った。
「これにする……」
「まあ!きっとお似合いになりますわ」
嬉しそうにカルヴァが微笑むので、彼女は覚悟を決めるしかなかった。
今までにスカートなど履いたことがないから、もたもたとそれを履くとカルヴァが手鏡を手渡してくれる。
「よくお似合いですよ」
だが、鏡の中に映った仮面の女を見てアールは机につっぷしてしまった。
怪しすぎるのだ。こんな女が居ればすぐに監獄に放り込まれても文句は言えない。
今まで鏡をほとんど覗いてこなかったとは言え、よくこれで生活していたものだ。
「……悪夢としか思えない」
何かの冗談とでも思いたかった。
「仮面、ですか……」
外せと言われていたことを思い出して、アールは自分の顔に手を伸ばす。
かちり、と硬い音を立てて簡単に口元の部分が外れた。
「まあ!」
「口元は外せるんだ」
他人に見られないようにしていたが、食事のときはいつも外していた。
「綺麗な唇ですわね!紅でも引けば艶が出ましてよ」
女性特有の会話が楽しいのか、カルヴァがあれこれと化粧の仕方を提案するのを軽く流し、アールは仮面を付けたときの記憶を呼び覚ましていた。
これまで、外そうと思ったことは一度もない。
正体が知られれば即追っ手が掛かる。それは死を意味していたからだ。
だからこそ、決して外さないようにと言って所長は彼女にまじないをかけた。
『けれどもし貴方が……なら、……を……れば……』
随分幼いころではあったが、所長は外し方も教えてくれていた筈だ。けれど、どうしてもその方法が思い出せない。
「……だめだな。これ以上は外れない」
何度試しても、額から目と鼻を覆うようにそれはぴったりと顔に張り付いていた。
「ふふ、舞踏会みたいですわね」
「……」
それは聞きなれない言葉だったが、アールにはもうこれ以上問いかける気力がなかった。
「そろそろ食堂に参りましょうか」
「分かった」
食堂はこれまたとんでもない広さの部屋だった。
三十人くらいが同時に食事を取れる長い机と椅子が並び、白い布がたゆみなく敷かれている。
その一番奥に三組の食器が既に用意されており、ブランディールが腰を降ろしていた。
隣にはヴァンと名乗った少年の姿も見える。
「何だ、今度は仮面舞踏会でも始める心算か?」
先ほどと同じ聞きなれない言葉だったが、アールはまた無視を決め込んだ。
「仮面はアール様の意志では外せないように出来ているようですわ」
「ちっ、面倒なことしやがって」
ブランディールは小さく毒づくと、視線に気づいたのか「母上の話だ」と付け足した。
カルヴァに促され、アールは彼女と向かい合うように席に付く。何故かヴァンの席が無いことを疑問に思いながら腰掛けると、ブランディールがじっとこちらを見ているのに気づいた。
「ふぅん」
「……何だ」
ブランディールの視線が自分の身体を通り過ぎるのを感じてアールは目を逸らす。
やはりこういう視線は慣れようもない。唇を見られているようで、妙に意識してしまう。
「悪くないな」
「は?」
「随分長湯だったようだが良い香りがするじゃないか」
「な?」
「ふ……まあいい、食事にするぞ」
アールの反応が面白かったのか、ブランディールは喉をくつと鳴らすと召使を呼んで食事を運ばせる。
それは温かく、上等な食事だった。こんな食事を取ったことはしばらく無い。
国境警備隊に配給されるのは冷えた汁物と硬いパンだけだ。
「……おいしい」
一口スープに口をつけて、アールは思わず呟く。
その様子を見ていた男は満足そうに頷いた。
「それはよかった」
食事中は誰もが静かでアールも普段は話すことさえ禁じていたから、ただ黙って食事をとった。
やがて食事が終わり、食後に出てきた匂いの良い茶を飲みながらブランディールは話し始める。
「どこから話せばいいか」
「リッツェ様の話からしたほうがいいんじゃないかな」
ブランディールの後ろに立ったまま、ヴァンが言った。
「リッツェさま……?」
その名にアールは聞き覚えがあった。彼女をずっと支援してくれていた所長の名だったからだ。
「そういえば知り合いだと言っていたな」
忘れていたが、はじめヴァンと出会ったとき彼がそう言っていた気がする。
「リッツェというのは、俺の母上の名だ」
ブランディールが苦虫を噛み潰したような顔で言った。何故かかはわからないが、彼にとってそれは痛い現実なのかもしれない。
「なんだって?」
「つまり君を匿っていた所長が、前王妃リッツェ様なんだよ」
「待て、お前……の母上ということは」
「ブランと呼べ」
有無を言わさぬ様子でブランディールが言ったので、恐る恐るアールはその名を口にした。
「ブラン……の母親ということは、王室のものだろう?なぜリフェル・ローアにいる」
「恥を晒すようだが、母上は七年程前に追放されている」
王様らしからぬ頬杖を付きながらブランディールはそう言った。
「追放?」
「そうだ」
「そしてリフェルローアに来たと?」
「……そうだ」
「扉を開けるには対応した王族のデータがいるんだろう?こちらの王族の遺伝子を手に入れなければ、帰れなくなるじゃないか」
実際はリッツェは偶然アールと出会ったわけだから、帰ろうと思えば帰ることも可能だっただろうが、普通は王族となんて早々知り合いになれるとも限らないのに。
「そう、帰って来なかった。……いや、単にもとより帰る気がなかったのかもしれんが」
遠い目をして彼は窓の外を見る。窓ガラスに映りこんだ彼の瞳はどこか寂しげな色をしていた。
「追放されたから?」
「……それは結果だな。母上は最初からこの国を出たかったのかも知れない」
「ブラン、そんなことはないと思います。リッツェ様には何かお考えが」
それまで口を挟まなかったカルヴァが初めてそう反論した。
「ヴァンを置き去りにして?俺にはわからん」
はき捨てるように、忌々しそうに彼はそう言った。
それはブランディールが初めて見せた嫌悪と怒りの表情だ。
「ブラン……」
ヴァンが寄り添うように彼の肩に手を添える。
その様子を見ていると、二人の雰囲気はまるで違うのに顔立ちがよく似ていることにアールは気づいた。兄弟か、血縁者なのかもしれない。
「……まあ、そうして七年たったある日、唐突に母上から便りが届いた」
「便り?」
「手紙のようなものだと思ってくれればいい。面倒だから説明は省くが、お前を迎えに来るようにという内容だ」
「何故私を」
「わからん。恐らく何らかの意図があったんだろうが、もうそれは分からない」
「……分からない?」
その言葉には不穏な雰囲気が漂っていた。
心なしか男――ブランディールの表情も重い。カルヴァも、ヴァンも俯いて悲しそうに視線をそらす。重い口ぶりで、彼はこう続けた。
「母上は死んだ」
「なんだって!?」
行儀悪く立ち上がったアールを咎めるものは誰も居なかった。
「そんな」
アールには身寄りがない。だから、リッツェだけが彼女にとって家族とも呼べる存在だった。
そのリッツェが、死んだ――?
世界がぐらりと揺れる。まるで悪い夢を見ているような気持ちだった。
「おい?」
気付けば、アールは床にへたり込んでいた。その腕をブランディールが引き上げている。
「大丈夫ですか?」
心配そうに、カルヴァが覗き込んだ。その隣にヴァンの姿も見える。
「……ちょっと、ふらついただけだ」
「いろいろあって、疲れたんだよ。今日はここまでにしよう」
「……話はまだ終わっていないが」
納得いかない表情でいうブランディールをカルヴァが嗜める。
「ブラン、アール様に無理をさせてはいけません。時間はあるのですから」
「ちっ、仕方ないな……部屋に連れて行ってやれ」
一言余計な台詞を吐きながら、ブランディールは去っていった。
「今日はゆっくり休んで。また明日会おう」
その後ろを追いかけるようにヴァンも帰っていく。
「さ、アール様。わたくしの肩に掴まってくださいな」
「一人で、歩ける」
「そうおっしゃらずに」
こう言われては無下にも出来ず、アールはカルヴァの細い肩に掴まった。
「お部屋ではお一人が宜しいですか?」
ぼんやりしていてどこをどう曲がったのかすら覚えていない内に部屋に着くと、カルヴァはそう聞いた。彼女の部屋は隣なのだという。
「ああ」
「では、また明日お世話に参ります。おやすみなさいませ」
「……おやすみ」
ベッドはふかふかで、数人が入れそうなくらいに大きなものだった。
こんな上等なものは所長室にも無いだろう。そんなことをぼんやり考えながら横たわる。
「……っ」
堪えていたものを吐き出すように、アールは嗚咽を漏らす。
大切なひとだ。
命の恩人であり、アールを導いてくれた家族のようなもの。
少し前に会ったとき、彼女は元気が無かった。
それが気になっていたものの、本来公に会えるような人では無いから、そのままになっていた。
だから、信じたくない、信じられないという気持ちが強い。
けれど三人が嘘を言っているようにも見えなかった。
彼らの顔に一様に浮かんでいた悲しみ、それはきっと真のものだったろう。
何が何だか、分からない。
自分が何故ここに居るのか。
どうせ帰れない、とブランディールは言っていた。ならば、明日からその答えを見つけてみせよう。だから。
だから、少しだけ。
誰にも聞こえないよう、アールは少し泣いた。
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