アティリスの扉

河瀬鳴月

第1章 ある囚人の脱走

 ――暗闇が少しずつ辺りを包む頃。

窓から差し込む光を失いながらも、沢山の機械が立ち並ぶ部屋には赤々と運転中のランプの光が灯っている。そこに一人の男が立っていた。


 彼がじっと見つめるモニターの先には、国境と呼ばれる長い門。それは遥か昔に作られたという、この深い森を縫う様に巡らされた無機質な高い壁である。

常人ならば一生越えることの出来ない壁の向こうに、何が在ると言うのだろう。

越えようとすれば罰せられるがゆえにその先を見たものは誰一人としていない、そんな壁に囲まれ、箱庭のように小さなその国の名はリフェル・ローアと言った。



「こいつが今日からお前たちの仲間になる」

 唐突に上司から新たな同僚として紹介されたその男に、アールを含め警備隊の隊員達は一様に驚きの表情を見せた。広がるどよめきに混じって下卑た野次も飛ぶものの、全く意に介さず男を加えた配置案が説明される。アールはそれを若干聞き流しつつ手にした資料から目をあげてその男の風貌を観察した。

 背の丈は余り高くない。深くフードを被り、雰囲気が窺い知れないその男の耳には、確かに銀色に光る識別札があった。この国では一般的に、耳に番号が振られた識別札があり灰色のローブを着用している者は罪人とされる。

「……あのーどういうことですか」

「上からの命令は絶対だ。私にも事情はわからん」

「だけどこいつは……」

 ちらり、と男に目をやって隊員の一人が言葉を詰まらせる。

「所長直筆の紹介状があるんだ。仕方が無いだろう」

「ですが」

「ともかく、これは決定事項だ。……仲良くやれ」

 解散、と手を叩く上司の声に、皆は渋々と言った様子で支給品の武器を手に各持ち場へと戻っていった。

 その中に混ざりながらも、アールはすれ違いざまに自分が身に付けている仮面の隙間から、その男の顔を覗き見ようと試みる。横に並ぶとわかるが、背丈は160センチほどで自分と変わらない。深くフードを被った男の顔の造形などは窺い知れないが、黒曜石のような瞳だけがきら、と光ったように見えた。

 こちらの表情など、身に着けている顔全体を覆った黒い仮面のおかげでほとんど知られるはずもないと分かってはいたが、何故かどきりとして視線を逸らす。

 やがて司令室から出たアールは、隊員が群れている広場を通り過ぎ、足早に自分の持ち場へと戻った。


 ……名前も、顔も、ここでは互いに知る必要が無い。

身元確認のために関所の長が把握はしていると思うが、一般隊員にそんなことを答える必要は無いのだ。だから、アールも名乗ったことは無いし、尋ねようともしなかった。元々、この仮面を付けていることで自分も隊員達には敬遠されている。

馴れ合わない為にも、それはありがたい事だった。


 やがて夜の帳が降りて深い闇と静寂が支配する森の中。アールの持ち場辺りには霧のような雨が降っていた。体温を奪われないように大きな木の下に潜り込み、そっと視線を走らせる。

 自分が身じろぎする音以外は、雨の音しかしない――とても静かなこの職場が今は安住の地に思えた。仕事と言っても、誰かが国境を越えないかどうか見張るだけで給料が貰えるのだからありがたいことだ。

 実際、この壁を越えようなどと言う変わり者はここ数年現れていない。……越えようとすれば射殺されるのだから、当然のことだろうが。

 そんな風に思考を巡らせ、アールが暗い空を見上げたときだ。


がさり。


 不意に後ろで葉擦れの音がして、アールは即座に銃を構えて振り返った。一瞬、仮面の奥の青い瞳に緊張が走る。すかさず引き金を引こうとその指を掛けたその刹那。

「……驚かすつもりは無かった。ごめんね」

 相手から発せられたのは、まだ若い男の声だった。

ライトを向けられ、よくよく見れば手を挙げて答える男……それは先程上司から紹介された新入りの隊員だ。フードは深く被ったままで、やはりその表情は見えない。

「……」

 無言で銃を降ろし、小さく息を吐いたアールはそこから立ち去ろうと歩き出す。

相手は得体の知れぬ囚人で、関わり合いにはなりたくない。だが、男の次の言葉はその足を止める力を十分に持っていた。

「……迎えに来たよ」

 意味が分からず、アールは思わず振り返る。だが震える唇から言葉を発することは出来なかった。

「怖がらなくていい。……所長の知り合いと言えば解るかな」

 そう言いながらフードを脱いだ男の顔があらわになる。赤茶けた髪に黒い瞳。ここらではあまり見かけない髪の色だ。まだ少年と青年の狭間でうろうろしているような、そんな年頃だろうか。男と言うには、まだ若き少年であった。嬉しいのか、切ないのか分からないような表情で彼はアールに微笑みかける。

 見たことが無い少年を前にアールは戸惑い、じりと後ずさりをして踵を返すように走り出した。

「あ、待って!」

 流石にライトを付け、声を振り切るようにしてただ一目散に森の中へ走る。

暫くして足を止め、振り返って見るが追いかけてくる気配は無い。ただじっと、どこか遠くから見つめるような視線を感じただけだ。

(なんだ? あいつ……)

 弾む息を整え、落ち着いてから先程の会話をゆっくりと反芻してみる。

迎えに来た? 私を? 何処から?


 アールには、これまで生きてきた中で心当たりは一つしか無かった。

だが、もしそれが当たりなら、迎えになど来るはずが無いことも分かっている。

もし誰かが訪ねてくるとしたら、それは刺客に違いないから。追っ手から逃れ、落ち延びてきたアールにとって、それは何よりも恐れていた事だった。

 居所が知られれば、世話になっている所長にも危険が及ぶことだろう。それだけは絶対に避けたい。あの少年は危害を加えるつもりは無さそうだが、用心に越したことは無いだろう。ここに居る事を密告されても困るのだから。

――いざとなれば、迷い無く引き金を引くだけ。


 そう心に決めて、しとしとと振り続ける雨に身を任せながら、何気なく壁の向こうの空に視線を投げる。

 晴れた日も、雨の日も、いつもそこには闇があるだけだった。

単に目に見えないだけなのか、その先に空があるのかどうかも分からない。空間が千切られたように、境目から色が無くなっているのだ。何故それを越えてはならないのか、誰も理由は知らない。国民はおろか、王族ですらその理由を知らないという。

それなのに国の禁忌とされ、はるか昔からこうやって守られ続けている、のは。


 何故、と問いかける心を無視して、従っていたほうが楽だから。

誰も変えようとしないから。

だから、自分が変える必要もまた無いのだと、アールも幼い頃はそう思っていた。


(今は……? どうなんだ?)

 迎えに来たと言われたときに、嬉しかったのは何故だろう?

今でも私は、誰かが変えてくれるのを待っている……?

誰かが救ってくれるのを待っている……?


 大きくかぶりを振って目を閉じると、雨音と共に冷たい雫が瞼に落ちてくる。体温を奪われないようにコートをきつく寄せると、アールは再び警備の持ち場に戻った。そこにはもう少年の姿はなかった。



 不意に沈黙を破り、突如としてけたたましい警報の音が響き渡った。

勤務時間が終わり、次の交代まで部屋で休んでいたアールはベッドから飛び起きると支度もそこそこにモニター室へと向かう。既にそこには何人かの隊員が、各自準備を済ませて指令を待っていた。一同の視線が一瞬アールの仮面へと集まるが、すぐにそれは散る。全員が揃ったことを確認してから、上官の一人がモニターを指差しつつ、説明を始めた。

「国境門付近に人影がうろついているそうだ。見付け次第射殺して構わん。各自のいつもの持ち場についてくれ。以上」

 緊迫状態にあるにしても随分素っ気無い説明である。その声に応じて、何人もの隊員達がばたばたと散開していった。それを横目にアールも一人で出口に向かう。どうやら長雨は上がったようだった。


「……待って」

 森の中で侵入者の捜索にあたるアールの前へ、例の少年が立ち塞がった。さっきと同じに嬉しそうな表情だが、やはりどことなく子供っぽい喋り方をする人間だ。

「……」

 何かを口にしようとしてアールは言い淀んだ。勿論、言葉を知らぬわけではない。

「黙ってついて来て。見せたいものがあるんだ」

 そう言って手を取ろうとする少年に、身体がひとりでに反応して銃を向ける。

アールの銃口は心なしか震えていた。

「大丈夫……」

 銃口を怖れる様子も無しに、少年は再び手を伸ばし、アールの手を取った。その言葉に操られるかのように、銃を降ろそうとした次の瞬間。

「君は……まさか」

 その冷たい手が触れ合った瞬間、彼は驚いたように目を見開いてこう言った。

「女の子だったのか……!」

――ばぁんっ‼

 刹那、鋭い光を帯びて彼女の銃口は火を吹いた。弾は少年の僅か横を逸れて、木の幹に打ち込まれる。ほんの一瞬遅れて、銃声に驚いた鳥の羽ばたきが暗い森を騒がせた。これだけの音がすればきっとすぐに人がやって来るだろう。

 少し驚いた様子で少年は瞬きをすると、どこにも怪我を負っていないのを自分の手で確かめた。ぱたぱたと衣服を振りつつ彼はふう、と息を吐く。

「銃を降ろしてくれないかな。驚かせてすまない」

 荒い息を吐きながら震える手で銃を構え続けるアールに、宥めるようにそう呼びかける。

 何故こんなに怯えているのか自分でも解らずに、彼女は呼吸を落ち着けるためゆっくりと深呼吸をした。早鐘を打っていた鼓動が少しずつ落ち着いてくると、震えが少しずつ収まってくる。はあ、とため息をつくように息を吐くと、アールはようやく言葉と言うモノを口に浮かべた。

「お前、何故分かる」

 ……自分がこんな声だった事すら忘れていた。

どれくらい声を出していなかったのか、そう思うほどにしわがれた声は所々掠れ自身でも聞き取りにくいものだった。所長以外と言葉を交わさないのだから無理もない。

「返答次第では……殺す」

 ひとつひとつ区切るように囁き、アールが再び銃を向ける仕草をすると、手を上げるような素振りで少年が首を振った。

「全部説明する。だからちょっとついて来てくれないかな。こんな所では君も困るだろう? 門付近でもない不必要な発砲はご法度って聞いてるよ」

 アールが辺りに視線を投げると、人は居ないものの今の銃声で足音が近付いてくる気配を感じた。

「何処へ、行くつもりだ」

「この先にね……遺跡があるんだ。見せたい物がある」

 彼が案内する、と差し出した手を、少し戸惑いながらアールは取った。ライトを最小光度にしたと言うのに、はっきり見えてでもいるみたいに人気の無いほうへと走り出す。仮面に付いている暗視スコープを使用しつつ、転ばないように注意しながら彼女は声を顰め問い返した。

「遺跡?」

「君達ですら門の50m内に入れば射殺されるんだろう?」

「……ああ」

「だから誰も知らない。門の隣に小さな建物があるのは気付いているだろうけどね」

 確かに、あの門の横には不可思議な模様が描かれた建物のようなものがあるのだが、そこに近付くことさえも、門と同じく自殺行為だった。

「あれは一体何だ?」

「……過去の遺産だよ」

 転びそうになりながら走り続けて、荒い息になったアールに構う気配もなく少年はどんどん先へ先へと引っ張って行こうとする。何故か彼は息が切れている様子すらなく握った手も冷たいままで、一瞬これは死人ではないか、という考えがアールの頭を過ぎったほどだ。

「行ってどうする? ……殺されるぞ」

「今はいつもより手薄になってるよ。不審者のおかげでね」

 何処か含みがある言い方に、アールは再び身構えた。少年の手を握りしめ――というより握りつぶす勢いで、脅しをかける。

「信じて良いんだろうな?」

「君を殺させはしないよ。信じろとは言わないけど」

 苦笑いをするように鼻を鳴らし、彼は振り返ってそう言った。

……信じていいのだろうか?


 自らの勘を信じるならば、彼は敵では無いとアールは思ったが、罠のようなものを何処かに感じずには居られなかった。そうこう考えながら走っているうちに、アールは門から少し離れた場所へと連れて来られ、少年は辺りの気配を探りながら遺跡らしき建物の様子を伺っている。

「行こう」

 そう呟くが早いか、彼は全速力でアールの手を引いてさっと建物の中へと滑り込んだ。扉が開く音や、閉じる音で仲間に気付かれはしないかと彼女は内心冷や汗をかいていたが、古い建物の割にそんな音は立たなかったようだ。

 しかしようやく入った小さな建物の中には、たった一部屋しか無い上に、扉を開けた途端に目に飛び込んでいたのがまた扉だったので、アールは呆然と立ち尽くしてしまった。


 今開けた扉は後ろにある。

前にも同じ扉。

さらに左右にも同じ扉がある。くらりと眩暈を感じるほどの違和感が背筋を走った。


「…何だこれは」

 真ん中に台の様な物がある以外は、扉しか無い狭い部屋である。いやな感じがした。まるで閉じ込められでもしたような。

「何故入り口が一つなのに扉が四つもあるんだ」

「出口が別だからだよ」

「出口が別?」

 意味を図りかねて、きょろきょろと扉を観察しているとそれにはそれぞれ別々の文字と思われる記号が書き込まれていた。


三つの扉の記号は読むことが出来ない。

古い言葉なのだろうか。


 ふと、後ろを振り返って入ってきた扉の方を見ると、そこに書かれている文字は唯一見慣れたもので、読むことが出来る。

「りふぇる・ろーあ…国の名だな」

「そう。君が住んでいた国の名前。そして他の扉に書かれているのは…」

「他の扉は?」

「隣の国の名前だよ」

「隣の国ィ?」

 思わず上擦ったような声が出て、アールは決まりが悪そうに後頭部を掻いた。

そんな話は迷信だと思っていたから。小さい頃の御伽噺、母親が夢枕に語る物語。

何もかもが面食らう話ばかりで、今対面しているという現実感がまるでなかった。

「君たちの国で、この扉の意味を知っている人はもう殆どいないと思う」

「どういう意味だ」

「長い関所はただの目くらましだよ。本当はこの遺跡こそが関所になってるんだ」

「これが関所? 隣の国とこんな扉一枚で隔たれているとでも言いたいのか?

……馬鹿らしい」

首を竦めながら、アールはコンコンと扉を叩いてみた。勿論、向こうからは何の反応も無い。

「僕たちが通った扉以外は、今は閉まってるけどね」

「……何故閉まっているんだ?」

「むかし、むかーしに誰かが閉じてしまったからさ」


……この少年は一体何を言っているのだろう?

 アールは彼に小馬鹿にされているような気がしてきた。全てを話す、と言ったのに何だか誤魔化されている気がする。まるで子供向けの御伽噺を聞かされている様だ。

 仲間の捜査の手が回らないとも限らないし、取り合えずこの場所を離れよう……と彼女は自分たちが入って来た方の扉に手を掛け開こうとした。だが、先ほどあれだけ簡単に開いた扉は最早びくとも動かない。

「何で……!」

 足を突っ張らせ力任せに引っ張ろうとするが、それも無駄だった。

「貴様――閉じ込めたのか!?」

 怒りに燃える瞳に鋭い光を宿して、アールは腰に下げた銃へ手を掛ける。だが、少年は怖じた様子も無く、ゆっくりと首を振り柔らかな口調で答えた。

「僕は君を迎えに来たんだよ」

「あの世から、って言うんじゃ無いだろうな」

「まさか」

 彼はその場に似つかわしくない朗らかな表情で首を振って、アールが来たのとは逆の、正面にある扉を指差す。

「そこから」

「他国の人間だと言いたいのか」

「……そうだね」

「信じられない」

 仮面の奥で眉間に皺を寄せながら、アールは不機嫌そうに腕を組んだ。即答した彼女に苦笑いを浮かべながらも少年はこう囁く。

「どっちみち、ここから出るには方法は一つしか無いんだ」

「……何だ」

「君の髪を一本くれないか。それで万事解決だ」

 その余りにも状況とそぐわない、思いがけない申し出にアールは戸惑った。だが彼の表情は至極真面目そのもので。

「意味が解らない。それが何の役に立つ?」

「遺伝子情報だよ」

「遺伝子?」

「君の国では発達しているんだろう?」

 専門家ではないからアールは詳しくは無いが、一般知識程度なら勿論知っていた。

「遺伝子がどうだと言うんだ」

それがこの状況から脱する方法とは理解し難く、再三彼女は問いかける。

「この机がDNA鑑定の機械になってるんだ」

「だから、それがどうだと……!」

「この扉を開けるには対応した国の王家の遺伝子情報が必要なんだよ。

分かるかい? ――リフェル・ローアの姫君」

 少年の有無を言わさぬ口調に、今度こそアールは言葉を失った。

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