#9 水はめぐり、命潤す

  雨に濡れる木々が、青さを増してゆく。


 嬉しそうに空を見上げていた美月さんが俺に向き直った。


夏輝なつきくん。雨乞あまごいを成功させてくれて、最後まで私をまもってくれて、本当にありがとうございました……」


 彼女が瞳からこぼれる涙を指先で拭う。

 君のためなら命を捨ててもいいと思った──俺はその言葉を飲み込んだ。


「いや。みんなが死力しりょくを尽くしたお陰だよ」


 俺の肩の上にいたつづらが、するりと美月さんの肩の上に移動した。


「良かったね、ミヅキ」


「みーちゃん、この貸しは高いからねー?」


 巴が俺の両肩に後ろからのしかかりつつ、美月さんに話しかける。


「巴くんありがとうございます……お金は払いませんけどっ……!」


「お前さぁ、美月さんからも金取るのかよ……」


「あははっ、みーちゃんの財布のひもが固いのは昔からなんだよねぇ」


 土砂降どしゃぶりの雨の中、美月さんを俺達が囲んで笑い合っていると、浅沓あさぐつを鳴らして宿禰すくねさんが歩いてきた。


「おじいちゃん」


 飛びついてきた美月さんを、宿禰さんが無言で抱きしめた。



「──オレの完敗かんぱいというわけか」


 降りしきる一面の雨の中、立ち尽くしている悪王子神。


「……しかし、せぬ」


 その言葉に、全員が身を固くした。


「神力使いよ。吹けば飛ぶほど脆弱ぜいじゃくな貴様ら人間が、なぜ命をしてまで神に抵抗する? わずか数十年の短い命、足掻いた所でどうせすぐ死ぬ。無駄な労力ろうりょくではないか」

 

 俺は少し考えてから答えた。


「短い一生だからこそ、今生きているこの一瞬を後悔したくないからです」


 俺の言葉に、悪王子の瞳に差した光が大きくゆらめいた。


 そのまま、くっくっと笑う悪王子。


「そこまでしてせいにこだわるか。そのもろい体の中には、一体何が流れているというのだろうな」


 悪王子の抽象的ちゅうしょうてきな質問に俺が答えられないでいると、宿禰すくねさんが俺の前に進み出た。


「我々の体に流れるもの──それは、『水』でございます」


「水だと?」


「山に降る雨は地中を流れ、やがて集まり川となり海に入り、ふたたび雲となる。水はめぐり、多くの命をうるおします。水は命そのもの。私どもの体をめぐるのは、悪王子さまの降らせてくださる『雨』でございます」


 宿禰さんの言葉を黙って聞いていた悪王子がつぶやいた。


「……明光があの時あれだけ必死だったのは、人の短い命を水でつなぐためだったという訳か」


 考え込む様子の悪王子に、ヒルメ様がさとす。


「悪王子。貴方がどれだけ頑張っても巫女の気持ちは変わりませんよ。それよりも、たまには妻たちの所へ顔を見せてあげなさい。みな寂しがっていますよ」


ヒルメ様の言葉に、悪王子が懐かしそうな顔になる。


「──そうですね。久しぶりに妻たちの元へ帰ることといたします」


「ええっ! 奥さんいたんですか?」


「……三柱さんにんいるが。それがどうしたと言うのだ?」


「奥さんが複数ふくすういるのに美月さんと結婚しようとしてたなんて!」


 巴が苦笑しながら俺を肘でつつく。


「夏輝。羨ましい事に八百万神やおよろずのかみ様達の結婚はおおらかなのさ」


「なるほど。確かにそれなら、一人に絞らなくても済むな……」


 つづらと美月さんの呆れたような視線を背後から感じ、慌てて話題を変更する。


「それにしてもお二柱ふたり姉弟きょうだいなのに、あまり似ておられないんですね」


 悪王子神と並んだヒルメ様がふふっと微笑んだ。


「私達にかたちはありません。あなた方が望む姿が、私達の像を結んでいるのに過ぎないのですから」


 やがて、雲間から金色の光が射した。悪王子が俺に向かって振り返る。


「神力使いよ。そう言えばまだ貴様の名を聞いていなかったな」


瀬戸夏輝せとなつきです」


「……いい勝負であった。覚えておこう」


 悪王子が口の端に美しい笑みを浮かべ、思わず見とれた。

 嘘偽うそいつわりのない、心からの素直な賛辞さんじ

 死力を尽くして技をぶつけ合った悪王子と、初めて心が通い合ったような気がした。


「来年の雨乞い、楽しみにしているぞ」


「えっ? ちょっと待ってください。また悪王子さまと戦うって事ですか?」


 巴が片手を挙げた。


「あのー。死にかけたから僕は来年はパスで」


「おい巴! お前がいないと乗り切れないだろ!」


「ははは」


 悪王子が高らかに笑う。

 ずっと不機嫌だった悪王子神が笑っているところを、初めて見た気がする。


「さあ悪王子、参りましょう」


「はい。姉上──」


 ヒルメ様が悪王子を優しく促すと二人はヒルメ様の発する光の輝きの中へと消えていき、辺りは一面の天気雨てんきあめとなった。



⛩⛩⛩


 降りしきる雨の中、俺達は無事に月姫神社つきひめじんじゃへと帰り着いた。


 傘もささずに参道さんどうけてきた千鶴子さんが、美月さんを抱きしめる。


 抱き合って泣いている二人に傘を差しかける宿禰すくねさんを見ながら、俺は今度こそ本当の意味で安心を得たように感じた。


 巴と顔を見合わせて、ふっと一息ついた瞬間。


「ミー!」


 どこからか飛んできた大量の白魂しらたま達が、美月さんの周囲にむらがってきた。


「こやつら! 蓬莱家ほうらいけの一大事に何もせず! 今日こそは目に物見ものみせてくれるわ!」


 大幣おおぬさよろしく傘を振り回し、白魂達を追い払う月姫神社宮司つきひめじんじゃぐうじを、千鶴子さんがたしなめる。


「今日くらいいいじゃありませんか。せっかく美月も帰ってきたんですし」


「そんな訳にはいかん!」


 一瞬にしてくずれ去ってゆく、感動的な再会の風景。


「じーちゃん、元気だな……」


「ああ。雨乞い神事の後とはとても思えない……」


 遠巻とおまきにながめる俺と巴だった。



⛩⛩⛩


イラスト

https://kakuyomu.jp/users/fullmoonkaguya/news/16817330656751457766

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