#2 悪王子(あくおうじ)

 月姫神社には、主祭神しゅさいじんである月姫命つきひめのみことの他に幾柱いくはしらもの神様がまつられている。


 赤い鳥居が美しい稲荷社いなりしゃもその一つで、拝殿の外にその社がある。


 月に一度の稲荷社でのおまつりを前に、社務所の横の和室では宿禰すくねさんが浄衣じょうえと呼ばれる白い狩衣かりぎぬそでを通しているところだった。


 俺も月姫神社の白い法被はっぴを着て、神様の食事──神饌しんせんの準備をしていた。米や野菜、魚、果物などを三宝さんぼうと呼ばれる台の上に並べていく。


 ラジオから、ニュースが流れてくる。


「──まとダムでは貯水率ちょすいりつが低下し、三十五パーセントを切りました。市では対策本部を設置し、節水せっすいを呼び掛けるほか、給水きゅうすい制限せいげんも検討しているということです──」


「水不足ですか」


 声をかけると、装束しょうぞく衣擦きぬずれの音とともに宿禰すくねさんの返事が返ってきた。


「うむ。神職しんしょくの仲間うちからも『雨乞あまごい神事』の日程を何度か聞かれた」


「雨乞いって、かね太鼓たいこたたいて雨が降るまで踊るイメージなんですけど」


「それも一つの雨乞いじゃが、色々なパターンがある。雨が降るまで祈り続けたり、神聖しんせいな川や池から水をもらってきてくというものもある。逆に、神様のいる池に石を投げ込んで神様を怒らせるものもある」


「面白いですね。ちなみに月姫神社の雨乞いはどんな感じなんですか」


「年に二度、いつ霜山しもやまでの神事がある。夏が雨乞い神事、晩秋は豊作に感謝する新嘗祭にいなめさいじゃな」


「五霜山の神事って、確か明後日でしたよね」


 明後日の神事には、なぜか俺だけが同行することになっていた。


「うむ。今でこそ祈祷きとうに変わったが、この鳳凰ほうおうの地には悲しく恐ろしい伝説があってな。昔は人身御供ひとみごくうといって、たくさんの娘をいつ霜山しもやまの神様へ生贄いけにえに出しておったそうじゃよ」


 宿禰さんが言葉をにごした。


 生贄という言葉が生々しすぎて実感が湧かないが、女性を連れていかない方がいい山なのは理解した。

 それで今回は、美月さんが来ないのか。


 ちょうど、舞の装束しょうぞく――千早ちはやを身につけたづきさんが和室に入ってきてどきりとした。


 先ほど美月さんのことで思い悩んでいたのを気取けどられないか不安になったが、美月さんの表情は神事を前にきりりと引き締まっていた。


「まあ、今では生贄を出すことはなくなったがね。さて、神饌しんせんを稲荷社へお運びしようかの」


⛩⛩⛩


 一時間後、稲荷社での神事を終え、境内けいだいの赤い橋のたもとにある白いほこらの前を通り過ぎる。


 突然、そのほこらとびらが物凄い勢いで揺れ始め、美月さんがびくりと身をふるわせた。


「いかん。美月、早く押さえるんじゃ」


「はいっ!」


 宿禰さんと美月さんが目にも止まらぬ速さで祠へと走り、がたがた揺れている木の扉を押さえ始めた。


 俺も扉を抑えたが、中から漂ってくるただならぬ気配に不吉ふきつな予感をいだいた。


「あの。前から聞こうと思っていたんですけど、ここには一体何が祀ってあるんですか」


 美月さんと宿禰さんが一瞬顔を見合わせた後、慌てて俺から目をらした。


「たいへん有難い神様じゃよ」


「はい。大変ご利益りやくのある神様です」


──あやしい。


「いかん。封印が解けかけておる。二人とも、もう少し強く押さえとってくれ」


 宿禰さんが新しいおを貼ろうとしたその時、扉が音を立てて開き、しろ足袋たびいた足が出てきた。


 姿を現したのは──すらりと背の高い、思わず見とれてしまうほどのすずやかな男子なんし


 色白の細面ほそおもて、切れ長の瞳、鼻筋はなすじの通った完璧かんぺきな顔立ち。


 その身にまとうは、金糸きんし刺繍ししゅうが入った、目の覚めるような青い色のかりぎぬ


 ただ、みずうみのような静謐せいひつさをたたえた瞳に宿す光にはこおるような冷たさがあった。


 青年せいねんが俺たちを一瞥いちべつすると、つづらが俺の肩の上で身を固くし、づきさんがあわてて俺の後ろに隠れた。


明光あきみつ末裔まつえいの娘か──かなりれいのうけていると見える」


 張りのある、伸びやかな低音の男声。涼やかで、それでいて落ち着いている。


 宿禰さんが床に頭をり付けるようにして低頭ていとうした。


「宮司よ。この封印が解けるということは、おおかた世が水不足になっているということであろう?」


「そ、それは……」


 宿禰さんが言葉をまらせる。


「水不足を解消する程度の雨など、いとも簡単に降らせられるぞ。ただし」


 美青年があやしくも美しい笑みをくちびるはしに浮かべる。


「その巫女みこをこのあく王子おうじの妻にすることが条件だ。明後日の『山の祭礼さいれい』までにどうするかを決めておけ」


──美月さんがこの美青年と結婚?


 俺の頭が、雷で撃たれたみたいに真っ白になった。


「さあ巫女よ、オレと一緒に来い」


 そのまま美月さんの手を取ると、強引に悪王子社へ連れていく。


 青い狩衣姿のその背中は逆三角形に引き締まっていて、非常に均整の取れた体型をしている。悔しいが、同じ男から見ても勝ち目のないぐらい完璧かんぺきな容姿だ。


「手握ってる! イケメンなら何をしても許されるのかよ」


なつ、じーちゃん。青い顔してどうしたんだ?」


 聞き慣れた声に振り返ると、そこには卜部巴うらべともえが立っていた。


 宿禰さんが事の経緯けいいを説明した。目の奥の光が所在しょざいなげに揺らいでいる。


「──あのお方は『あく王子おうじ』と言う名の神様で、その本性ほんしょう大蛇だいじゃと言われておる」


「悪王子? 『悪い神様』って事ですか?」


「いや、『悪』とは『強い力』という意味じゃ。かつて悪王子さまはいつ霜山しもやまに住んで雨雲をあやつり、この地に五穀ごこく豊穣ほうじょうをもたらしておった。その代償だいしょうとして年若い娘を人身御供ひとみごくうに出させては、次々に喰っておった」


 いつ霜山しもやまは、かつて俺のいた常世にも存在する山で、海へと繋がるドライブラインや展望台、ファミリーキャンプ場も整備されている。


「その後、我が先祖──蓬莱ほうらい明光あきみつが悪王子神を討伐とうばつし、月姫神社に『みたま』である本体を、五霜山いつしもやまに『分霊わけみたま』である分身を移し、その強い力を分散して封じた。その時に悪王子神は鳳凰の地をまもる神になると約束をされたため、以降は年に数回の神事を行い、そのお力をお借りしてきた」


「その封印が解けたんですか」


「うむ。わしとて孫を差し出したくはないが、悪王子社あくおうじしゃの宮司としての責任もある。一度に結論は出せんが、このまま何もしなければ雨は降らぬという事だけ」


「俺、様子を見てきます」


 恐怖で震えているつづらを肩に乗せ、悪王子の後を追う。

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