#7 あの月は雲の彼方に

 夕食後、千鶴子ちづこさんが風呂場に案内してくれた。


づきの兄のお古で悪いけど、着替えを置いておくわね。お部屋の箪笥たんすにもお洋服が入っているから、嫌いじゃなければ着てみてね」


「いいんですか。怒られませんか」


「いいのよ。あの子が高校の時に着ていた服でもう使わないし、今は県外に行っていて不在なの。だから遠慮しないで」


 美月さんのお兄さんか、一体どんな人なんだろう。


 きっと美月さんみたいに礼儀正しくてきちんとした人なんだろうと想像する。


 風呂はひとつぼひのき風呂ぶろだった。


 戸を開けると、ひのきの良い香りが漂ってくる。中には熱いお湯が並々と入っていた。


 肩から勢いよく掛け湯をしてから、ゆっくりと熱いお湯に足をひたしていく。


 肩まで浸かると血流が良くなって、疲労と緊張がほぐれていく。

 ひのきの香りのリラックス効果、おそるべしだ。


 天井を見上げると、家族の顔が浮かんでは消えてゆく。

 当たり前に毎日を送れることがどれだけ素晴らしいことかなんて、分かっていなかったおろかな自分。


 ふと、白川ゆりあの顔が浮かんできた。

 ほどけぬままの誤解ごかい、今はただ忘れたいとだけ願い、俺は湯船に頭までもぐった。


⛩⛩⛩


 風呂から上がると、美月さんのお兄さんが使っていたという六畳間の和室に案内された。


 布団を敷いてもらうと、もう何もする気力が湧かなくて、つづらと寝転がって天井をぼんやり見ていた。


 いつもならこの時間はスマホでゲームをしている頃だが、電波が通じない以上何もすることがない。


 ぼんやりとではあるが、改めて部屋を観察する。

 障子の前に文机ふづくえ、隅に和箪笥わだんすが一つ置いてあり、それ以外は何もない、シンプルな部屋だ。


 和箪笥の中には美月さんのお兄さんの服がきちんと畳まれて入っていた。

 ほんのりと樟脳しょうのうの匂いがした。


 詰襟つめえりの学生服、私服は紺や黒などシックな色合いのものが中心で、着回しがききそうな感じだ。


 ふと隣を見ると、つづらが動いていない。


「つ、つづら! つづら大丈夫か?」


 つづらがゆっくりと動いた。


「ああ、ゴメンね。蛇はただでさえ寝たがりなんだけど、今日は結構力を使っちゃったから。いつもに輪をかけて眠いよ」


眷属けんぞくしんだったっけ。つづらって本当に神様の使いだったんだな。あんな力を使えるなんてすごいよ」


「ボクはね、まだ子どもで半人前なの。つきひめ様から力をいただいても、うつわが小さいからすぐに尽きちゃうんだ。ナツキの方こそ、疲れたでしょ。慣れない土地に来て」


 つづらがねぎらってくれる。


「うん。世界が全然違いすぎて、何だか物凄く遠くに来てしまったんだなって感じる」


 泥のような疲労感にまみれたまま、腕を顔の上に持ってきて蛍光灯けいこうとうの明かりを遮り、目を閉じる。


 どれだけ自分を励まして前向きに考えようと頑張っても、この見知らぬ土地では自分の存在が揺らぎ、確証かくしょうが持てない。


──もし、このままずっと帰れなかったら。


「お邪魔します」


 突然、ふすまがすっと開いて、浴衣姿の美月さんが入ってきた。風呂上がりのようで、長い髪をしっとりと濡らし、うっすら顔を上気させている。


 女子にだらしない所を見られまいと、反射的に飛び起きて正座した。

 しかし、彼女が深夜に俺の部屋を訪れる意味が分からない。


 俺の部屋に入ってきた美月さんがかがんで、正座している俺に目線を合わせてくる。


 おとなしそうな感じに見えるが、近くで見ると結構可愛い顔をしていて、先程の神事しんじの時の涼やかな表情とは別人のようだった。


「夏輝くん」


 ずいと詰め寄られ、思わず後ずさりしつつも、気持ちが舞い上がる。


「な、なんでしょう」


 思った以上に距離が近いので、固まっていると美月さんが言った。


「──運が悪い事を気にしてはいけません」


「え?」


「心の持ちようが大事だと思うんです。御神籤おみくじ大凶だいきょうが何度出たとしても、引き直せば良いかと!」


「──お、おみくじ?」


「さっき嘆いてましたよね? おうちに帰れなくなったご自身の運の悪さを」


 どうやら、夕食の時にホームシックになっていた俺を心配して、励ましに来てくれたらしい。


「もしかして、それを言いに来てくれたんですか」


「はい。心配だったので。でも、夏輝くんが思ったよりも元気そうだったので良かったです」


 美月さんが「では、これで失礼します。ゆっくり休んでくださいね。つづら様も」と花のような笑顔を見せると、ふすまを閉めた。


 立ち去っていく足音。恋の展開を期待した俺は、美月さんの心の美しさに触れて急に自分が恥ずかしくなり、枕に頭を埋めた。


「あれ、赤くなっちゃって。キミは何を期待していたのかい」


「何でもないです。何も期待していません」


「ミヅキってちょっと変わってるでしょ。マイペースと言うかね。でも、物凄くいい子なんだよ」


「あー、俺もそれは分かる」


 電灯を消し、障子を開けた。

 先ほどまでの星空はどこへやら、すみりつぶしたかのような漆黒しっこくの空と無数の黒雲くろくもが見え、吸い込まれそうな気がして怖くなる。


──突如とつじょ風が吹き、いっかい雲間くもまから現れたのは、鏡のように白く輝く月だった。


 流れゆく雲の中で、あの月だけは動かない。

 どんなに周囲の状況に翻弄ほんろうされても、流されることはない。


現世うつしよもそう悪くはないよ。明日から一緒に頑張ろう、ナツキ」


「うん。ありがとう、つづら」


 長い、本当に長い一日だった。

 障子を開けたまま布団に横になった。


 いったん横になると、見知らぬ土地での不安よりも疲労の方が勝り、あっという間に眠りに落ちていった。



イラスト

https://kakuyomu.jp/users/fullmoonkaguya/news/16817330655109481523


⛩⛩⛩

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