2.俺とお前のクリスマス



 俺が目覚めたのは、12月25日の正午をとっくに回った頃だった。

 ソファから起き上がってみると、りょくの姿はどこにもなかった。

 当たり前だ。お日様の出てる真っ昼間だもんな。



 俺はのろのろと身を起こし、周囲を見回す。

 床じゅうに散らばったビールの空き缶。寝室には、とっくに崩れた翠のた〇きのツリー。

 そしてテーブルには、昨夜緑が作っていたローストビーフが残っていた。

 コンロにはまだビーフシチューもある。

 ちゃんと昨日、緑が『来て』いた証拠だった。


 きれいにスライスされたローストビーフを見下ろしながら、俺は思わず呟いた。


「あのバカ……

 こんなにたくさん作られたって、俺一人じゃ食べきれねぇよ」


 俺はふと思い立つと、ローストビーフを半分ほど別の皿にとりわけ。

 ラップに包んで、隣室の住人に持って行くことにした。





「あら、伊藤さん。お久しぶりです」


 ベルを鳴らすと、赤ん坊を抱いた若い女性がすぐに出てきた。

 彼女は隣に住む仁藤さん。この若さでシングルマザーである。

 母一人での子育ては俺には想像も出来ないほど辛いものだろうが、それでも彼女は友人の手を借りながら、何とかやりくりしているようだ。

 今日も何人か友達が来ているらしく、中からは忙しいながらも楽しげな声が聞こえる。

 そんな彼女に、俺はローストビーフを差し出した。


「あの。これ、昨日作りすぎちまったんで……

 良ければ、皆さんでどうぞ」


 赤ん坊を抱きながら、彼女は花のようにぱっと顔を輝かせる。


「あら、嬉しい!

 私ローストビーフ大好きなんですけど、この子から手が離せなくて、今年は作るの無理かなぁと思ってたんです。ありがとうございます!!」


 赤ん坊を抱いている為受け取れない彼女のかわりに、奥から出てきた友達がいそいそと俺から皿を受け取っていく。


「へぇ~、美味しそう!

 ローストビーフ作れる男がこんな近くにいたなんて。あんたもまだまだ捨てたもんじゃないわよ~」


 中にいるのは、そこそこ可愛い女の子たちばかりだったが――

 今の俺には、何の感情もわかなかった。


「じゃ……

 俺、失礼します」


 そう呟いて背を向けようとした、その時。

 ふと、赤ん坊が俺に向かって、手を振った。笑いながら。


「だぁ、だぁ~」


 赤ん坊が何を言っているのか、俺にはさっぱり分からない。

 ただ――その笑顔は、何故か、りょくに似ている気がして。

 しかめっ面ばかりの緑がたまに見せてくれてた、何も考えていないふにゃけた笑顔に似ている気がして。

 俺は思わず顔を背け、その場から逃げるように駆け出し。

 そのまま『自分の』部屋に戻り、ばんと音を立ててドアを閉めていた。




 ――仁藤さんの部屋は、元々は俺の部屋。

 そして今俺が住んでいるのは、元々は緑の部屋だった場所。




 ふてくされたように、しばらくソファに寝っ転がった後。

 ベランダに出て、今更のように俺は現実を噛みしめる。


 日差しは奇妙に白く強く照りつけているはずなのに、空気は酷く冷たい。

 4階から見下ろすと、コンクリートの道路だけが黒く浮かび上がってくるようだ。

 ホワイトクリスマスなんて言葉とは無縁の、乾いた無機質な街だけがそこにある。

 全てを暖かく柔らかく包む雪も。

 冷えた心を明るく照らす燭台も星も暖炉も、ない。

 昨日までは、一応電飾で飾られていた街角の黒い街路樹も――

 イヴが明けたら、もう素っ裸にされている。

 当然、プレゼントをくれるお優しいサンタなんてものは、どこにも存在しやしねぇ。




 ――3年前のクリスマスイヴ。

 あいつ――緑は、ここから身を投げた。




 きっかけはほんの些細な、仕事のミスだった。

 だがあいつはそのミスが原因で上司に目をつけられ、パワハラを受け続け。

 俺は何度も緑を励まし、クソ上司を何とかしようとしたが、どうにもならず。

 結局――あいつは。




 緑が落ちた場所に、俺は瞬きもせずじっと視線を落とす。

 降らない雪が憎かった。雪が積もっていれば、あいつを少しでも柔らかく抱きとめてくれていたかも知れないのに。

 凍てつく空気が憎かった。追いつめられたあいつの心を、さらに閉ざしてしまっただろうこの街の空気全てが。

 雪すら降らない、サンタさえ寄りつかない、世界一寒々とした都市。

 そんな形容が、この街にはぴったりだ。

 ただ冷たく凍りついた黒いコンクリの上に、容赦なくあいつの身体は――



 それでも落ちる寸前、たまたま下の街路樹に引っかかったのが幸いしたか。

 何とか緑は、命だけは助かった。

 だけど未だにその心は戻ってこないまま、今もあいつは病院で昏々と眠っている。



 俺は大家さんに頼み込み、緑のいなくなった部屋を俺の部屋にしてもらった。

 あいつがいつ戻ってきてもいいように。

 戻ってきたら二人で住み、今度こそ、俺があいつを守れるように。

 大家さんも、飛び降りのあった部屋をどうするか困っていたようだったから、俺の申し出はすんなり受け入れられ。

 今、俺は緑の部屋に住んでいる。



 そのおかげか知らないが。

 時々緑は、俺の元に『来る』ようになった。

 昨夜みたいに。



 俺と一緒にイヴを祝ったのは、いわば緑の生霊みたいなもんだ。

 出現するのは決まって夜。太陽の出てるうちに出ることはない。

 いつものイヴと同じように、あいつはシチューを作ってローストビーフを焼き、飲んだくれの俺を叱る。

 自分はいつも通り会社に行って仕事して、自分の部屋に戻ってきていると――

 あいつは多分、そう信じ込んで疑わない。

 散々受けたパワハラも、その結果自分がどうなったかも、覚えていない。

 酷く冷え込む深夜ベランダに出て、完全に死んだ目で仕事の内容をブツブツ暗唱しているなんてこともない。


 俺が知っている、俺が好きな、緑のままで。

 あいつは時々、俺のところに来てくれる。

 最初は仰天したけれど、あまりにあいつが普通に接してくるもんだから、こっちもいつのまにか普通に駄弁っていた。

 去年もイヴの夜に出現し、元旦の夜まで居てくれた。

 散々、目を吊り上げて、俺を叱りながら。

 時々、俺が大好きな、ちょっと抜けた笑顔を見せながら。




 もしやと思い、机の引き出しを開くと。

 イラストも宛名も綺麗に印刷された、来年の年賀状が用意されていた。勿論、俺の分の。

 多分今夜あたり、部屋の片づけもやってくれるんだろう。

 戸棚を見ると、もう正月用の栗の甘露煮と田作り、黒豆がしまってあった。

 明日あたりから取りかかるつもりなんだろう。でなきゃ俺にどうしろというんだ。



 俺はぐったりとソファに寝転がり、天井を見つめた。

 昨夜確かに緑がそこにいたはずのソファは、今は自分の温もりしかない。

 去年緑はイヴから正月明けまで一緒にいたけど、元旦過ぎると消えていた。

 確かにウチの会社、2日から仕事始まるクソブラックだけどさ。そんなとこまで律儀にしなくったっていいじゃねぇか、あのバカ。

 俺みたいに3日までちゃんと有給取って、のんびりすりゃいいのに――



 そんな感じでグダグダとビールを飲み、動画を見て独りで愚痴りながら、ソファで寝ていると。

 いつの間にか日は沈み、夜になっていた。

 今日もまた、無駄すぎる時間の使い方をしてしまった。また緑が戻ってきたら怒られるんだろうなぁ。



 ――



 ――って。

 今、もう夜だろ。9時過ぎだろ。

 あいつの気配がしない。この時間になれば、姿は見えなくても何となく気配が分かるのに。




 急に不安になって起き上がった時。

 不意に、足元に転がっていたスマホが鳴った。

 緑の病院からだ。俺は勢いよくスマホを掴み、応答する。



「……はい、もしもし……

 ……ん……はぁ、それで緑のヤツは……

 って、え、えぇえっ!!?

 ほ、ホントですか。マジっすか!!

 すぐ行きます。ハイ、タクシー捕まえてすぐにでも行きます!!」



 俺は床に散らばる空き缶を蹴飛ばすようにして立ち上がり、パーカーのまますぐにコートを羽織った。

 無駄な一日だなんてとんでもない。

 サンタがいないだなんてとんでもない。

 若干遅刻はしたが、サンタは最高のプレゼントを俺に贈ってくれたじゃないか。

 緑が。緑がやっと、やっと――!

 こんな嬉しいプレゼント、他にあるか。



「よーし!

 ちょっくら遅くなったけど……

 今年は俺の方から、緑ちゃんにケーキをプレゼントだ。退院祝いすっか!!」



 パーカーに便所サンダル。あいつに見られたら絶対怒られる格好ではあるけど。

 それでも俺は、駆け出していた。黒いコンクリの街へ。

 イヴにはついに降らなかった雪が、天からちらちらと舞い始めていた。

 頬を真っ赤にした俺を、祝福するように。



 Fin

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「僕」と「俺」のクリスマス kayako @kayako001

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