身と心
王生らてぃ
本文
小さい頃好きだった女の子がいた。名前は咲子ちゃん。保育園のころからずっと一緒で、毎日一緒に遊んでいた。毎日一緒にお昼寝をしたし、休みの日はご飯を一緒に食べたりした。小学校に上がって、クラスがばらばらになっても、休み時間はいつも一緒だったし、帰るときはいつも一緒だった。
咲子ちゃんの手を握るのが好きだった。咲子ちゃんの髪の毛はきれいで真っ直ぐで、風になびくといい匂いがした。足の速い男の子より、咲子ちゃんのことが好きだった。
だけど三年生の終わり、咲子ちゃんは家の都合で転校してしまうことになった。
「これ、あげるね」
引っ越しの日、見送りに行った私に、咲子ちゃんは宝物にしていたぬいぐるみをくれた。頭にネコミミが着いた、ふわふわした、かわいい女の子のぬいぐるみ。
「いいの? 大切なものなんでしょ?」
「いいよ。絵里ちゃんに持っててほしいから。これを私だと思って仲良くしてあげてね」
「うん。ありがとう、大切にするからね」
私はそのぬいぐるみのことを咲子ちゃんと呼んで、いつも胸に抱いて過ごしていた。学校から帰ったらすぐに部屋に行って、咲子ちゃんを抱きしめてあげた。
毎日体を拭いてきれいにしてあげて、時々お風呂にも一緒に入って、寝るときはいつも一緒だった。咲子ちゃんはとてもいい匂いがして、抱いていると心が安らいだ。中学生になっても、高校生になっても、私と咲子ちゃんはずっと一緒だった。
咲子ちゃんはしゃべらないし、一緒に遊んでくれるわけでもないけど、私は咲子ちゃんと一緒にいるだけで心が満たされたし、友だちも、恋人もいらないって気になれた。学校であった楽しい話をすると咲子ちゃんは嬉しそうにしてくれる。不満や愚痴だって、嫌な顔ひとつせず聞いてくれる。時々けんかすることもある。だけど最後は仲直りして、一緒にベッドで眠る。
受験勉強の時も、いつも一緒にいてくれた。合格発表の時は咲子ちゃんも一緒に行った。私の番号を見つけてくれたのは咲子ちゃんの方だった。
一人暮らしを始めても、咲子ちゃんはいつもそばにいてくれた。バイトから帰っても、サークルの飲み会で二日酔いしても、カーテンを取り換えても、引っ越しをしても、咲子ちゃんだけは絶対そこにいる。それが何より安心できた。私のすべては咲子ちゃんのためにある。
このころ私には恋人ができた。サークルの後輩の陽菜という子だ。後輩だけど、彼女は一年留年していて同い年だった。背が高くてスタイルもよく、同い年とは思えないほど大人びていた。飲み会の帰りに終電を逃した彼女を家に泊めたことがきっかけで、付き合うことになった。
「絵里、そのぬいぐるみ、どこで買ったやつ?」
陽菜は煙草に火をつけながら、私に尋ねた。
「買ったんじゃないよ。咲子ちゃんは大切なお友だちだから」
「大学生にもなって、何言ってるの」
「そんなこと言わないで。咲子ちゃんにひどいこと言わないで」
ふわふわの咲子ちゃんは悲しそうに、フェルトの心臓を少し震わせている。
陽菜はぷーっと煙を吐き出すと、そのままソファまで歩み寄ってきて、私の隣に座った。
「ずいぶん古いじゃん、それ。あちこち、ボロボロだし」
「毎日ちゃんと洗ってるよ。きれいにしてる。髪の毛だって、時々……洋服も……」
「私、絵里のこと好きだけど、そのぬいぐるみのことはあんまり好きじゃないな。だって、私よりずっと絵里に愛してもらってるんだもん」
「嫉妬?」
「そう。嫉妬」
陽菜は後輩のくせに、ふたりきりでいるときは私のことを呼び捨てにする。
陽菜はぐいっと私の肩に腕を回すと、煙草くさいキスをした。
「やぁっ、咲子ちゃんが見てるから」
「見てないよ。目がないんだから」
そのまま首筋に顔をうずめて、私の腕や腿に手を回す。陽菜は背が高いから、手も指も私より一回り大きい。くすぐったくて、力強い感触が身体を這いまわる。私は咲子ちゃんをぎゅっと抱きしめた。
「やめてよ、こんな無理やりするの」
「私は絵里に、私だけを見てほしいのに。絵里は私のことを見てても、心はちっとも開いてくれない。いつもいつも咲子ちゃん咲子ちゃんって、寝言でもずっとぬいぐるみの名前ばっかり呼んで、私のことはちっとも呼んでくれないくせに」
「陽菜のことは好きだよ。大好き」
「うそだよ。ぜんぜん、好きじゃないくせに」
うそじゃない。
私は陽菜のことが好き。きっかけがどうあれ、私は陽菜に抱かれているのが好きだし、陽菜が私に告白してくれたときは嬉しかった。だから恋人になった。受け入れてあげた。
でも、こんなふうに乱暴に、無理やり、咲子ちゃんの前で、私のことをいじめたことはなかった。
「やめて……」
「やめないよ」
陽菜はいたずらっぽく笑うと、私の手から咲子ちゃんをするりと奪い取って、ベッドの枕元に放り投げた。ひゃっと、命綱が外れた時みたいな悲鳴が喉の奥から漏れた。そのまま私はソファに押し倒されて、陽菜の匂いとキスに押しつぶされた。
助けて。
助けて咲子ちゃん。助けて。私を見ないで。
「私、絵里のこと好きだよ。大好き。愛してる」
夜空がもううっすら白み始めているころになって、陽菜はベランダで煙草を吸いながら、私に行った。私はもう疲れてしまって、声も出なくなっていた。喉が渇いた。
「私も好き」
「でも、愛してるわけじゃないでしょ」
答えられなかった。
「陽菜のこと、好きだよ。あたたかくていい匂いがする。陽菜に触れていると安心できるの」
「誰だっていいんでしょ、生身の人間なら。男でも女でも」
私はベランダに裸足のまま飛び出して、陽菜を突き落とすほどの勢いで彼女の背中に抱き着いた。指先の煙草をむしり取ると、こぼれ落ちて手すりにぶつかって、ベランダの床に落ちた。
「陽菜、キスして」
「嫌だ」
「なんで。さっきは私に、無理やりやったくせに、どうして? 私が陽菜のことを好きだって、信じてくれないの?」
「あのぬいぐるみが見てないからでしょ。咲子ちゃんが」
ベランダからは、ちょうどベッドは窓の死角になっていて、咲子ちゃんの姿は見えない。
陽菜は煙草を拾い上げて、灰皿に押し付けると、私のことを冷たい目で見た。
「私はこんなにあなたのことを愛しているのに。あなたは私が、肉を持った人間だから、それだけの理由でしか求めてくれない」
「そんな……こと……」
「私は、身も心もあなたにさらけ出したかった。だから、あなたと一緒になりたかった。勇気を出して告白したのに――あなたは、私の体しか触れてくれない。つらいよ。すごく」
「陽菜、」
「ごめん、もう帰るね」
コートを着て、部屋をゆっくりと出て行く陽菜を、私は止めることもできなかった。
咲子ちゃんも、そんな陽菜の背中をじっと見つめていた。
それから二日間くらいは、食事ものどを通らなかった。
枕元の咲子ちゃんは、何も言ってくれない。あんなところを無理やり見せつけられたら、誰だってショックだろう。私も、咲子ちゃんとはあまり話したくなかった。今までもけんかして、何日か口を利かないことはあったけど、今回ばかりは仲直りのきっかけが訪れることはないように思えた。
咲子ちゃんごめんね。怖かったよね。
でも、触れるのも怖ろしい。そうしたら、びっくりした咲子ちゃんは、どこかへ逃げ出してしまうかもしれない。だから私は、咲子ちゃんをベッドの枕元に置いたまま、だけど、腕に抱くことはせずに眠る。
ベッドからは、煙草の匂いがする。
スマホのメッセージが届いていた。陽菜からだった。
『別れてほしい』
短い一言だった。私はいいよ、ごめんね、と、何回かに分けて返事をした。既読はついたけど、それきり返信は来なくなった。
ベッドには陽菜の匂いが染みついている。
もう抱いてもらうこともできない。私は怖かった。ほんとうは、あの小さい頃から、咲子ちゃんとキスをしたり、抱き合ったりしたかったのだと気付かされてしまったから。だから陽菜を求めた。
でも陽菜はいない。
私には咲子ちゃんがいればそれでよかった。だけど、咲子ちゃんで満たされていた私の心は、もうどこかへ行ってしまった。私は空っぽになった。もう、咲子ちゃんがどんな顔だったか、どんな声だったか、思い出せない。
身と心 王生らてぃ @lathi_ikurumi
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