仁藤君side

第3話


「あれ、どうしたの仁藤君。雨降ってないのに雨音聴いてない」


 公園の屋根付きテーブルのベンチに座っていると、クラスメイトの松浦さんが隣に腰掛けてきた。


 梅雨明け宣言はまだ出ていないのに、晴れの天気予報が向こう一週間に並んで本格的な夏が始まる予感がし始めた放課後。夏至に当たる今日は太陽の位置がまだ高く、湿気と熱気を含んだ空気が漂って肌にまとわりつく。背中に汗が流れる気配がして、隣に座る松浦さんから少しだけ距離を取った。


「うん。なんとなく今日の心は穏やかだから」

「そっか。じゃあ今日は犬の動画でも観る?」

「うん」


 自分のスマホを操作して「どの動画にしようかなぁ」とスクロールする松浦さんを横目で見て、僕の口元は無意識に綻んでいた。


 ここ最近、僕を悩ませていた症状が出ていなかった。事あるごとに僕を襲っていた症状は、元からなかったかのように消えたのだ。なぜかは分からない。でもいつからなくなったのかは分かる。松浦さんと話すようになってからだ。羽音のような虫の音がジージーと聞こえていた僕の耳から、不快な音が消えた。


 僕は原因不明の耳鳴りに襲われていた。病院に行っても耳自体には問題が無いと言われ、ストレスが原因だろうと言われた。問題が無ければ施す治療も無い。それでも耳鳴りは聞こえる。「気にしないのが一番」と言われ、誰も分かってくれない。治すことができない。そのストレスでますます悪化した。そんな時発見したのが『雨音』だった。ザーザーと雨が激しく降っていた日は、なぜか耳鳴りが気にならなかった。耳鳴りよりも雨音の方が気になって、不快感が無くなっていた。雨の音が耳鳴りの音を消したのだ。


 それから僕は耳鳴りが聞こえると雨音を聴くようになった。それを繰り返しているうちにいつの間にか僕にとって雨音が癒しの音になり、リラックスできるようになった。僕にとっては世紀の大発見だった。


 それなのに「何してるの?」と松浦さんから肩を叩かれたあの時、クラスメイトに見つかってしまったことがすごく恥ずかしくて情けなくて、逃げ出したかった。ジメジメと蒸し暑かった空気が一気に冷えて、身体がガタガタと震えだす。教室で誰とも話さない僕に声を掛けてくるなんて、何を企んでいるのだろう。基本、人を信じることができない僕は、疑いから入る。雨音を聴いてるなんて知ったら、バカにされるに違いない。それでも彼女にイヤホンを差し出したのは、松浦さんの肩越しに虹が見えたからかもしれない。大きくハッキリと空に半円を描いて浮かんでいる虹。虹なんて言ってしまえばただの大気光学現象にすぎないのに、あの時はやけに美しく見えた。この人は僕のことを笑うことなんてしないんじゃないか。根拠のない勘が手のひらに右耳のイヤホンを乗せていた。


 松浦さんは本当にバカにしなかった。僕は自分の勘の鋭さに驚き、彼女の心の豊かさに安心した瞬間だった。


「わぁ、見て。可愛いぃぃぃ。わたし猫派だけど、仁藤君のせいで犬もいいなって思ってきてる」


 目尻を垂らしてとろけそうな笑みで僕に近付き、画面を見せてくる松浦さん。「それ僕のせいじゃなくて僕のおかげでしょ」と返しながら、心臓の鼓動を聞かれないように少しだけ後ずさった。白い毛のモフモフした犬が、口周りを汚しながらドッグフードにがっつく動画を観て松浦さんは「可愛い」を連発し、頬を火照らせてニヤニヤしている。


 僕はどうしてこの犬になりたいと思っているのか、見当がついていた。この時間が僕にとっては最大の癒しで、松浦さんは雨音なのだ。彼女と話していると耳鳴りは聞こえない。


 暗雲が立ち込め、そこから抜け出せなかった僕は、細くて真っ直ぐな光が遠くの方に落ちているのを見た。その光は段々と光量を増し、1本の糸くらい細かったのが木の幹くらいの太さに広がり、僕の元に届く頃には世界が光に満ちていた。僕にとって松浦さんは暗闇の中の光で、直視なんてできないけれど、遠くからでもいいから見ていたいと思う。


「じゃあ、次は猫の動画ね。仁藤君を猫派に引きずり込んじゃうよ~」


 君が猫派ならいつでもそっち側に回れるけど、今はまだ反対側にいたい。だから僕は「犬派からは抜け出せないよ」と嘘をついた。


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