第23話 親父
心臓ががなり立てる。鼓動がロックのBPMより速く感じる。
確かな興奮が腹の底から湧き出てくる。
けれど、変に警戒されないように、顔だけは冷静を装った。
「じゃあ、さっそくなんですけど……。フィルムにしてください!」
緊張か、あるいは熱に焼かれたのか。
理由はわからないけれど、カラカラに干上がった喉は枯れた声をうみだした。
マスターは、もはや隠しきれていな興奮をぶつけられて、宥めるようにゆっくりと提案する。
「もちろんです。とりあえず、お席に戻りましょうか。そちらでお話しましょう?」
素直に従って席へ戻る。途中、自然と早くなる足につられて身体がつんのめってしまった。
少し遅れてやってきた彼女の手には、一枚の紙が握られている。
ぺらりと置かれたそれは、ざっと見る限り契約書のようだった。
「こちらは契約書です。事項を確認して、了承する場合は署名と血判をお願いしますね」
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『ようこそ、フィルム屋へ!
ここではあなたが持つ記憶をフィルムに現像して、もう一度ご覧いただけます。
あなただけの大切な思い出を、もう一度振り返りましょう!
現像するにあたって以下の注意点をご確認の上、署名をお願いいたします。
一:現像された記憶は、一度目を通していただいたのちに当店で厳重に保管させていただきます。なお、保管期間中はご本人様以外の閲覧をご遠慮いただいております。ご了承ください。
二:現像された元の記憶は、お客様の脳から完全に抹消されます。
三:現像の代金として、その記憶にまつわる質問に必ずお答えいただきます。その他(現金等)ではお支払いいただけませんので、ご了承ください。
四:この契約を証するため、ご自身の署名と血判をお願いしております。なお、ご記入と血判が済んだ時点で、契約が成立したものとして扱わせていただきますので、ご了承ください。
氏 名: □』
ピンマイクに声が入るように、けれど限りなく小さい声量でこれを読み上げていく。そして全てに目を通したのちに、マスターを見上げた。
「記憶が消えるなら、それをフィルムにしてもう一度見ても仕方なくないですか?」
疑問を投げかける。
すると彼女は「ああ、それは」と説明してくれた。
「元の記憶、オリジナルの記憶は消去されます。
ですが、記憶を見た記憶。コピーの記憶と言いましょうか。それは消えないのでご安心ください」
簡潔だけれど少しややこしい説明を自分の中でかみ砕く。
つまり元のデータをコピーしておけば、生データは消えても問題はない。という解釈でいいのだろうか。
感覚的に納得すると、マスターは「ほかの質問は?」と目で聞いてきた。
「んー、じゃあ。記憶の売買ってなんですか? 誰が、なんで買うんです?」
質問をしている最中、彼女がどこか嬉しそうなことに気づく。
孫を眺めるように、頬が緩みっぱなしなのだ。
「それは、私が仲介役として売買していただけるものです。システムとしては、代理店のようなものですね」
代理店も、代理店のシステムもよくわからない。けれどこれをネットの海に流す以上、『頭が悪い』というレッテルが貼られるのは困るから、わかったふりをしてこの場をしのぐ。
「ほかにはなにかございますか?」
「ああ、いえ。大丈夫です」
マスターは満足そうな笑みを浮かべると、インクボトルと羽ペンを差し出してきた。初めての羽ペンに苦戦したけれど、受け取ったのその手で署名する。
『押花 春樹』
書き上げた達成感の裏にある、異様な気配。
それは背後にいる。
「……っ!」
ばっと音がしそうな勢いで振り返る。
それでもそこには、壁があるだけだった。
先ほどまで温かみを感じていた場所が、途端にうすら寒く感じる。
なにか、得体の知れないモノが近くにいる。
しかもそれは、危ない。本能でわかる。
はやく逃げないと……。
微かに笑う膝を強く握り、太ももを隆起させる。
そして、尻が椅子を離れ始めた。
けれど、マスターは笑顔で細い針を差し出してきた。
フィルム屋 一 山大 @sakaraka_santya1
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