16.赤毛の吸血鬼 後
警戒するジョシュアの視線と、我に返った赤毛の眼差しが絡み合った。その瞬間、赤毛から息を呑むような音が聞こえたかと思うと、途端に悲鳴交じりの声が上がった。
「うっそ、マジか俺ッ……、ごめんよ!」
赤毛は一瞬の内にジョシュアの元へと駆け寄ったが、ジョシュアにはそれがまだよく見えていない。再び襲われるのではないのか。そんな恐怖心で、まるで逃げるかのように体を仰け反らせた。
そんなジョシュアを、赤毛はとっさに腕の中へと抱き込んだ。その背に腕を回し、ナイフを握ったジョシュアの手を上からそっと握り込む。
「もう大丈夫、ごめん。ごめんよ。もう、大丈夫だから。俺のミスだ……楽しくて浮かれて、調子に乗ってた」
まるで子供に対して、
その背を優しく擦り、未だナイフを握り締めた手に指を絡めてするすると撫でた。それでもしばらくは震えが止まらなかったが、徐々に落ち着きを取り戻していく。
緊張しきっていた体から段々と力が抜け、ジョシュアがホッと息をつく。手にしたナイフがぽろりとベッドの上に落ちていくのが、ジョシュアにも分かった。
そして赤毛は静かに、声のトーンを落として言った。普段の彼からは想像もできない声音だった。
「説明、ちゃんとしとくべきだった。前に少しだけ話したと思うけど、俺、吸血鬼の中でも大喰らいなんだよ。だから、普通よりも何倍も血が欲しくなる。でもそれは別に、必ずしも必要な血の量って訳ではないんだ。ただの俺の欲、ってだけの話。俺自身が他の奴等よりも強欲で、普通じゃ満足できないって事。だから、その満足感が不足し過ぎると、さっきみたいに我を忘れる事がある。姐さんに一時期狙われたのもそのせい」
まるで独白するかのような話しぶりだ。ジョシュアはそれを、ただジッと黙ったまま話を聞いた。
「さっきのアレは……今回のは、俺が食事を選り好みし過ぎたせいだよ。最近は君の血ばっかり口にしてたから。他の人間から血を貰うのをサボってたんだ。君ほど美味しく感じる血は無いから。……全くもって俺の怠慢。大分良くなったとは思ってたけど、ほんと、俺は相変わらずの強欲者だわ。せっかく任されたってのにさぁ。師匠失格」
そう言い終わると同時に、赤毛は大きく溜息を吐きながらぎゅうとジョシュアを正面から抱き締めた。
ジョシュアはそれに抗う事もなくされるがままだ。すっかり緊張の糸が切れ、体中から力が抜けきっている。貧血で頭がクラクラとしていた。
一度体を離され、体勢を変えられる。横抱きにされ、体をその場で寝かされた。
ジョシュアは眉間に皺を寄せたが、文句を言う気力さえ湧かずにされるがままだ。赤毛はそんなジョシュアの耳元へ顔を寄せると、優しく声をかけた。
「“影”の、俺の血飲んどきな。今はあんまり量はあげらんないけど、少しは楽になる」
赤毛は、親指の付け根に牙で傷を付けると、ジョシュアの口許にそれを押し付けた。血の匂いを嗅ぎ取ったジョシュアは、目を瞑ったままその手に舌を這わせる。一瞬、その手がびくりと震えた気がしたが、ジョシュアにはそれを気にする余裕もなかった。
傷口から流れ出たその血を舐め取り飲み込んでいく。ほんの僅かな量でも口にすれば、ジョシュアの体は幾分か楽になった。そのまましばらく、その傷が完全に塞がってしまうまでの間、ジョシュアは赤毛の好意に甘えるのだった。
ジョシュアが体を起こす頃には、イライアスに開けられた首筋の穴はふさがっていた。そこには、ジョシュアが死んだ時の牙の痕が微かに残るだけ。それ以外にはもう、何もなかった。
「“赤毛”の、もう、大丈夫だ」
「ん」
いつもより随分と聞き分けの好い赤毛から離れ、ベッドの上で向き合うように座る。さすがに落ち込んでいるのか、目の前の赤毛はまるで、捨てられた犬のようにしょんぼりとした顔をしていた。怒る気にもなれない。
ジョシュアはできる限りそっと、普段の調子で赤毛に言うのだった。
「もう、ああいうのは御免だからな」
「うん」
「食事の確保くらい、俺にも手伝えるんだから言ってくれ」
「……うん」
ガシガシと頭を掻きながらジョシュアが言えば、赤毛は子供のような仕草でコクン、と首を縦に振った。それが体格に似合わず随分と可愛らしいものだったので、ジョシュアは衝動のままにグッと喉の奥を締めた。
デカくて騎士のような男に向かって可愛らしいだなんて、きっとそれは随分とおかしな感情であるに違いない。ジョシュアは自分の頭がおかしくなってしまったのかと疑ったのだった。
そんな時だった。赤毛が不意に口を開いた。
「ねぇ、俺さ、“影の”に本名教えとくね」
一瞬、ジョシュアは何を言われたのか理解ができなかった。あまりにも唐突で、おまけに耳を疑うような話だったから。
魔族にとっての
「お前、何を……、真名は普通、
「うん。……ホントはね、姐さん以外誰にも教えないつもりだったんだけど。また、姐さんが居ない時に俺が何かしちゃったら、ヤだから」
「けど、そんな大事なもの俺なんかに教えて――」
「アンタだから教えるの」
「!」
ジョシュアが思わずそう口走れば、赤毛は語気を強めてそう言った。怒ったような拗ねたような、普段とはまるで違う面持ちだ。
その顔があまりに真剣なものだったから。ジョシュアはひどく
「アンタが、姐さんと同じく信用に値する奴だって思うから言うの。俺が駄目になった時、殺されるならアンタら
真っ直ぐに、真剣な眼差しでそんな事を言われてしまって、ジョシュアはもう拒否することなんて出来やしなかった。
他者に真名を預ける。それがどういった意味を持つのか分からないほど、ジョシュアも
「……覚えても多分、俺には呼べない」
「ダメだよ。今日みたいに二人きりの時は名前で呼んで。俺が呼んでって言ったら名前呼んで」
ジョシュアがどう言っても赤毛は譲らない。彼にはそれが疑問で仕方なかった。一体何故自分なのか。困惑するばかりだった。
「なぜ、俺にそんな……」
「俺がそうしたいから」
「でも――」
「俺がイイって言ってんの」
尚も拒否しようとするジョシュアに、赤毛は一歩も引かなかった。最早溜息しか出ない。
彼らはまだ出会ってひと月ほどだ。無理やり人間の血液を吸血させられたり、共にミライアの情報収集を行ったりはしたが、それも通常の協力関係の
「俺は強くはないぞ。何かあればアンタにも危険が及ぶかもしれない」
「その時はその時だ。修羅場は吸血鬼にとっちゃ好物だよ」
「……どうしてもか?」
「どうしても」
「……わかった」
「そ。最初っから素直に受け入れてよ。俺の事見くびりすぎ」
「アンタはそりゃ、大丈夫かもしれないが……俺が、駄目かもしれないだろ」
ジョシュアは不安なのだ。そんな大事な事を、自分のような弱い男に預けても本当に良いのか。敵に
「姐さんとはまだしばらく一緒に居るでしょ? そんなら姐さんに敵う奴なんて居る訳もないし。それに、“影の”が一人立ちする時にはもう、アンタに敵う奴なんてまず居なくなる時だよ」
「……そう、か」
「そ。姐さんに捕まってる時点で、アンタは最初から普通じゃなかったんだよ。“化け物”だ。だから、最初っからアンタは何も考えずに『うん』て言えばいいの」
納得なんて、今のジョシュアには到底できない。赤毛の甘い言葉ですら、疑わしいと思ってしまう。ジョシュアは内心では
いつもと同じ。弱いジョシュアにはどうしようもないことだった。
我が身は死人の世界 巽 @tatsum111001
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