真蛇、本成、愛の果て
飯田太朗
真蛇、本成、愛の果て
私がH県のF村を訪れたのは本当に偶然のことだった。冬の、雨が降る日だった。私はフィールドワークの一環として彼地に伝わる真蛇伝説について調べに来ていた。
真蛇とはいわゆる般若の進化系というか、「恨み、怨念を持った女性」が変化する
H県南部には鬼女伝説があり、中でも「恨みのあまり蛇と化した」女の伝承は各地に点在していた。一説によると能に類似する芸術文化もこの土地に根付いていたとかで、先述の「般若の面」の派生系としての真蛇もこのH県が発祥なのではないかという仮説を私は立てている。
私の恩師……
「大きな矛盾はない……頷ける」
私は嬉しくなった。しかし師は続けた。
「だが矛盾が……無理がなさすぎる。これはね、
それから伊達崎先生は私の目を深く覗き込んだ。
「これは覚悟がないとできない仕事だ」
「覚悟……と言いますと」
私の問いに師は真剣だった。
「真理は、時に人を拒む。その境界線を越えて真実を得ようとするなら、心して、かかりなさい」
私はその時のことを夢見心地に覚えている。実際、研究続きで碌に眠れてもいないあの時はほとんど眠っていたようなものだろう。師との会話は忘却と記憶の狭間にあった。それこそ、現実と真理の境界線のような。
かくして私は一路、研究のためにH県を訪れた。名産品である干物と酒を買い込み、当日の晩酌用とし、研究対象であるE村を目指した。道のりは車で二時間。トラブルは一時間ほど走ったところで起きた。
安い会社の安いレンタカーにしたのがまずかったのだろうか。それまでは順調に動いていたエンジンが突如嫌な音を立てて止まった。幸い車通りの少ない道でのことだったが……しかしそれが逆に致命的だった。
エンジンルームと格闘すること二時間。自分の手ではどうしようもないことを悟った私はバッテリーがあるうちにスマートフォンで現在地を確認し、近隣に人里がないか調べた。半径数キロに渡り森しかない土地だったが、どうもここから一キロほど先、崖の近くに人里らしき開けた土地を見つけた。衛星写真で確認する。屋根、畑……らしきものが見える。私の目指すE村ではないが。
だが、ここに行くしかない。
そう覚悟を決めたら速かった。私は荷物と車の鍵とを持って森に分け入った。
道は険しかった……というよりなかった。荷物の中に鉈がなかったので、仕方なくポケットナイフを使ってみたが頑丈な蔦の前では無力だった。最終的に人力に頼ったが……途中、触れるとまずい植物に触ったらしく両手がかぶれてしまった。ひどい痛みと痒みで泣きそうになり、目元をこすった結果目までやられてしまい、私は涙をぼたぼたこぼし、腫れた手をゾンビのように掲げながら惨めに歩いた。もはやポケットのスマートフォンさえ確認できない状態のまま、日が暮れてはいよいよ命の覚悟だと必死の思いで歩いていると、急に開けた土地にたどり着いた。木の枝の蓋がなく、傾き始めた日が差し込んでいる……。顔を振って涙を飛ばした。ようやく辺りが見えてきた。
村だった。村があった。
少ないが、家屋、それから木製ではあるが、電柱! 畑らしき空き地がちらほら、そこかしこを鶏が闊歩している。
誰かに助けてもらおう。
そう思ってばたばたとみっともなく歩き出した私は、日が暮れかかった寂しさから「誰か! 誰か!」と大声を上げながら進んだ。異変にはすぐに誰かが気づいた。
「どうしましたか」
男性の声。若くて快活な。
「すみません、車が壊れてしまって……」
「車って……百七十九号線から来たんですか」
記憶を辿る。確かそんな道路だった。
「はい……」
「はぁ、それは困った」
男性の……おそらく青年の声が濁る。
「今からあっちに戻るんじゃ大変ですね。今夜は一旦この村に……でも誰か泊めてくれるかな? それに、あなた……あーあ。こりゃひどくやられたな。手も目も。薬はうちにあるからひとまずうちへ。泊まる場所は後で探しましょう」
青年はそれだけまくしたてるようにしゃべると私の背中に手をやってゆっくり誘導してくれた。結局、その晩は青年の家……プレハブ小屋みたいな、綺麗ではあるけれど簡素な……に無理を言って泊めてもらった。薬は覿面に効いて、夜には目も手もよくなっていた。スマートフォンの充電器がひとつしかなく、また青年のバッテリーも少なくなっていたのでその晩は諦めた。翌朝、冷たくなったスマートフォンが私の頭の上にあった。
果たして私が辿り着いた村がF村だった。山間の小さな村で、人口は百人未満、主要な産業は狩猟で得た獣肉、いわゆるジビエや、山菜などといった食品産業だった。住人のほとんどが猟銃の資格を持っており、その普及率は我々の自動車免許を彷彿とさせた。
せっかく買った酒や干物の類は車に置いてきたので味わえなかった。しかし青年が気を配って私に鹿の干し肉やら山菜の漬物やらを用意してくれたので美味なる夕食にはありつけた。
さて、翌日から私は車に戻り当初計画していたE村の調査に戻ろうとしたのだが、青年が私に「村長に挨拶していくといい」と強く勧めるのでその通りにした。実際お世話になった村だし、そのくらいの礼儀は当たり前だと思った。
「おやおや、東京から」
禿頭で品が良さそうな中年紳士が村長らしかった。隣には同じく品が良さそうな中年女性。夫婦だろうか。
「遠路はるばるようこそ。この界隈はほとんど客がありませんでな。差し支えなければ、どういった目的で……?」
「いえ、当初はこちらではなく、E村を訪れる予定だったのです」
「ほほう、あちらに」
それから一瞬、間があった。どうも私の目的を催促しているらしい。
「民俗学的な研究で、真蛇について調べておりまして」
「シンジャというと?」
「真実の『真』に『蛇』です」
「ほほう、真蛇ですか」
すると村長は考え込むような顔をしてから、
「この辺にもそんな話があったなぁ?」と隣の女性に聞いた。女性は吹き出した。
「あるも何も、来る巫女祭はその真蛇を祀るお祭りですよ」
「巫女祭」
私は食いついた。
「どんなお祭りですか?」
すると女性は恥ずかしそうに告げた。
「九年に一度、村一番の美女を裸に剥いて滝行させるのです」
「はぁ」
唐突に現れたムードに私はちょっと出鼻を挫かれた。
「『剥く』という行為が脱皮を意味します。何重にも着込んだ着物を村の女が剥きます。そうして裸になった巫女は、村の神社の裏手にある滝を浴びて、呪文を唱え続けます」
これを話す女性は妙にうっとりしていた。その理由は次に分かった。
「これとは別に、村の外れにある小屋の中で村一番の腕を持つ若者が同じく呪文を唱えます。巫女が滝行を終えた瞬間と、若者が小屋から出てくる瞬間とが一致していれば、その二人は結ばれ、晴れて神社の奥の間でひとつになるのです」
そうか、そうなのか。仮にそれが、そうだとして。
「それが真蛇とどのような関係が?」
「元々は巫女に取り憑いた鬼婆を追い払う行為だったのです」
女性は続けた。
「巫女はどうしても若者と結ばれたいのに、鬼婆が邪魔をする。なので二人で協力して呪文を唱え、悪鬼を祓う。これはそれを模したお祭りなのです。そもそも、真蛇とは……」
「鬼になった女性のなれの果てではなく、愛に飲まれた女性の果てである」
不意に村長が入ってきた。
「女の愛は深い。まるで深淵のように。水面がさまざまな色を見せるように、女の愛にも色がある。濃さがある。深みがある。真蛇はその愛のひとつの表れ方にすぎない。愛の色のひとつにすぎない」
「はぁ」
ため息と同時に興奮が湧き上がった。ここでも、真蛇か。これはある意味巡り合わせではないか。
「そのお祭りは……」
それから話を聞くうちに私はF村への滞在を決めた。巫女祭まであと二日といった時期だった。
「あなたが東京からの?」
さすがに青年の家に泊まり続けるわけにはいかないらしく、私は村の端にある屋敷の一間を借りて寝泊まりすることになった。村長の話を聞いたその日、ノートに日記を兼ねた記録をつけていると、一人の若い女性が部屋に入ってきた。手には茶の入った盆があった。
「ええ」
私は女性を見た。好奇心から訊ねる。
「あなたが巫女さん?」
すると女性は笑った。
「いいえ。私はただのお手伝いです。お隣の村から出稼ぎに来てます」
丁寧な所作で、私は彼女の美しい指先をしばし見た。肉感的なぷっくりした指で、あれで撫でられたら堪らんだろうなと私の中の男が眉を上げた。
欲望ついでに首筋に目をやる。赤い跡があった。
「あっ、これは……」
女性が私の目線に気づく。
「蚊に刺されまして」
「この季節にですか」
「あら、年中いるものですよ。冬は繁殖期じゃないだけで。越冬する子もいるのですよ」
「詳しいですね」
「このあたりじゃ常識です」
ふと、私は思い至ったことを訊ねる。
「この村に若い男性は……」
暗に巫女祭の相手役の男性について訊いたつもりだった。すると女中さんも分かったように頷いた。
「ああ、あなたを見つけてくださったあの方一人だけです。他にもう二人いましたが、とっくに町の方に稼ぎに……盆暮には帰ってきますけども」
そんな、他愛もない話をして私は女中を解放した。しかし、あの首筋の跡。私はあれが間違いなく情事の後のものだと思った。
巫女祭について調べるべく私はフィールドワークに出た。多くの場合、こういう時は公式の記録が残っている場所に赴くのが正解だが、この村には役所や図書館の類はないらしく、聞くところによると近隣の村が四つほど集まって一番人口の多い村に公共機関系はまとめてあるとのことだった。仕方ないので私は屋敷の奥様に訊いた。
「真蛇伝説について知ろうと思ったらどこへ行くのがよろしいでしょうか」
小柄で、何がおかしいのかいつもくつくつ笑っている女性が答えた。
「うちの書斎はいかがでしょう。古い本なら大抵揃っていますよ」
「ご主人に許可は」
「いりませんよ。あの人ほとんど家にいやしない。それにこの家は、基本的に村の方々には開かれているのです。皆さん自由に出入りしていますわ。巫女様なんか、読書が好きだからよく主人の書斎にいます」
そういうわけで私は屋敷の書斎へ赴いた。大量の本、本、本。私は村の古い文献に当たりそうなものを片っ端から調べた。
曰く。
*
その昔、この村にはたいそう美しい女がいた。水の神に愛された女性で、彼女が行くところ泉が湧き、村人たちはその水で田畑を耕し大いに栄えた。
ある日、女は村の男に恋をした。男は女を受け入れ、祝言を挙げることになったが、いざというところで男は隣村の女のもとへ逃げた。
一人取り残された女は見る見る大きな蛇の姿になり、そのまま隣村のある方へと消えていった。
以来、この村の女には真蛇が宿る。女は男と結ばれる時、必ずこの蛇を祓わなければならない。
そしてそれには、男の協力が不可欠なのである。
*
私はそれからいくつかの文献を当たり、かつてこの地域に大雨が降り大規模な水害が起きたことを確かめた。洪水は主に隣のG村を襲ったらしく、さらに調べてみるとそのG村は住民二十名足らずの極貧状態が江戸時代以前から続いており、昭和に入ってから行われた自治体統合で近隣の村と実質上の合併を果たすことになるまで、極めて貧しい生活を余儀なくされていたそうである。
文献を漁り終えた私は、ふと書斎の壁に飾られた剥製に目をやった。
熊の頭の剥製だった。
小ぶりなので小熊か何かだろう。しかし牙は立派だったし、その形相たるや、恐ろしいものがあった。
熊の剥製などそうそう見られるものではない。
私はしばし見入った。そうして熊の牙が僅かに変形していることに気が付いた。牙に歯石のようなでっぱりがある。熊も歯周病になるのだろうか、なんてことを思った。
一通り文献を漁った私は、いよいよこの村の巫女祭について話を聞くことにした。一応、こういう時は村の生字引たる老人に話を聞くことが多いが、この時私は祭に大きく関わることになるという、村の女性二人に話を聞くことができた。何でも二人は、祭りの際に巫女の服を剥ぐ係を任される「剥き
「爪で巫女様の肌を傷つけないよう注意しながら剥くんですよ」
一人の、髪の短い女性が楽しそうに告げた。
「荒々しく、だけれど繊細に、剥くのです」
「でもね、まだ一個秘訣があって」
これは二人いた内の髪の長い方。
「男性の目に見て美しく剥かないといけないの。要するに、官能的にね」
それから二人交互に続けた。
「剥き女の仕事が終わった後、村の男から拍手があるんです。あれがもう、びっくりするくらいの轟音で」
「神社が音の響きやすい造りになっているんですよ」
「それから巫女様は神社裏手の滝に打たれて」
「呪文を……お念仏みたいなものですね。唱えるんです。十五分くらいかしらね」
「きっかり唱えきるまで滝に打たれたら、滝に一礼して、再び神社の本殿に戻ります」
「その濡れた肌を、私たち剥き女が人肌で温めますの」
「あれの冷たいことと言ったら」
ふふふ、と女性たちは笑った。
「それから、隣のG村近くにある小屋で同じくお念仏を唱えていた青年が合流しまして、この村の本殿で巫女様と結ばれます」
「子をなせば、よりおめでたいこととして村全体で祝福します」
「お祭りは明日ですわ」
髪の長い方が私に告げた。
「よろしかったら、見ていってください」
髪の短い方も一礼する。
「ぜひ」
どうも女性が主体になって行われる祭りらしい。
真蛇も女性のなれの果て。
この女系の文化に、もしかしたら。
翌日、私はこの村の巫女祭に参加してみることにした。
祭は村にある唯一の神社……小さな村に不釣り合いなくらい大きな大きな神社で、行われた。
巫女役の真壁一花さんは村で歯科を営む御剣先生の助手をやっているらしかった。
彼女の人気はそれはすごいもので、彼女に検診してもらうために歯が痛いなんて嘘をつく男もいるくらいだそうだ。
そんな女性が剥かれるともなれば、男性たちは内心大騒ぎだったに違いない。
実際こんな寂れた村にいるには勿体ないくらいのとんでもない美人で……東京のアイドルグループにくらい簡単に入れそうな女性だった。
私は実際に彼女に会って話した。
「はぁ、東京から」
どことなく関西の訛りを感じる話し方だった。
「遠いところようこそお越しくださいまして」
「その、訊いてもいいですか?」
「何か?」
「巫女役はどうやって選ばれるのですか?」
「ああ、それでしたら」
と、真壁さんはクスッと笑って返してきた。
「泳ぐのです」
「泳ぐ?」
「ええ、蛇ヶ淵という、神社の裏の滝が続いた先にある幅の広い河を、できるだけ長く」
「できるだけ長く、というと……」
「分かりやすくいうと、シャトルランですわ」
そう言われてイメージが湧く。
「一定間隔で太鼓の合図が鳴りますので、それまでの間に岸から岸を行ったり来たり」
「大変でしょう」
「ええ、まぁ」
真壁さんは困ったように笑った。だがそれから、ゾッとするほど美しく微笑んで、
「愛のためですから」
と続けた。私は美しさに飲まれた。
こんな美人が、脱皮という名のもと、剥かれる。
はぁ、眼福眼福。
祭当日、そう思いながら神社の本殿に並べられた椅子に腰かけ、儀式が始まるのを今か今かと待った。神社の中には時計がなく……よくよく考えてみたら村に入ってから時計らしきものをみていないのだが、とにかく今がいつかも分からないぼやけた時間の中、私は待たされた。やがて大きな笛の音が聞こえると、何重にも白装束を着込んだ巫女……真壁さんと、その両脇を固めた二人の裸の女性とが本殿の中に入ってきた。祭は始まった。
それはもう、美しいの一言に尽きた。
字面だけ見れば、裸の女が女を裸にする、それだけのことなのだが、あの時私の目の前で繰り広げられた一幕はそんな下卑た思考など遥か彼方に吹き飛ばされるような、美しく、芸術的で、甘美な、一連の流れだった。百合の花弁が
轟くような拍手だった。男たちが熱狂に飲まれているのが分かった。そんな狂乱の中、巫女を脱がした剥き女の二人は深く一礼すると脱がした巫女の衣装を畳み始めた。これにも所作があるらしく、流れるような一連の手つきで、巫女の服はびっくりするくらい小さな塊になった。
念仏には時間がかかるらしい。
そのことは前以て知っていた。剥き女の二人に話を聞いた時、確か十五分くらいだと言っていた。
だが時計のない空間での十五分は長かった……。
今か今かと待ちわびた挙句、ようやく現れた巫女の体は確かに濡れそぼっていた。すぐに剥き女の二人が近寄り、巫女を抱く。その抱擁はしばらく続いた。やがて、巫女と剥き女はお互い見つめ合った後、離れた。私は遠く離れた小屋の方を思いやった。
あっちで念仏を唱える青年が、巫女と同じタイミングで小屋を出られた時。
二人は結ばれ、子をなす。
青年役に選ばれたのは奇遇にも、あの日私を助けてくれた青年だった。理知的な顔をした男性で、同性の私も好感を抱くような、立派な男だった。
彼が巫女様と……と思うと、羨ましい反面、妥当だな、と納得できる自分もいた。たかだか二日三日一緒にいただけの私がそう思うのだから、村の男たちも決して羨んだりはしないだろう。そう思えた。
祭の最中、青年のいる小屋の前には女性が一人、待機していて、青年が出てくるのを待つ。女性は青年が出てきたタイミングと陽の傾き具合とを正確に覚えて、神社本殿にいる剥き女にそれを伝える。これが合致すれば、巫女と青年の二人も交わる。そういう算段である。
だがこの日の祭では、待てど暮らせどこの小屋の前で待つ女が姿を現さなかった。異変には村の男が気づいた。
遅すぎゃしねぇか。
誰かの声に誰かが重なる。
何かあったんだろうか。
お前、ちょっと行ってこい。
そういうわけで村の一番若い男……ほとんど少年がひとっ走りして青年の小屋の方へ向かっていった。しかしその彼の帰りも遅かった。しびれを切らした最長老が、祭の進行が遅れては困る、と、他の男を派遣しようとした、その時だった。
「た、大変です」
先陣の少年が帰ってくるなりそう告げた。脇にはぶるぶる震える女性がいた。
「
今度は長老が立ち上がった。
青年小屋で青年役の……あの私を助けてくれた男性、実川優大が死亡していたのが確認されたのは、その日の暮れのことだった。村唯一の警察、駐在の岸谷さんは、同じく村唯一の医師、加賀屋先生の協力の元、こう告げた。
「祭の最中に亡くなっている」
「具体的には」
村長が訊くと医師が答えた。
「血の固まり具合からして、滝行の頃だろうな。より狭めるなら滝行が始まってから五分程度、つまり中頃のことだろう」
「血、ということは」
誰かが訊ねた。
「刺されたのか」
「いや、噛まれた」
予想外の言葉に一同困惑した。
「噛まれた?」
「大きい歯型があった……あたしゃ医師なんで、あんまり迷信めいたことは言いたかないがね」
そう断ってから、加賀屋氏は続けた。
「でっかい蛇にでも噛まれたみたいな跡だったよ」
*
「以上です」
民俗学者……厳密には大倉大学社会学部民族学科博士課程の端川吉則さんは小さくなりながら話を終えた。僕は腕を組んだ。
「いくつか訊きたい」
僕の言葉に端川さんが答えた。
「何でしょう、飯田先生」
「神社の本殿と、青年がいる小屋との間には何かあるのか?」
「山です」
端川さんは端的に告げた。
「かつて炭鉱だった山があります。トンネルが一本、神社から青年の小屋まで続いていて、行こうと思えばそのトンネルを通って神社から小屋まで行くことはできるんですが、何分暗いトンネルで明かりもなく、足元も危険なので、村人は多少遠回りしてでも山を伝って南回りで小屋へ行くそうです」
「村人が使うルートで神社から小屋へ向かうと?」
「三十分はかかります」
「トンネルルートは?」
「分かりませんが、半分以下にはなりそうです」
これで僕は合点がいった。
「ふむ。なるほど」
「何か分かったんですか」
僕が取材を申し込んだ本来の相手……伊達崎教授は目を細めて僕に訊いてきた。そもそも僕は、小説のネタになりそうな話を求めて親交のある伊達崎教授の元を訪れたのだが、そこで「弟子に面白い経験をした人がいる」という紹介を受けて、この話を聞くに至ったのだ。
「この事件にある謎は二つ」
僕は指を二本立てた。
「まず、誰が殺したのか。まぁ、これはほとんど答えが出ているな。巫女さんだ」
端川さんが目を丸くした。
「どうして、そう思うんです」
その言葉に僕は、彼も同じことを思っていたのだろう、という確信を強くした。
「女中さんの首にあったキスマークだな。あれは間違いなくセックスを示す。で、男の少ない村、相手は必然実川とかいう奴に限られる」
端川さんもその辺りは同感らしい。小刻みに頷きながらこちらを見ていた。
「この『男の少ない村』が問題だ。多分巫女さんの真壁とやらも、実川に思うところあったに違いない。恋していたのかもな」
そんな女性が、祭という大義名分で想い人と結ばれるとあれば……と、僕は続けた。
「大喜びだろう。実際巫女になるべき試験も受けたみたいだしな。しかしそこで、例の女中の話を聞く。実川と女中がとっくに結ばれていた。それを知った真壁は……」
「待って、待って下さい」
端川さんが慌てた声を上げた。
「仮にそうだったとして、どうやって殺したって言うんです? 蛇に、それも大蛇に噛まれたかのような殺し方なんて、一体……」
「それがこの事件二つ目の謎だ。しかしこれについても僕はもう答えを得ている」
僕はにやっと笑ってから端的に答えた。
「熊だ」
端川さんはぽかんとした。
「熊」
「ああ。屋敷の書斎に熊の剥製があっただろう」
「ありました」
「あれの歯型を取ったんだ」
「歯型」
「ああ。真壁さんは歯科助手だろ」
僕は拳をこめかみにあて、椅子の肘掛に肘をつくと話を続けた。
「凶器は石膏だ。熊の歯型をとった石膏」
「は、歯型を……?」
口をぱくぱくさせる端川さんに僕は続けた。
「手にはめる。握る要領で口を開け閉めさせれば、疑似的に『噛む』を再現できる。歯科助手だ。人の顔周りはよく見ているだろう。首筋、血管がどこにあるか、それくらいのことは分かっても当然だ」
「つ、つまり、熊の歯型を持った巫女さんが、青年の首に牙を……」
「そうなる」
「でも、そんなの持っていたら村の誰かに……」
「さっき君が言っただろ。神社と小屋の間には山があるんだよな? 炭鉱があったとかいう。問題の歯型の石膏だって、山の中に捨ててしまえば獣の骨と区別がつかない。ナイフと違って、神社裏手の滝の近くに落ちていても気にする人は少ないかもな。カモフラージュに向いた凶器だ」
「で、でも」
端川さんはまだ納得がいかないみたいだった。
「祭の最中にどうやって抜け出したって言うんです? い、いや、抜け出すことはできたとして、時計も何もない中、どうやって十五分という時間の中で殺人を終えて、定刻通りに神社に戻ってくることが……」
「念仏だよ」
僕の言葉に端川さんが目を見開く。
「念仏。一区切りつくまでの時間が分かるだろう。J-POP一曲が四分とか五分とかかかるみたいに、念仏が一区切りつくまで何分かかると分かっていれば、念仏の中のどのパートを唱えているかで時間が分かる。だから……」
想像してみろ。
と、僕は続ける。
「熊の頭蓋骨を握った裸の女が、髪を振り乱して念仏を唱え、漆黒の洞窟の中を駆けていったとしたら、それは、どんな景色になるだろうな」
少なくとも僕には……と、言いかけた段になって端川さんが口を挟んだ。
「で、でも、どうして女中じゃなくて青年を殺したんです? 男を取られたことが悔しいなら、男じゃなくて女の方を殺……」
「分かってないなぁ」
と、僕がつぶやくと、伊達崎先生も同じく首を振った。それから、教授が続けた。
「男性はそう考えますね。でも、女性は違うのです」
「真蛇。愛憎に飲まれた女のなれの果て……」
僕はちらりと、教授の本棚に目をやった。
多分端川さんの研究を助けるためのものだろう。
能についての資料集が置いてあった。
その表紙は、口が耳元まで裂け、赤い舌、牙、そしてその上に恐ろしい目玉が輝いている、真蛇が飾っていた。
了
真蛇、本成、愛の果て 飯田太朗 @taroIda
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