第3章 弦月(げんげつ)

1話目 賽を投げるのは ①

 

 語り終えたルフィノの声は、窓の外、細かな白い雪と共に燦き瞬く光となって凍る夜空へと吸い込まれる。

 ……遥か昔、彼がいたというそらに。



「アデリー……」


 囁く吐息混じりの甘い声は、アデライードの耳に馴染み、菫色の燦然と煌めく瞳と優美な微笑みを浮かべた唇はルカと同じ。

 同じでも、違う人。

 しかし違う人はまた、アデライードのルカでもあるのだ。

 だから、なのだろうか。

 いまも昔と変わらず、彼を前にすると同じようにその姿に目を奪われ、不思議な気持ちが込み上げて来るのは。

 艶を含んだ菫色の瞳で見つめられ、優美な唇が弧を描くのを目にするだけでアデライードの身体は震える。

 例えるならそれは、歓喜と良く似た純粋なる恐怖に近い。

 脚は竦み、肌が粟立ち、身体の奥深くから湧き上がる言葉にはならない感情で胸を掻き毟りたくなるのだ。


 まるでアデライードの考えていたことが聞こえでもしたかのように、くすりとルフィノが笑った。


「そうだね。だったら『僕たち』も初めましてからはじめようか? ……僕は君と仲良しになりたいな。君は、どう? 僕と仲良くしてくれる?」


 悪戯を見つけられでもしたかのような笑みを滲ませた美しい菫色の瞳に、アデライードが映っていた。

 露に濡れた柔らかな草を踏み、四阿シアの中に二つの人影を見つけた十二歳のあの春が、瞬く間に蘇る。

 薄青の空に吸い込まれてゆく、心地の良い兄とルカの重なる笑い声も。

 爽やかな風と暖かな光の眩しさを感じ、思わず目を閉じた。ややあって再び目蓋を持ち上げたアデライードの瞳に映るのは、静寂に青く沈む仄暗い図書室だった。冷たい硝子に頬を押し当てたときのように、胸の中が、きゅっと萎む。

 その間も菫色の瞳は、何かを探るように、ただ真っ直ぐにアデライードに向けられていた。


「そうか……挨拶を?」

「君が覚えていなくても『僕』は決して忘れないからね」


 宙に浮かぶ燈火あかりを手元に戻すと、ルフィノはおどけたように肩を竦めて見せた。

 手に持っていた本を、これまで黙ったままでいたレオネルに返しながらルフィノは、優越を滲ませた目でじっと見る。

 

「ねえ? いまどんな気持ち? 出会ったときには、もうアデリーは僕のものだったって知って」

「さて、どうだろうな? そもそも、に関して言えば過去に囚われていただけだ。いまだって別に誰のでもない」


 返された本に一度目を落とした後、持ち上げたレオネルの冷ややかな視線が、ルフィノへ向けられる。


「過去? 僕を目の前にして、過去だっていうの?」


 寒々しい微笑みを貼り付かせたまま、ルフィノの菫色の瞳の奥に、仄暗い感情が覗く。

 ふっとレオネルは唇の端を持ち上げて笑った。


「それ以外の何がある?」

「ねえ? 僕の話、ちゃんと聞いていた?」

「聞いていたとも。だが、ルフィノとして最初から始めるのであれば、始める前に一度アデライードのことを手離すべきではないのか?」

「手離す? まさか。僕がいつ、そんなことを言ったの? ルフィノである『僕』とは初めましてなだけでしょ? それに僕がアデリーを手離すなんて、貴方の都合の良い考えでしかないと思うけどね」

「そうかな? どちらにせよ決めるのはアデライードだ」

「……ああ、そうか。なぁんだ。そうだよね。貴方は、まだ目にしていないんだ。だから、そんなことが言えるんだね」


 くすくすと、さも楽しげに笑うルフィノの目は、少しも笑ってなどいない。


「……目にするとは?」

「アデリーの腰に刻まれた『僕』の紋だよ。不老不死にする為の呪が掛けられているんだけど普段は目に見えないんだ。ただ……彼女の体温が上がるとね? 真っ白で滑らかな肌に、それはそれは綺麗に浮かび上がるんだ。果たしてそれを見たとき、貴方はどう思うんだろう? ふふッ。想像した? あ、これは言わない方が良かったかな? 今でさえ嫉妬に狂いそうになってるのにね。でもいいよね? 見ることなんてないかもしれないだろうし。だって、アデリーの腰に刻まれた紋が浮かび上がる状況なんて、そうあるものじゃないものね?」


 仄暗い空気を醸し出し、愉悦に浸るルフィノを冷たく一瞥したレオネルは薄く笑う。


「まあ、確かにアデライードに触れているのは俺であって貴様ではないのだからな。……何とでも言ってろ」

「……ふーん?」


 表面上はあくまで柔らかな物腰を崩さぬまま睨み合いを続ける二人だったが、先に動いたのはレオネルだった。


「さて、見目麗しの呪術師殿。そろそろお取り引き願おうか。探していたアデライードと会えたのだから、用事は済んだのだろう? ここは俺の宮殿の一室で、貴様は、あくまでも宮廷雇われの呪術師に過ぎない」


 分かるな? と言わんばかりに図書室の扉の方へ視線を動かした後で、片方の眉を上げて見せた。


「……残念。でもアデリー、またすぐに会えるよ。次こそは二人きりで会いたいけど、当分は無理かな」


 軽く首を竦め、背を向けたルフィノにアデライードの躊躇いがちな声が掛けられる。


「……ルフィノ殿」

「ん? ルフィノ、で良いよ? というかルフィノって呼んで欲しいな?」


 呼び止められ、振り向きざまの格好のままにルフィノは、アデライードの言葉の続きを待つ。

 唇を噛み締め、ひと言ずつ絞り出すようにアデライードが口にする。


「実を言えば、どうして良いのか分からない。まだ少し混乱している。だから……」


 目を伏せるアデライードの長い睫毛が、蜜を吸う蝶の翅のように震えるのを横目に、ルフィノは鷹揚に笑って見せた。


「うん。何も心配してないよ。君もそのうちに分かってくれることは、僕は知っているから大丈夫。ただ……アデリー。君を前にして触れることも出来ずに離れるのは、辛くもあるけどね?」


 今度こそ振り返りもせずに、来た時と同じように音もなく図書室を後にするルフィノへ、忌々しげな視線を送っていたレオネルがアデライードに向き直った。

 いっそ無表情ともいえるレオネルの顔だったが、纏う空気は不機嫌そのものである。

 窓辺に座るアデライードに腕を伸ばし抱え上げて下ろすと、何かを言い掛けようとするアデライードの微かに開く唇に、そっと指を押し当てた。


「今は何も聞きたくないから言うな。だが、嫉妬するぐらいは赦せ」


 唇から離れた指が柔くおとがいを通り咽喉元に下され、滑らかな感触を確かめるように行き来する。レオネルの黯く沈む灰色の瞳が、アデライードを見つめていた。


「俺は……」


 お前が自ら望んで手を伸ばしたものを遠ざけようとしているのだろうか、と言おうとして止める。

 レオネルは、アデライードが過去に縛られ苦しみに耐えている姿しか知らない。彼女自身が心から望んだ男――但したしかにはその本人でないが――を目の前にした今、心を得られないままアデライードにのめり込み、叶わない想いを凌辱という形でぶつけたロランド王と自分は何が違うのだろうと思ったのである。

 少し前にアデライードが見せたてらいのない微笑みを思い出すだけで、胸が苦しかった。

 ルカ、という男は知っているのだ。

 いま腕の中に閉じ込めているアデライードの、見上げる不安げな顔からは想像だに出来ぬ楽しそうに声を出して笑う姿も、恥じらいに身体を染める姿も、黄金の瞳に散る赤い花弁が欲情に濡れるのも、レオネルが未だ見たことのない様々な姿を。

 同時にまた、例えそれが過ぎ去った日々だとしてもあの男ルフィノは知っているのだ。

 荒れ狂う欲望に突き動かされそうになる。


「……アデライード」


 抱き寄せる力を少し緩めただけでアデライードは、この腕の中から擦り抜けて行ってしまうのではないだろうかという焦りと苛立ちばかりが募った。

 首筋を撫でている指先を掌に変え、ただ力を入れるだけで良い。目の前にある細く白い首を締め上げ、骨を砕くことなど事もないだろう。

 死ぬことはないと分かっていても、否、分かっていたからこそ、恐怖という枷で縛りつけるしかなかったロランド王の気持ちが、痛いほど分かるなど俺も大概だと自嘲めいた笑いが込み上げるのだった。


「アデライード、お前はもっと笑え」

「何を急に……可笑しくもないのに笑える筈などない」

「……可笑しかったら、笑うのか?」

「さあ? そうなのではないか?」


 分からないが、と眉を顰めたアデライードに、レオネルがふっと表情を緩めた。


「いつか声を出して笑うお前が見たい」


 無防備に心を曝け出すアデライードをレオネルは、果たして見ることが叶うのだろうか? と思いながら回していた腕を離した。


「ほら、部屋に帰るぞ。従者らしく常に俺の傍に居ないでどうする」


 本を手にしたまま背を向けるレオネルに、アデライードが追いかけるように声を掛けた。


「本は……」

「まだ読み終えてないのだろう? 部屋に置いておく。他にも色々と貸してやるから、アデライードが知りたいと思うことを何でも知ると良い」


 では、いまこの場で何冊か選んでも良いだろうか、と続く声にレオネルが振り返れば、そこには確かに、見落としてしまいそうなほど微かにではあるが、黄金の瞳の奥に柔らかな笑みを浮かべたアデライードの顔があった。




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