2話目 賽を投げるのは ②
紺色の絨毯の敷かれた長い廊下を、颯爽と長い脚を運んでゆくレオネルの広い背中を見るともなしに見ながらアデライードは、その数歩後ろを付き従っていた。
第一王子の宮殿といえども、精緻な紋様の刻まれる白を基調とした壁や天井、それらを縁取る金色の輝きは実に美しく、かつてのレイズ王国の王宮としての面影を残すヴァッサーレ城塞とはまた違う、ヴェネセティオ王国の王家の歴史と重厚なる威厳を感じさせる内装を眺めては、アデライードは感嘆の吐息をそっと漏らす。
昨夜、アデライードが選び図書室から持ち出した本は、塔に閉じ込められていた二百三十年の間についての近隣国を含めたヴェネセティオ王国の史実が書かれたものだった。
一晩かけてそれを読み終えたアデライードは、サルゴバリ国のナサリオ辺境伯ロランドでしかなかった彼が軍事的才能を発揮し、いかにしてヴェネセティオ王国の建国王となり大国となる礎を築いたか、その子孫による勢力の拡大、現在の繁栄に至るまでについて知ることとなったのである。
書かれていた事柄は、アデライードのこれまでの空白の一片を埋めるものだった。
ロランドに思うところはあるにせよ、繁栄を誇るヴェネセティオ王国の賑やかで洗練された王都に続き、荘厳な宮殿の姿をこうして目の当たりにした今、遅かれ早かれ小国に過ぎなかったレイズ王国の滅亡はロランドでなくともいずれかの時点で当然だったろうとして、最早受け入れざるを得ない。
いずれにせよ民が幸せであれば良いのだ、とアデライードは町行く人々の顔を思い出す。
現王との謁見を済ませ、自身の宮殿を歩く堂々としたレオネルのロランドに酷似した
レオネルと並んで歩いていたエリアスが、何かをそっと耳打ちしたその時、前方から二人の侍女を従えた年若い女人が姿を現したのが、アデライードにも見えた。
歳の頃は十八ぐらいだろうか。
豊かな艶のある銅色の髪を結え、薄青い春の空のような夢見がちに見える澄んだ双眸。
「レオネル殿下……!」
駆け寄りたいのを無理矢理に押し殺しているのが傍目にも分かる健気な様子は、位の高い令嬢らしからぬものではあるが、彼女の若さと素直さが滲み出ているようで見る者の微笑みを誘うものがあった。
またレオネルを真っ直ぐに見つめる薄青い色の瞳の熱を孕んだ様は、どうやっても恋をしていることが隠しきれていない。いや、隠すつもりなどないのだろう。
「クラリス嬢。久しいな。それより、どうした? こちらの宮殿に顔を出すとは聞いていなかったが」
淑女として完璧な所作で礼を取ったクラリスに、多少の戸惑いと共にレオネルは鷹揚に頷きながら問うた。
「こちらに帰って来ていらっしゃると聞いたものですから、ご挨拶をしたく……驚かせてしまいましたわね?」
「失礼。王宮に用事が……?」
瞳を潤ませ、頬を薄く染めて微笑みを浮かべるクラリスに、エリアスが尋ねる。
「エリアス様も、お元気そうで安心しましたわ。ええ、実はこれから王妃さまのお茶会に……お招きいただいておりますの」
「左様でしたか」
「少しでもレオネル殿下のお顔が見れたら、と思いまして、遊び相手としてお伺いしていた頃の幼馴染の特権を利用させていただきました。こちらの宮殿の皆さんに無理を申し付けたのは、わたくしですからどうぞお咎めなきようよろしくお願いしますわね」
にっこりと笑うクラリスに、表情を変えることのないまま、ただひと言「分かった」と口を開いただけのレオネルとは対照的に、穏やかな笑みを向けたのはエリアスだった。
「それにしましても嬉しい驚きですね。王都に帰ってくるなり、クラリス様にお会い出来るとは思ってもいませんでした」
「ええ、それはもう。お帰りになられたと聞いてからずっと、お嬢さまはレオネル殿下がいらした北のお城のご様子が知りたくて仕方ありませんでしたものね?」
「まあ、ベスったら」
含みを持たせた言葉だけでなく、意味深な笑いを浮かべる侍女を嗜めたクラリスの、ふふ、という恥ずかしそうに頬を染める姿はとても可愛らしいが、いずれ北の城の女主人になりたいから話を聞かせて欲しいと侍女に言わせているようなものである。
頬を染め恥ずかしげな上目遣いでレオネルを見上げているクラリスに、何故かアデライードは、遥か昔に亡くなった直ぐ上の姉を思い出していた。
どれほど時代を経ても、女人の可愛らしい策は変わらぬものがあるのだな、と思わず自らもまた女であるのを忘れ妙に感心してしまうのは、これまで武骨な男ばかりに囲まれて生活をしていた弊害だろうか。
だが、例えそうでなくとも誰かに素直に甘えるのは、アデライードの最も不得手とするところであると本人も自覚している。
「……たいした話もないが」
「殿下、お時間なら多少ございます。クラリス様と少しお話なさっては?」
「まあ、エリアス様。ありがとうございます。嬉しい……。レオネル殿下、よろしいですか?」
よろしいも何も、ここまでエリアスに仕切られてしまっては素直に喜ぶクラリスを前に断る訳にもいかず、レオネルは頷くほかなかった。
瞳を輝かせていたクラリスだったが、ふとその視線をアデライードへ向け、小さく首を傾げる。
「そちらは……? 初めて見るお顔ですわね?」
「ああ、これはアデルだ。俺の……」
ここに来て
「レオネル殿下の護衛騎士と側仕えをしております」
「まあ、そうなの。ところで家名は? どちらの方なのかしら?」
咄嗟のことに答えられずにいるアデライードを見て、クラリスが訝しげに眉を顰めた。
背で隠すように、レオネルがさりげなく立つ位置を変えると、形の良い唇の端を軽く持ち上げクラリスを見下ろす。
「アデルの家柄が気になるとは、この綺麗な男にクラリス嬢はひと目惚れでもしたか?」
揶揄いを含んだレオネルの言葉に、顔を真っ赤に染めたクラリスが慌てて首を横に振る。
「ち、違いますわ。まさか、いくら見目が麗しい方とはいえ、ひと目惚れなんてそんな」
「俺の傍に置くのだから、家柄の方は間違いないぞ? クラリス嬢がどうしてもというのならば、譲ってやることも多少は考えないでもないが……無理だな。俺は、これに居なくなられては困ってしまうから諦めてくれ」
「まあ、随分と信頼なさっておいでですのね。そのように華奢な騎士では心配だと思っておりましたが、レオネル殿下がそこまでおっしゃるのでしたら……」
居なくなると困るとまで言わせ、常にレオネルの傍にいるというアデライードを不躾に眺めまわすクラリスの様子には、間違いなく嫉妬の滲むものがあった。
見下すように、つと細い顎を上げる。
「でもまあ、いざというときには盾にでもなる覚悟はあるのでしょうね?」
思わず息を呑んだ。誰に言われなくとも無論アデライードにも騎士としての矜持はある。顔を上げ、クラリスに向かって口を開こうとした瞬間、レオネルの声が冷たく響いた。
「……クラリス嬢。俺の騎士を侮辱するのは、やめて貰いたい」
冷えびえとした灰色の双眸が、クラリスに向けられる。唇の端に笑みを浮かべているが、醸し出されている空気は断罪にも近い。
「いえ……あの、そんなつもりは……申し訳りません……」
「非礼を詫びるのであれば、アデルに言え」
「その必要はありません。騎士として殿下を御守りするのは当然のことですし、守りきれぬ場合には、盾にもなりましょう」
「……っ、アデル!」
らしくなく焦燥を滲ませ鋭くアデライードの名前を呼ぶレオネルに、クラリスの青い顔がさらに翳る。
「いえ、わたくしも殿下を御守りしている騎士の方の忠誠を疑うなど、失礼しましたわ」
言って青い顔のまま微笑みを浮かべたクラリスがアデライードを見る瞳の奥には、紛れようもなく嫉妬だけでは収まりきれない憎悪が覗いていた。
結果、最良と思いしたことは間違いであり、あの場で口を挟むべきではなかったなとアデライードは、静かにクラリスの視線を受け止めたのだった。
不死だからという訳ではないが、盾になるなど大した話ではない。騎士であるのみならず、いまやアデライードは従者という側仕えをも兼任しているのだから、主のことを身を挺して守ることが求められているのは当然のことである。
そもそも何を思ってか……いや、先だって剣で貫かれ気を失ってしまったアデライードの失態が原因であるに違いないとは思わなくもないが……一介の騎士に、まさかの反応をしたレオネルの方こそ、どうかしていると横目で見れば、何より先に、憮然とした表情のエリアスが目に入った。
アデライードの視線に気づき、一拍遅れて常に貼り付けている笑顔を取り戻したエリアスが、クラリスに向かって腰を折る。
「クラリス様、ヴァッサーレ城塞について知りたいのでしたね? 王妃さまのところへ向かわれるお時間になるまで、殿下とお話をしながら温室でも散策なさいませんか?」
「ええ……ええ、いいわ」
「では、殿下?」
「……ああ」
振り返りざまに、ちらとアデライードを見たレオネルの灰色の瞳の奥には突き刺さすような強い怒りの感情があった。
そのままクラリスに向かって腕を差し出すとレオネルは歩き出す。
遅れて歩き出したアデライードに、エリアスが並ぶ。
「こんなところで殿下が、らしくもないことをするのを見ることになるとは、思ってもいませんでした。やはり貴女は殿下にとって厄介な存在だ」
あまりにも苦々しい声に、アデライードは苦笑で返すことしか出来なかった。
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