9話目 宮廷の呪術師 ①




 アデライードは王宮内にあるレオネルの宮殿で見つけた図書室の窓辺に座り、白く曇る硝子を指先で拭いながら、藍色に沈む夜の空に、細かな雪が舞うのを見ていた。

 片方の脚を折り曲げ顎をのせ、もう一方の膝の上には本が置かれている。文字を追うには暗過ぎる部屋を思えば、もう随分と長い間、同じ頁で開かれたままのようだった。

 

 襲撃は、あの一度で済むはずはないと思っていたアデライードだったが、結果として、その後順調に王都まで来ることが出来、こうしてレオネルの宮殿に無事到着したのは、賑やかに人々の行き交う整備された街道によるのだと身を以て知った。

 加えて、王都に近づくにつれ変わりゆく景色、その目に入るもの全てが、アデライードにとって驚きの連続だったと言っても過言ではない。

 



「……魔石の重要性が、良く分かった」


 王都のひとつ手前の町で、軽食を摂るために入った地元の人間や旅人で賑わう食堂の中を興味深けに見回していたアデライードの、誰に向けるでもない言葉を聞きつけたエリアスは、苦笑を返しただけで何も言わなかった。

 何故なら、驚きに目を見張る姿は、いくら薄汚れた格好をしているにせよ知らぬ人からみれば庶民の暮らしが物珍しい貴族さまにしか見えない。身についた所作や血筋というものは侮れないものがあった。

 更に言うならば、かつてのアデライードが知る暮らしよりも格段に発展し便利になっているのは、魔術の進歩と魔石の多岐に渡る使い方によるものであるのだと知って驚いているとは誰も思わないからである。二百三十年も塔の中で、ひとり生き続けている者が存在していたなど、聞かされたところで誰も信じないだろう。

 

「いいか? アデルはまだ怪我が治ってないんだからさ、しっかり食えよ? つか、死んだと思ったオレの嘆きっぷりをとことん無駄にするつもりで食え」


 片腕を吊った格好のアデライードに寄越すフィトの心配げな視線から目を逸らすと、曖昧に笑って誤魔化した。

 死んだと思われても仕方がなかった。

 不死でなければ命を失っていただろう。

 だが実際のところ、すっかり元通りであるとはフィトや他の護衛騎士には言える訳もなく、気を遣わせてしまう度に申し訳ないと思うアデライードである。

 

 ならばという訳でもないだろうが、香辛料の効いた肉と付け合わせの香菜をパンで挟んだものを、片手でせっせと頬張るアデライードの姿には誰もが思わず目を細めたくなるものがあった。


「むかし魔石は主に私たちの少ない魔力の動力源や熱源でしたが、魔術の研究や改良が進み魔石は今や様々な用途に用いられています。魔石を原料にした便利な製品もありますからね。屑だと言って以前は価値のなかった物でも案外使い途があると分かったのですよ」


 頬張った物をひと口飲み込む毎に、続けてあれも食え、それを飲めと甲斐甲斐しく世話を焼くフィトと渋々ながらも素直に受け入れているアデライードに、ちらと目を向けたエリアスが蜂蜜酒を飲みながら口にしたのは、侮蔑や皮肉などではなく意外にも魔石についてだった。


 なるほど、とアデライードは頷く。

 エリアスが以前、忘れ去られた採掘跡はないものかと言っていたことの理解が、ここにきて出来たアデライードである。

 今は過去と比ぶべくもない程に魔石の使い途は多く、されど採れる量は変わらずに少ない。つまり魔石は以前にも増して価値があるのだ。


 そもそも魔術と魔力は違う。

 本来の魔力とは、術もなしに行使できる自らの持っている力である。だが、それほどまでに膨大な魔力を持って生まれる者は、今も昔も極端に少ない。

 大抵の人間は、魔力を含有した魔石を媒介とし魔術を用いることであらゆる事を可能にしている。言い換えると、魔石があってこそ自らの少ない魔力を術式によって引き出すことが叶うのだ。

 一方で、魔石に頼る必要のない、生まれながらに魔力の強い者というのも一定数存在する。それらの者は魔術師や呪術師となるだけでなく、魔術の発展や研究に貢献することで一目置かれていた。


 そう、呪術師……。


 アデライードは、まだ見ぬ宮廷の呪術師が銀色の髪と菫色の瞳であることをレオネルに聞いた頃よりずっと、その人物はルカの一族と関わりがあるのではないかと考えていたのである。

 ルカの一族は傑出した魔力を持って生まれる者が多く、なかでも時折現れる銀色の髪と菫色の瞳を持つ者に於いては、その魔力は計り知れない程だと云うのをアデライードはルカに聞いて知っていたからだ。


 軽食を終えた一行の、残り王都までの道のりは半日。日が暮れる頃には王宮に到着することが出来そうだった。

 王都に入る少し前、冷たい風が鈍色の雲を見る間に呼び寄せ、日暮れと同時にそれまでの穏やかな天候を一変させた。

 春の訪れをあちこちに見せていた町に、細かな雪が舞い始め、道の片隅で競うように咲いていた小さな可愛らしい花々に落ちては消える。

 見上げる空には、夜の始まりと冬の名残りがあった。


「冬が春に悋気を起こしたようだな」


 同じように空を見上げていたレオネルが、黒髪に燦く銀の雪を纏わせ呟いた低い声は、アデライードの耳の奥深くに落ちた。

 



「……そんなところで何をしている?」


 耳に残っていたからだろうか。

 突然、暗闇の中からレオネルの声が聞こえ、姿が現れたことへの驚きはなかった。

 長い脚を優雅に使い、窓辺に座るアデライードの傍に来れば目線の高さが同じである。

 レオネルの灰色の瞳が、目の前で、ふっと柔らかくなった。

 

「俺に従者を探させるとは、役目が違うのではないか?」

「就寝の挨拶は済んだ。当に寝たのだとばかり……」

「だが、見ての通り俺はまだ寝ていないし、アデライードを探していた。ここで何をしていた?」


 開かれたままの本に気づいたレオネルは、アデライードの膝から取り上げ、中身にさっと目を走らせた。

 ヴェネセティオ王国の国史である。


「……なるほど。確かこの書物には滅亡したレイズ王国のことも少し書かれていたな」

「ほんの数行だ。だが、私がこの書物を手に取ったのは、過去を思い出して感傷に浸る為ではない。これまでを知りたかったのだ」

「ふうん? どうだった?」

「何も知らずに二百三十年だ。なかなかに興味深く、学ぶことは沢山あると思った」

「そうか。図書室は好きに使え。分からないことがあれば俺に聞きに来い。誰かに教えを求めたいというのであれば……」


 言葉を続けようとしたレオネルを、アデライードが微かに笑いながら遮った。


「図書室を自由に使うだけでも、従者の領分を遥かに超えている」

「……アデライード」


 初めて見せた、何のてらいのないアデライードの微笑みに、レオネルは息を呑んだ。

 目の前にある黄金の瞳が、レオネルだけを映している。散る赤い花弁のような虹彩のその奥にあるものに、手を伸ばせば今なら届くのではないかと、レオネルはアデライードの頬に手を触れた。


「これからはアデライードのそのような顔を、もっと見たい。だが、見せても良いのは俺だけだ」


 たった微笑みひとつで、これほどまでに胸が痛く苦しいと感じることは、これまでに一度としてなかった。それが、瞬く間に欲望に変わることも。

 滑らかな肌に沿って指を落とし、おとがいを引き上げようとしたその時。レオネルの背後で扉の開く音が聞こえた。

 音のした方へ顔を向けたアデライードの頬が、レオネルの手から離れる。

 再び引き寄せようとしたレオネルだったが、アデライードの黄金の瞳が何かを認めた途端、見る間に表情が抜け落ち、緩々ゆるゆると驚愕で見開かれてゆくことに不安を覚えて振り返った。


「……誰だ?」


 レオネルの低い声が静かな部屋に満ちる。

 暗い部屋の中、燈火あかりを掲げている人物の姿を、ひと目見れば問う必要などないことは明白だった。

 整った顔に優美な笑みを湛え、透けるような銀色の髪、燦爛と輝く美しい菫色の瞳。

 その特徴的な姿は、間違える筈もない。

 宮廷の呪術師、その人である。


「ルフィノ・べレス……呪術師か。何故、こんなところに?」

「まさかレオネル殿下がいらしているとは知らずに失礼しました」

「ここは俺の宮殿だ。何処に居ようと誰に咎められるというんだ? しかし……どうやらその方は、俺に用があって探していた訳ではなさそうだな?」

「……ええ、まあそうですね」


 ルフィノと呼ばれた呪術師の視線は、レオネルを通り越した先にある。

 怪訝な思いでレオネルが振り返ると、おこりのように身体を震わせるアデライードがいた。


「僕が探していたのは、です」


 笑みを深めたルフィノから、アデライードは目が離せなかった。


 似ている、というものでは済まされない。

 アデライードの目の前にいるのは紛れもなく、ルカ、その人だったのである――。






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