5話目 王宮へ ②
「王宮へ戻るのを早めませんか?」
レオネルは机の上の書類に落としていた視線を、声のする方へ向けた。アデライードは使いに出され、フィトは扉の外に待機している。束の間、執務室でエリアスと二人きりになったそのときだった。
「雪解けを待たずに? 山師に鉱脈を探らせるのではなかったか?」
怪訝そうにエリアスを見るレオネルへ、ひとつ頷き返しながら続けた。
「既に罠は仕掛け終わりましたし、報告だけなら何処でも受け取れます。この辺りの雪解けを待ってからでは、本格的な社交シーズンが始まった後になってしまいますからね」
「急ぐ理由は? 何があった」
「王宮に潜ませていた者から、報せが。どうやら第二王子の婚約者が決まりそうだと」
「慌てる話か? いまさら少し早めに戻ったところで、どうにもなるまい。候補者は既に絞られていただろう?」
「その相手が問題なのですよ」
「エリアスがそこまで言うとなれば」
「はい。ベリック公爵令嬢の」
「クラリス・テレサ・ベルリレス・ボルディーガ。我らが幼馴染のクラリス嬢……か」
王妃派のベリック公爵の娘を婚約者にするということは、危うい均衡が崩れるのは必至である。
「陛下が密かに推していた中立派のミラージェス侯爵の娘は、どうなった?」
「間の悪いことに、社交界へのデビューは来年です。そのこともあって思い切った手に出ることにしたと思われます」
王宮と離れた北の領地にレオネルを封し、最有力候補とされるミラージェス侯爵の娘のデビューは次の年。
「そうか……
「短慮であると言わざるを得ませんが、今が好機と見たのでしょう。しかし、当然ではありますが、まだ陛下からは色良い返事を貰えていないそうです」
「ふうん? となれば」
「王妃は短慮のみならず浅慮な方でもいらっしゃいますからね。シーズン中のいずれかの舞踏会で、目的を無理矢理に達成しようとするのではないかと……」
「まあ確かに、色々と方法はある。なかでも最悪で確実なのは、
「方法が全くない訳ではありません」
クラリスは幼い頃からずっと、レオネルに報われることのない恋をしている。エリアスが言いたいのは、婚約が整う前に、そこに付け込む余地があるということだった。
「莫迦ばかしいにもほどがある」
「そうでしょうか?」
レオネルと
レオネルの母親がまだ存命していたあの頃は、兄弟仲もそう悪くはなかった。
王宮の広い庭園で、繰り返し行われる茶会は、子供たちだけとはいえ大人たちの様々な思惑が陰で飛び交う場でもあった。どちらの王子でも良い、親しくなって欲しい、あわよくば娘を見初められたい、息子を側近にしたい、何故ならその先には……と思わぬ爵位持ちがいるだろうか。
親が親なら子供とはいえ生まれながらの貴族である。無邪気な茶会とはかけ離れたものになるのは自然なことであった。
思えばベリック公爵の戦略だったのだろう。そのような中にあって、領地で伸びのびと育ち天真爛漫なクラリスは、どの子供たちとも違い、レオネルとヒルベルト兄弟の気に入りとなる。
レオネルとヒルベルトには兄的存在のエリアスがいたが、妹はいない。クラリスはヒルベルトとひとつ歳下、レオネルにあっては四つも下ということもあり、兄弟に可愛い妹が出来たようだった。
だが娘が王子たちと親しくなる中で、ベリック公爵にも及ばぬ誤算があった。クラリスがレオネルに恋をしてしまったのである。
「なるほど。つまりエリアスは俺に、クラリス嬢のことを
エリアスに向かって細められたレオネルの灰色の双眸が、冷たい光を宿す。
「棄てる棄てないは殿下次第ですが、ベリック公爵という駒を使えなくさせるのには、充分かと」
「
突き刺さるような空気の中にあって、自分に向けられる冷ややかなレオネルの視線を真っ向から受け止めたエリアスは、次に続く言葉がどのようなものか、予期出来ぬものではなかった。
「分かっているだろう? 玉座を望まないのは同じだが、王妃への嫌がらせの為だけにクラリス嬢を使うわけにはいかない」
「まさか。殿下のお気持ちは分かっております。読み違えているのは、殿下の方ですと申し上げたら? クラリス嬢のことです。
そもそも王家や貴族の婚姻に恋愛感情は必要ありません。クラリス嬢だとて充分に理解なされていることでしょう。政略結婚も
だとするならば『ヒルベルト殿下のものになる前に、レオネル殿下の慰み者にされてしまった』ことは外聞的には悪い話に聞こえるでしょうが、クラリス嬢にとってはどうでしょうね? 自身の身体ひとつで、王妃に意趣返しをしたいという愛しい方の願いを叶えて差し上げることが出来るだけでなく、あまつさえ想う方に花を散らして貰える。
更に言うなれば己の封印しようとしていた恋心さえ成就するのですから、彼女にとって悪い話どころか最良でしかありません。
ここまで話せば、もうお分かりでしょう? クラリス嬢は、こちらの手の
不敵に微笑みを浮かべて見せさえする目の前の才貌両全とした男は、喰えない奴だと知っていた。
レオネルの為であれば、進んで悪魔にも魂を売るのが、エリアスである。
「クラリス嬢を、俺が抱くとでも?」
「全くこれだから、レオは。嫌なら別に実際に抱かずとも良いことぐらい分かっているだろう? 公爵家の娘が、王宮にある第一王子の寝台の上で朝を迎えることでも充分だけど……果たしてどうかな? 抱かざるを得ない状況にすることも出来るということぐらい、知っている筈だよ」
既成事実を作る為なら媚薬を盛るくらいは簡単だと言外に匂わせるエリアスをレオネルが睨みつけたその時、アデライードが書類を抱えて帰って来た。
張り詰めた雰囲気の中、先に動いたのはレオネルだった。
部屋の中ほどで立ち止まったアデライードに執務机から離れたレオネルは歩み寄ると、手づからに書類を受け取った後、無造作に机の上に放り投げた。積み上げられたものが雪崩を起こし、床に落ちる。
「悪いが、それは呑めない。何故かはエリアスも良く知っている筈だ」
「何度でも申し上げますが、それとこれとは別です。従者に手をつけることは構いません。殿下のお好きになされば良いのです。しかし、妃として迎えることは出来ないというのは、お分かりでしょう?」
エリアスの言葉を聞きつけ、アデライードの顔が強張る。
「私の居ぬまに、また何の話だ?」
「アデルには関係のないことです」
「アデライードに関係がないこともない。だが、それは今ではない」
「随分とまた、お甘いことで」
「エリアス、良い加減にしろ」
「アデルのことは差し当たり殿下にお任せ致します。クラリス嬢については、ご覚悟をお決めになってください」
「もう決めたと言っている」
「ではアデルの為に、可愛い幼馴染を弄んだ後に棄てることが出来るとおっしゃる?」
「出来る、出来ないではない」
エリアスをひと睨みした後でレオネルは、アデライードの腕を掴んだ。突然のことに身動ぎ、僅かに抵抗を見せたアデライードに有無を言わさず、掴んだ手に力を込めると引き摺るように歩き出した。
アデライードを引き連れたまま執務室の扉の前でレオネルはエリアスを振り返る。
「やらないんだ。それに、出来るかどうか尋ねるのはエリアス、お前じゃない。俺の為を思うなら、違う方法を考えろ。いくら俺が玉座を望まないとしても、クラリス嬢を駒として使うことは、ベリック公爵を潰したい陛下の思惑に、まんまと乗せられるようなものだと思うが。まさか、そのことにも思い至らなかった訳ではないよな? 陛下はクラリス嬢の気持ちも、駒としての価値も使い方も、既にお見通しの筈だ。俺が、そのことに気づかないとでも? クラリス嬢を使わない方法を考えろ。お前なら出来るだろう? 出来ないとは言わせない」
そのままレオネルがアデライードを伴って執務室から姿を消した後、エリアスは床に落ちていた書類を拾い上げ始めた。が、ある程度拾い上げたところで、再び力任せに床に叩きつけたのだった。
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