6話目 王宮へ ③


 険しい顔をしたまま、アデライードの腕を掴み歩き続けるレオネルに、擦れ違う者は驚きを隠せず、何事かと立ち止まり目を見張る者もあった。

 廊下を進むうちに、少し離れてついて来ていたフィトに気づいたレオネルが、横目で制する。追うのを諦めその場に足を止めたフィトの戸惑い顔が、アデライードにも見えた。

 何処に向かっているのか分からずに、されるがままになっていたアデライードの腕をレオネルが離したのは、執務室がある階よりひとつ階下の吹き抜けの温室の奥、そこに設えられた小さな部屋の中に入ったときだった。


「……何があったのだ?」


 唯ならぬ様子に、それまで大人しく引き摺られるように歩いていたアデライードは、ようやく自由になった腕を摩りながら、尋ねた。

 置かれていた寝椅子の方へと大股に歩き、どかりと腰を下ろしたレオネルは「つい感情的になった」と、天井を仰ぎ目を瞑るのだった。


 高い位置にある一面の硝子で出来た採光窓から差し込む光が、煌めく粒子の瞬きと共に、いくつもの筋となって厳かにレオネルに降り注いでいる。壁に施された豪華絢爛たる装飾が光を反射し、部屋の中は眩いほどに明るい。アデライードもまた、遥か上より降り注ぐ光に向かって顔を上げた。

 頬に当たるそれは、柔らかく暖かい。

 冬の中であるというのにも関わらず、芳しい花々の香りが、温められた土の匂いと草熅くさいきれと混じって辺りを甘たるく包み込んでいる。


「私に、聞かせられる話か?」


 ゆっくりとレオネルの前に歩みよると、痛みを堪えるように眉根を寄せている端正な顔を、見下ろした。

 柔らかな光の下で、緩く癖のある黒髪は瞬き、肌に影を落とす睫毛が縁取る閉じた目蓋は、細かく震えている。

 レオネルは目を閉じたまま、溜め息と共に口を開いた。


「……そうだな、何も大した話じゃない。俺は結局、王の手の中にある駒のひとつに過ぎず、端的に言うなら、再びそれを思い知らされたというだけだ。盤上の駒を動かすのに感情は不要だ。駒に愛着お気に入りを持つことはあれど、失くしたところで換えが効かぬものではない。自分もまた、どう足掻いたところで、駒のひとつに過ぎないと初めて気づかされたのは、母が亡くなった十三歳の時だった。それに国を統べるのであれば、王すらもまた、駒のひとつであることは明白だ。つまるところ玉座に座るというのは、そういうことだ」


 深く落ち着いた声色が、高い空へと続く天窓に吸い込まれてゆく。

 沈黙が続いたのは、果たして、どのくらいだったのだろう。

 つと、レオネルの目蓋が持ち上がり、灰色の双眸が目の前のアデライードを捉える。

 ゆったりと腕を伸ばすとアデライードの細い手を掴んで引き寄せ、隣りに並ぶように座らせたレオネルは、掴んでいる手をそのままに、離すことなく強く握りしめた。 


「そなたは玉座を望まぬように聞こえるが」

「そうだ。母を犠牲にした玉座なぞ欲しくもない。だが……」


 国内の勢力図を書き換えるべく王が動いているのは、もはや間違いない。

 レオネルに北の領土を与えたのは、呼び水に過ぎないと分かっていた。


父親はこの先、玉座を譲るのはどちらでも構わないと考えている。

 そして玉座には二種類ある。自ら盤上の駒を扱い動かす椅子と、盤上の駒が動くままに眺めるだけの椅子。

 異母弟の第二王子ヒルベルトが王になるのであれば、自らの手指を使うことなく盤上で動く駒を眺めるだけの王になるだろう。自分の生き死にさえも、眺める盤上に載せられていることに、気づかぬまま。実のところ、あれは弱く優しい。

 だが、俺が王になったら? 玉座を望まぬと言っておきながら、眺めているだけなど無理だ。盤上を前に駒を手にした俺は、自らの意のままに操りたくなるだろう。人を単なる駒として自分であることも知っている。元来、物や人に愛着を持てども、固執したことなどなかったからな。とくに母を亡くしてからの俺には、エリアスを除けば、それこそ何もなかった」


 玉座を望まぬレオネルだからこそ、クラリスを寝取るという方術をとることが可能なのである。かくしてレオネルは臣に下り、北の城に留め置かれ、第二王子ヒルベルトが中立派の妃を娶った後に王となるだろう。

 詰まるところ事は王の思惑通りに運び、姻戚関係を結ぶことが叶わなかった公爵と王妃、加えて連なる貴族たちの力は弱まる。


 一方で、クラリスという駒を使うことを拒み、別案で公爵を罠にはめ蹴落すことが出来たならば、話は少し違ってくる。

 その手腕を見て、現状を由としない強き王を求める家臣たちに押されるように、後ろ楯のないレオネルを王にすべく動きだす者が出て来るのは間違いない。激しいぶつかり合いの末、国内の勢力図は改められることになり、この場合、レオネルが王になるのは必至だ。


 しかし……。


「俺は、見つけてしまった。アデライード、お前のことを。犠牲を強いることも、犠牲にすることもある駒のひとつとしてではなく、たったひとりの特別で唯一として、傍に置いておきたい。出来ることなら、アデライードの意思で俺の傍にいて欲しいとも思う」


 レオネルの指が柔く動き、掴んでいたアデライードの指を絡め取ると、親指の腹で優しく擽った。

 静かな冬の湖のようなレオネルの瞳には、どこか泣きだしそうにも見えるアデライードの顔が、映っていた。


「……故に、元から欲しとも思っていない玉座を、この先も望まぬが為だけに、クラリス嬢という駒を使うわけにはいかない。俺が欲しいと望むのは、アデライードだけだからだ」


 渇欲を感じさせる低い囁きが、アデライードの耳元に落ちる。気づいたときには、レオネルに抱き寄せられていたが、不思議とあらがう気持ちにはなれなかった。

 それゆえ、だろうか。

 触れ合う身体からレオネルの匂いを感じた瞬間、アデライードの胸は酷い苦しさを覚えたのだった。その締めつけられるような痛みはどこか甘く、抱き込むように背に回されたレオネルの腕に力が込もった所為ではないと分かっていた。


 ……この胸の痛みには、覚えがある。


 久しく感じていなかった、もう二度と感じることのないと思っていた痛みを、自覚してしまったその苦くも甘い後ろめたさに、アデライードは思わず目を閉じた。


「……では、どうするのだ?」


 間を置かず、頭の上に顎を載せたレオネルの自嘲気味な笑い声が聞こえる。


「さあな。だが俺が何もせず、第二王子ヒルベルトがクラリス嬢と婚約することになれば、王は別の駒を動かすことになる筈だ。未だに決まってはいない王太子という駒だ。おそらく俺は王太子として指名されることになるだろう。そうなっては、どうあっても王の駒として動くほかなくなる。それが嫌ならば、エリアスの言うように、自らが王になるしかないのかもな。自家撞着じかどうちゃくもいいところだ」


 玉座を望まないのであれば、王妃を陥れる為にもクラリスという駒を使うのが最も簡単で、手っ取り早い方法であるとレオネルも分かっている。

 アデライードに出会う前ならば、迷うことはなかった。妹としか見ていなかった幼馴染を手頃な駒とし、例えお飾りの妻とするにしても粗末な扱いをしないことくらいは難しくなかった筈だ。

 だが、アデライードと出会ってしまった。

 これほどまでに感情を揺さぶられ、心から欲するものを前にしては、もう無理だとレオネルは思う。

 だとすれは、手立ては他に何があるのか。

 

「とはいえ向こうも、このまま大人しくしてるわけはないだろうからな。いちばん良いのは、俺の存在を消すことだ」


 言いながらレオネルは、意外にも胸の中に抱き込まれたまま大人しくしてるアデライードを覗き込み、ふっと表情を和らげた。

 アデライードを見つめる灰色の瞳の奥には、紛れもなく劣情がある。それでも踏み止まらんとする強い意志が、背に回されたレオネルの熱い掌から感じられ、アデライードはまた、苦しくなってしまう。


「それでも王宮に行くのは、悪くない。呪術師に会い、アデライードの呪いを解呪する方法を尋ねるつもりだったからな」


 銀色の髪に菫色の瞳を持つ、呪術師。

 アデライードの知らない、呪いの秘密。


「それにしても、また随分と大人しいな? ああ、触れても良いかと尋ねたほうが良かったか? …………ん? どうした?」

「……っ、そん……な、もの」


 いちいち聞かずとも良い、と消え入りそうな声で呟くアデライードにレオネルは、咽喉の奥で低く笑うと再び、腕の中へと抱え込んだのだった。







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