4話目 王宮へ ①


 眠らぬヴァッサーレ城塞にあって、アデライードのいちにちの始まりは、早い。

 夜の明ける前に起き、ひと通り鍛錬をこなした後、汗を清め身なりを整え向かう先は東翼に与えられた自室とそう離れていない一室だった。

 部屋の扉の前に立つ見張り番に向かって鷹揚に頷くと、前室と居間を通り過ぎ、躊躇うことなく最奥にある寝室の扉を開ける。

「お目覚めか」と声を掛けながら歩を進めた。


「……アデルに起こされて一日を始めるというのは、実に悪くない。が、いま少し違った目覚め方をしてみたいものだ」

 

 今しがた起きたのだろう。寝台の上、諸肌を横向きに片肘を突いた姿勢で、緩く癖のある黒髪の向こうから灰色の双眸を細め気怠げに、アデライードを見上げているのはレオネルその人である。


「寝言は寝ている時に言うものだ」


 艶めいたものを一蹴するアデライードの言葉に、レオネルは唇の端を持ち上げた。所々に古い傷跡の残る無駄のない引き締まった身体を起こすと、腰の周りに剥がしたシーツを無造作に巻きつけ立ち上がる。

 未だ夜を纏わりつかせたままのレオネルの素肌から立罩める深く甘い麝香の匂いが、アデライードの鼻先を掠め、思わず視線を逸らした。

 何を想像したというのか、首の後ろを赤く染めたアデライードに気づいたレオネルは、含み笑いを漏らす。


「そもそも騎士として叙任される前は、従騎士としての仕事をしていた筈だ。男の裸は見慣れているのではないか? まさか、その経験がないとは言わないよな?」


 フィトの冗談を逆手に取るどころか、順手で返すことにしたレオネルは、護衛騎士としてのみならず、馘にした従者に代わって、アデライードを傍に置くことにしたのだった。

 常に主君から離れず、身の回りの世話をするだけでなく急場にあっては己を盾にしても主を守ることが求められる従者に於いて、アデライードの剣の腕は確かなものがある上に、言葉は悪いが都合良く不死でもある。戦場にあっては慰み者にもなる従者だ。どのみち色々と誤解されているなら丁度も良いと開き直るレオネルに対し、アデライードに拒否権というものなどなく、エリアスが渋い顔をしたのは、言うまでもない。

 

 滑らかな筋肉で細く引き締まった腰の下、弛んだシーツを片手で押さえたままアデライードを一瞥すると、優雅な足取りで浴室へ姿を消した。間を置かずして水飛沫の音が聞こえる。


 暫くしてガウンを羽織り湯煙を靡かせ、濡れた髪を撫でつけたレオネルが浴室から出て来ると、アデライードに背を向け、身につけていたものを躊躇なく床に落とす。着付けは手伝わずとも良いから着替えを一枚ずつ手渡すよう、上体を捻り手を伸ばしながらアデライードに促した。


「……無論、従騎士の仕事はした」

「ふうん? 幸運な男が居たものだ」

「何故、女人だと思わない?」

「相手は女騎士? まさかな。違うだろう」

「ああ……戦場に於いては飄々として、日常では穏やかな人柄の、一風変わった歳の離れた従兄弟だった」

「だろうな」

「何故?」

「厳選なる人選があった筈だ。その頃のアデルは今よりも小柄で華奢。襲ってくださいと言わんばかりに可愛いかったに違いないからな。そのうえ嗜虐的な者の集まりとは言わんが、血気盛んな騎士のなかにあって、アデルが潔癖で高慢であるとくれば、屈服させたいと思う歪んだ欲望を抱く者は多かっただろう。半端な覚悟しかない庇護者であれば、戦いの後の昂りを慰めようと、いつなんどき豹変してもおかしくない。女騎士であろうとも同じだ。さらに女同士ならではの嫉妬もある。……大事にされていたな」


 国を守る騎士だと偉そうにしていても、所詮は守られた存在でもあったのだ。気づいていなかったことを指摘してみせるレオネルに、鼻白むアデライードを、身支度を終え振り返って笑う。


「ははッ。身に覚えがあり過ぎるか?」

「口にして何になる」


 きっとして睨みつければ、レオネルはアデライードの燦く黄金の瞳を覗き込むように身体を屈めた。


「――っ、」


 絡み合う視線を逸らすことなく、アデライードは挑むように顎を持ち上げた。同時に、自身を見下ろしていた灰色の双眸が一瞬にして欲を孕んだ男のものに変わったことに気づいた途端、ひゅっと喉の奥が鳴った。

 動けないのは、弱さを認めたくない愚かな自分だからか、あるいは圧倒的捕食者を前に足が竦んでいるのか。それとも……。

 すっとレオネルの端正な顔が近づく。

 唇が頬を掠め、耳元に寄せられる。


「煽っているのが、分からないのだから始末に悪い」


 低い艶のある声で囁くレオネルの吐息が、耳を擽った。


「……アデライード」


 身体にはどこにも触れられていないというのに、ぞくりと背筋に何かが走る。今までに感じたことのない甘い痺れに、アデライードは震え慄いた。


「お前から俺を欲しがるようになるまで、待つつもりがある。だが実のところ俺は、そう気の長い方じゃない」


 静かな声音とは裏腹に、分かるな? と獰猛な瞳を向けられアデライードは、今度こそ息を呑んだ。

 仄暗い欲望を匂わせるレオネルに、アデライードの身体の奥が、ずくりと反応する。


「アデライード、その顔は反則だ」


 レオネルの身体が、不意に遠ざかった。


「理性を働かせるにも限界がある。奥底に蠢く欲望を自覚させられる度に、目的の為には手段を選ばない男共と同列にはなりたくないと思いながらも……」


 いっそ狂ってしまえるのなら――。


 アデライードの耳に、吐き捨てるようなレオネルの呟きが届いたときには、部屋の中にひとり残された後だった。




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