第2章 月の剣

1話目 冬の暁光 ①



 「……涙が甘いとは初めて知った」


 寝椅子にもたれ、持て余す長い足を投げ出し、天井に向けた顔を両手で覆うレオネルが居るのは、夜も更けて人払いをしたエリアスの私室である。


「涙が甘い筈は、ありませんけれどね」


 肩をすくめ呆れた顔でエリアスは、レオネルにお茶を淹れ終わると向かい側の椅子へ腰を下ろした。

 西翼のレオネルの執務室がある階に、宮廷の呪術師の居室が忘れ去られたままにあったこと、不老不死の呪いを刻んだのはアデライードの想い人その人であったことをエリアスに告げてから、ひと月と半分。

 ヴァッサーレ城塞は雪化粧を施され、長い冬の中にあった。


「きっとアデライードは、どこもかしこも甘いに違いない」

「はい、はい。左様でございますとも」

「……エリアス、適当過ぎやしないか?」

「殿下、このひと月と半分、暇さえあれば思い出す毎に繰り返し聞かされる方の身にもなってください。しかし、まあ……お二人の関係は全く進展していないのですから私としては別段、何の憂いもありませんがね?」


 お茶を飲む為に身体を起こしたレオネルは、自身は憂いばかりだと言わんばかりの不貞腐れた顔をエリアスに向け、何か言い返そうとして諦めた。

 温かな馥郁たる飲み物で唇を湿らせた後、再び背凭せもたれに寄り掛かると脚を組む。


「……分かっている。性急に物事を推し進めるつもりはない。それにアデライードは、ようやく俺と建国王ロランドが別人であることを受け入れたに過ぎないのだからな」

「そのことを殿下が理解していらっしゃるだけ、目覚ましい進歩ですよ」

「どういう意味だ?」

「つまり、アデルにとって殿下は狒々爺ヒヒジジィより少しマシになったということです」

「…………なるほど、そうか」


 ご存知なかったのですか、と言いたげなエリアスの視線から逃れるためレオネルは、暖炉の火を眺める振りをしながら長い脚を組み換えた。


「アデルは護衛騎士です」

「分かっている」

ということです」

「対外的には、な?」

「このところアデルを構い過ぎる殿下のお姿は、目に余るほどです。よもや、城内の噂をご存知ないとは言わせません」


 護衛騎士のアデルの美しさに殿下が手を出したと、城内で噂になっていることは、レオネルも知っていた。

 東翼に居室があることから、不届者に寝込みを襲われる心配はないが、そのことでアデライードが、鍛錬の時に嫌がらせを受けていることもまた、分かっている。


 レオネルが見たのは丁度、アデライードが倍ほどもある、頭の中まで筋肉が詰まっているとしか思えない男と剣を合わせているところだった。

 力で押され苦戦しているように見えるアデライードだったが、レオネルからすれば図に乗った男を誘っているのは瞭然であった。面白いほどにアデライードの掌の上で踊らされている男は、それと知らず誘引されるままに、隙を突いたつもりで見事に欺かれる。

 男が気づいたときには既に遅く、足を払われ地面に背を打ち、馬乗りになったアデライードの手に持つ長剣はいつの間にか腰に隠してあった短剣に代わり、冷たい薄刃は今まさに咽喉元を切り裂かんばかりというその、鮮やかさ。

 鍛錬場は、静まり返っていた。

 散々嫌がらせをされていたのだろう。

 脂汗を噴き出し、狡い卑怯だと口汚く叫ぶ男に向かってアデライードは、ぐっと刃を喰い込ませ黙らせると、ひと言――


「実戦だったら、死んでいる。殺されずに済んで良かったな」


 と、美しい顔に、ぞっとするほど酷薄な笑みを浮かべたのだった。

 背筋の凍る思いをしたのは、その男だけでなく周りにいた者達もまた、同じだろう。

 あのフィトですら、普段の鳴りを潜め笑顔を引き攣らせていた。

 白く滑らかな肌に薄っすらと汗を滲ませ、冷徹な目つきをしたアデライードの姿に、レオネルが劣情を煽られ更に惚れ直したのは、言うまでもない。


「知っている。だが、それがどうした」


 何を思い出してか、何処どこか遠くを見ているレオネルに、エリアスは、これ見よがしに溜息を吐いた。


「ああ、もう。レオネル……君ね」

「良いじゃないか、エリヤ。お陰で煩わしい縁談の話も遠ざかるのではないか?」

「それとこれは違うって、レオも分かっている筈だろう?」

「分からないな。俺が欲しいのはアデライードだけだ」

「こう言っては身も蓋もないけど、レオは、初めての恋に浮かれているだけだと思う」

「初めてが最後であって、何故に悪い?」


 端正な顔に憎たらしいほど艶めいた笑みを浮かべ、見事に居直るレオネルを見て、頭が痛い、と言わんばかりに俯き顳顬こめかみを揉みしだくエリアスだったが、やがてその手を力なく膝の上に置いた。

 顔を上げ、真っ直ぐにレオネルを見る。


「殿下は不老不死の呪いが解けたら、アデルが自由になると考えていらっしゃるようですが……」

「違わないだろう」

「ええ、違いませんとも。しかし、考えてもみて下さい。呪いが解けて終わり? その後、二人は幸せに過ごしました。めでたし、めでたし……果たして、本当に? 二百三十年も生きていて、呪いが解けた途端に塵芥ちりあくたにならないとは言えないのですよ?」

「……まさか」

「そのまさかが、実際に起きるかもしれないという覚悟はあるんだろうね? それでもレオは、アデルの自由を願い祈ることが出来るというのかい?」


 呪いが解けた後でアデライードを喪う。

 これまで一度として想像だにしなかったことに、レオネルは束の間、愕然とした。

 無いとは言えない。だが、そのようなことが、あってたまるものか。

 ややあって気を取り直したが、アデライードを喪うなど考えるだけでも恐ろしく、それでも虚勢を張り、有り得ないと一笑に付そうとしたところで止めた。真剣な顔をしたエリアスが目に入ったからである。


「エリアス……? 何か知っているのか?」

「……知らない。知っていたら、どんなに良いかと思うよ。そしたら、呪いなんて解呪させない。アデルが苦しみ続けることより、君が傷つく方が嫌なんだ。だからレオ、呪いを解いた先に何があるのか、その覚悟はあるのか、今一度、考えておいた方が良い」


 いつだってエリアスにとっての『特別』はレオネルだけだ。『唯一』と言い換えても良い。レオネルが悲しみ傷付かなければ、アデライードがどうなろうとエリアスには知ったことではなかった。


「まだ、呪いの解き方も分からないのだ。先を考えても仕方あるまい」

「らしくないね」

「そうか? ……そうかもしれんな。だが、エリヤ。俺には、お前がいる。他の誰も、お前の代わりにはならない。頼りにしているんた。肝心のアデライードは俺のことなどは、未だ『狒々爺ヒヒジジィより少しマシ』くらいにしか思ってはいないのだから」


 ふっと笑うレオネルに、幼い頃から良く見知った顔であるにも関わらず、エリアスは見惚れてしまう。

 魅力溢れる美貌を持つ人たらし、を。

 灰色の双眸を優しげに細め、弧を描く蠱惑的な唇が紡ぐのは、相手が欲している言葉。当人は大したつもりも無く、相手が言われたいと思っている言葉を囁く。


 ――他の誰も、お前の代わりにはならない。


 レオネルの低い声が、甘い毒となってエリアスを蝕む。

 

「……殿下」

「その顔は、何だ?」

「殿下には、敵いません」

「そうだろうな。知っている」






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