2話目 冬の暁光 ②


 鋭く尖った冷たい冬の空気が、ちりちりと肌を刺す。風が吹くたび、耳は千切れんばかりに痛んだ。凍る睫毛は重く、瞬きするたびに眼球に薄い氷が張るようで涙が滲む。

 雪の世界に沈むこの時期は、音がない。

 微かな息遣いと僅かな衣擦れも、たちまち虚空で白く凍てつき、静寂の中へ落ちてゆく。

 待っていた。

 もう、ずっと。

 やがて見つめる先、重なり合う薄鈍色の雲の向こうに現れた黄金の光が、雲間に覗く藍色の空を、ゆっくりと溶かしてゆく。その光景に、思わず詰めていた息を吐くと、目の前が真っ白にけぶり束の間、何も見えなくなる。

 

「随分と早いな」


 直ぐ傍で聞こえた深みある声が、誰のものか振り返らずとも分かった。

 気配を感じさせなかったのは、流石としか言いようがない。

 露台に立ち、夜が朝に変わるのを見ていたアデライードの背後うしろに、レオネルが近づく。触れていないのに熱を感じるのは、レオネルの体温が高いからなのか、アデライードが凍えているからなのかは分からないが、その温かさは不思議と嫌ではなかった。


「……いきなり夜明けに勝手に人の部屋に入って来て『早いな』とは」

「まだ寝ているかと思ったからな」

「意味が分からない。寝ているところを襲うつもりだったのか?」

「まさか」

「では、何故?」

「顔が見たかった」

「見たところで何だというのだ」

「俺が、満足する」

 

 呆れて振り返れば、灰色の双眸がアデライードを真っ直ぐに見下ろしていた。

 もう、その眼を恐ろしいとは思わなかった。あの男ロランドは、このように静かな眼でアデライードを見たことが無かったからなのかもしれない。

 ひと度、二人が別人だと分かってしまうと、瞭然たる違いがあることに気づかされる。

 

「……そなたの眼は、冬の湖のようだな」

「そうか」


 思わず、口を突いて出ていた。

 褒め言葉かと聞かれたのなら、違うと、あるいは分からないと、答えただろう。アデライードは、見たままを素直に口にしただけだからである。

 そのようなことを考えているとも知るや知らずや、鰾膠にべもない返事のレオネルだったが、ほんの少し笑った顔を見てアデライードは驚く。普段によく見る、口の端を上げただけの皮肉げな笑みではなかったからだ。

 途端、何故か落ち着かない気持ちになったアデライードは、


「もう充分に顔は見ただろう。着替えたいから出て行って欲しい」


 とレオネルの傍を通り過ぎようとしたところで、腕を掴まれた。厚手の夜着の上にガウンを羽織っていたが、レオネルの掌の熱さに肌が焼けるようだった。振り切ろうとしたが、強く掴まれ動かせない。


「…………離せ」

「色々と嫌がらせを受けているのは、知っている。困ったことがあれば、言え」

「嫌がらせ? 確かに心当たりが有り過ぎて、果たしてどのことを言っているのか分からないが、どれも大した話ではない。顔が見たかったと言いながら、その為に来たのか?」

「そうだと言ったら? 心配ぐらいしても良いだろう。駄目か?」

「そんなもの……いちいち聞かずとも、好きにすれば良い」


 アデライードを掴んでいたレオネルの手の力が弛んだのを見て、乱暴に振り切った。

 そのまま睨みつけるアデライードに構うことなくレオネルは空いた手を伸ばし、指で頬を撫でるように掠めながら髪をひと房、掴んだ。

 逃げないのを見て取ると、何を思うのか視線を絡ませたまま少しの間、滑らかな髪の感触を楽しみ、弄ぶようにしていたが手を止め、つと身体を屈め顔を寄せ囁いた。


「アデライードの瞳は、暁の空のようだな」


 聞こえていた筈だが、アデライードはいつものように感情の読めない顔でレオネルを見返しているだけだった。

 掴んでいた髪から、手が離れる。


「さきほどのお返しだ」

「……そうか」


 今度こそアデライードに向かって、常と同じく唇の端に笑みを浮かべるとレオネルは、振り返ることなく長い脚で大股に部屋を出て行った。

 レオネルに掴まれていた腕が、指の掠めた頬が、熱を持ったままであることにアデライードが気づいたのは、着替えも終わりマントを肩に掛けたその時だった――。




 「なあアデル、正直に答えてくれるか? レオネル殿下とは何かあったんだろ?」


 西翼の一階にある食堂で、使い込まれ表面に黒く光沢の浮いた木製の長い卓を囲み、むさ苦しい騎士達が皿の上のものを掻き込んでいる中、朝食の肉の煮込み料理に硬いパンを浸しながらフィトが上目遣いでアデライードを見る。

 女人であることを隠していることから居室は東翼にあるとはいえ、一介の騎士に過ぎないアデライードは、朝と晩の食事は西翼にある使用人の食堂で他の騎士たちと共に交代で摂っていた。


「何かとは、なんだ?」

「えっ? それオレに言わせる? わざとなの? 知っててわざと言わせたいとかアデルって、そっちなの? あーうん確かに、この間ジェスのヤラれっぷりを見たら、それもあるかもな。虫も殺せないような顔してる癖に、アレを見せられちゃ。いや、まあ……待てよ。そしたらレオネル殿下の方が……ってこと? それもどうかなあ。どう見たって」

「だから、何が言いたい?」

「ヤラれちゃったの? ヤッちゃったの?」


 いちばん聞きたかったことは、フィトが小声で尋ねたにも関わらず、同じ卓で喋りながら煮込み肉を頬張っていた何人かの男たちが、ぴたりと動きを止め黙り込むのを横目に見て「やべえ。聞く場所、間違えたかなあ」と首を竦めながらパンを口に放り込んだ。


「そのような事実は、ない」


 アデライードも同じようにパンを煮込み汁に浸して口に入れているが、所作の美しさに同じ物を食べているのかと疑いたくなる。

 皿を覗き込むフィトに「なんだ? 肉が欲しいなら、やるが」とアデライードが目で食べて構わないと促した。


「おい餌付けかよって、まあ貰うけどな」


 遠慮なくアデライードの皿の中から、ほろりと煮崩れた肉を取り出すと、アデライードの皿ん中はオレのより肉が多いよな、完全に給仕してる奴の贔屓だと、ぶつぶつ喋りながら口の中に大きな塊を続けて二つ放り込む。


「だけどなあ。今朝だって夜明け頃に殿下がアデルの部屋から出て来たって……」


 めいいっぱい頬張っていた肉を飲み下した後だったからか、ついフィトが声を潜めるのを忘れたせいで、ガシャン、と皿を落とす音が部屋のあちこちから聞こえたのは、一つや二つではなかった。

 

「……誰に聞いた」

「え? そりゃあ、寝ずの見張り番や侍従やら使用人やらで殿下の周りは、いつだって誰かいるし。こう……まわり回って耳に入ったと言うんですかね」

「なるほど。信用の出来ぬ者がいることを教えてくれて有り難い。エリアス殿に伝えるとしよう」

「ああ、そうだなあ……って、ええっ! じゃあ殿下が部屋から出て来たってのは嘘じゃないんだな?! つまり、やっぱり一晩中」

「明け方に部屋を出て行ったのは事実だが、夜明けと同時に来ただけだ。一晩中居たわけでもないし、何があった訳でも……」


 そう言ったところで、レオネルが掴んだ腕や、頬を指が撫でるようにして髪に触れたこと、囁く低い声を思い出したアデライードは、それらを追い払うように小さく首を横に振った。


「………………ない」

「おい、随分なっがいだな? さては、なにかあったな」

「莫迦ばかしい」

「じゃあ、なんで」


 ちょっと顔が赤いんだよ、とフィトは言おうとして開けていた口にパンを放った。

 

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