12話目 郷愁 ④
「……ここは?」
「レイズ王国に居た呪術師の部屋だ」
アデライードの背中に向かって問いかけたレオネルの静かな声だったが、答えは振り返ることのないままに返ってきた。
二百三十年もの時が経っていることを全く感じさせることはなく、部屋は、持ち主が少し席を外しているかのような状態のままにあった。
開いたままの本。被せただけのインク壺の蓋。立ち上がった時にずれた椅子の位置。
――懐かしい、何も変わらない。
いや、変わらないどころか部屋の持ち主が居なくなって随分と経つというのに、まるきり時が止まったままであることに驚かされる。
埃が積もることもなければ、不思議なのは窓辺に置かれた植物が枯れていることもない。今にも、この部屋に彼が帰って来るような気がする。
菫色の瞳に、柔らかな笑みを浮かべて。
そのようなことは、ある筈もないのに。
アデライードは確かに、ロランドに切り落とされた彼の首を両手に取って、胸に抱きしめのだから。着たくもなかったロランドの為の白いドレスが、彼の首から流れ出る血で滲んでゆくのも、そのままに。
「その呪術師が、アデルを不老不死に?」
「……ルカ、だ」
「なに?」
「その者の名だ。ルカ、という」
それが何であるのか、レオネルが気づかぬ訳がない。アデライードがその名を呼ぶ声には、匂い立つような甘さがあった。
知りたくもなかった。
アデライードは、愛していたのだ。
……その男、を。
レオネルの胸に酷く冷たいものが押し寄せた。その直ぐ後で、奥の方から湧き上がる怒りよりも重く仄黯い何かが、忽ちに冷えた心を更に塞いでゆくのを感じていた。
「その者は?」
「ルカは、殺された。もちろん……ロランドに、だ。首を切り落とされて」
背を向けたまま愛しい者の首を抱えてでもいるかのように、両手を見下ろす痛々しいアデライードを見れば、抱きしめ慰めてやりたいと思う。
だが一方で、その男を想うアデライードに、狂おしいほどの憎しみと怒りも込み上げるのだった。
自身の中の馴染みない相反する感情に、
向けられた黄金の瞳の中の赤い花弁が、涙で滲むその美しさに、レオネルは、それまでの憎しみや怒りが急速に萎んでゆく。
「私が何故、不老不死であるのか知りたいと言っていたな?」
レオネルは、知りたくない、と喉まで出かかる言葉を必死に押し留める。
聞きたくない。
聞かずとも分かるような気がした。
アデライードの苦しげな顔を見れば。
「……私は、ルカの為に不老不死の呪いを軀に刻んだのだ。彼の血を繋ぐために、騎士であった私は死ぬわけにはいかなかった。だが、本当のところは違う。違うのだ。私が死ねぬのは、ルカを望んだから……彼が別の人を選ぶのを見たくなかったから。例え私が戦いに於いて死んだ後でも、ルカが誰かのものになることを考えるだけで恐ろしかった。それ故に、呪いに縋り、手を伸ばした。そうしたらどうだ? ルカは死んで私だけが残ってしまった」
だから、これは愚かな私に課せられた咎で、死ねぬのは罰なのだとアデライードは、力無く続けた。
罰? 罰などではない。
言葉通り、呪いだとレオネルは思う。
死してなおアデライードを縛りつけ、決して離さない為の呪い。
沸々と怒りが込み上げる。
その男のしていることは、アデライードの身体を蹂躙し心を深く抉り傷をつけてでも己の存在を刻みつけるしかなかった建国王と、何が違う?
「その呪いから自由になりたくないのか?」
思わず、低い声が出た。
話しながら再び両手を見下ろしていたアデライードだったが、
「……なれるものなら。だが、これは」
言って小さく首を横に振った。
レオネルに向け、口には出さなかったがアデライードは、ルカ以外に愛する人など知りたくもなかったし、知ることもないだろうと思っていたのである。
「呪いに対して、呪術師が秘すべきことは沢山あるだろう。解術の方法など、アデルが知らぬことも、まだあるのではないだろうか。
それに、罪というのならば呪いを望んだのがアデルにしろ、実際にその身体に刻んだ者は? その男には何の罪もないのか? アデルを独り残すことになったのは、その男の罪じゃないのか?
……アデル。たった独りで咎を背負い、償うのは、もう充分だ。それに俺に言わせれば、そんなものは償いではない。自分を痛めつけることで罰を与えられたつもりになって全てを放棄し、何もかもを諦め、逃げているだけなのだから」
アデライードの身に起きたこれまでの痛みや恐怖、長い独りきりの絶望を思えば、レオネルの言葉はあまりにも残酷なものだった。
何故なら、アデライードの血を流し続けるままの心を、抉り引き裂くその言葉は、真実でもあると分かっているからだ。
「俺のことを殺したいような顔で見ているが……まあ、そうだろうな。アデルではない俺には、その気持ちは分からない。だが、全く想像が出来ない訳ではない」
そう言って美しく端正な顔を何処か哀しげに歪め、口の端で微笑むレオネルを眺めながらアデライードは、初めて真正面からこの人物を見たような気がしていた。
そう。ロランドとレオネルは別人だ。
これまでの、ほんの僅かな短い間であっても、充分なほどに分かり過ぎるほど分かってていたが、それでも、分かりたくなかったのである。
塔にひとり、長い時間捨て置かれている間であっても、
それもあって尚更にアデライードは、レオネルにロランドを重ねて見ていたのだ。
何よりも赦せないのは自分は死ぬことが叶わないのに、ロランドは呆気なく死んでしまったことだったからである。
穏やかに近寄るとレオネルは、アデライードの虚な瞳を覗き込みながら頬に優しく手を触れた。
途端、思わずその身体を飛び跳ねるように動かし、与えられた恐怖を思い出したアデライードが唇を噛み締め、叫びたくなるのを堪えているのを見て取ると、レオネルは声を殺し低い声で囁く。
「大丈夫だ。何もするつもりはない」
そう言いながらもレオネルは、震えるアデライードの身体を、
「アデライード」
怖がらせたくない。離れるべきだと分かっていて、出来なかった。
月を溶かしたような髪に触れ、そっと撫で下ろす。そのまま背中に沿うように、優しく手を動かした。アデライードの震えは治ることがないどころか激しくなるばかりにあって、レオネルの胸は酷く痛んだ。それでも胸の中に引き入れた甘い匂いのする柔らかで壊れそうな小さな身体を、離してはやれなかった。
「俺は、ロランドではない。それでも触れられるのは、嫌か?」
尋ねたくはなかった。嫌だと言われたら、この先、再び手を伸ばしたくなるのを耐えられるだろうか。そうなったら自分もまた
――俺もまた、呪われている。
だが、たとえこの想いが、建国王が遂げられなかった血の呪いだとしても構わない。
ひと目見たあの時から、アデライードに囚われてしまったのは、他でもなくレオネル自身であるのだから。
この感情は、俺のものだ。
アデライードの返事を待つ、ほんのひとときを、これほどに長く感じたことはなかった。
「……分かっているのだ。私だって。そなたはロランドではないと」
ややあって落ち着いた声が聞こえ、レオネルは抱きしめていた手を緩めた。
ゆっくりと血の気が失せた顔を上げたアデライードだったが、それでも、もう震えてはいなかった。
互いの息が触れるほど傍にあるアデライードを見下ろし、黄金の燦く瞳に映っているのが己の姿だけだとレオネルが認めた瞬間。
突如として、胸の奥に隠れていた燻りが燃え上がるような、これまでに感じたことのない激しい欲望に慄いた。
これが恋に堕ちるということならば、レオネルが知っている恋とはまるで別物だった。
それまでレオネルが恋と呼んでいたものは、巧妙な駆け引きを愉しむ、快楽を共にするだけの単なる遊戯に過ぎなかったと気づいたからである。
今すぐ自分だけのものに、したい。
駆け引きも何もない。レオネルの頭に思い浮かんだのは、ただ、それだけだった。
狂ったような想いに取り憑かれていた。
だが、それでは到底、手に入らないものがあると分かっていた。
アデライードの心だ。
狂おしいほどに手を伸ばし、掴みたいのはアデライードの誰にも見せることのない自分だけに向けられる心だ。
渇望とも呼べるそれは、独り深く閉じこもってしまったアデライードの硬い殻を壊し、苦しみも悲しみも、痛みも喜びも、自分だけの知るアデライードを引き摺り出したいと願っている。
また一方で、決して手に入らぬものなら、愚かな行為だと分かってはいても
――同じだ。
俺もまた、どうにかしてアデライードの心を独占し、たったひとりの忘れられぬ男に、なりたいと思うのだから。
レオネルは溢れ出んとする欲望を押し殺し、理性を働かせるのが精一杯で、衝動的に唇を奪いそうになる代わりに、アデライードの苦しげな呻き声が聞こえるまで何かに縋るように強く抱きしめていることにすら気づかなかった。
はっと我に返って両腕の力を緩める。
「すまない……」
黯い欲望に染まる目を見られたくなく、レオネルは顔を逸らし慌てて身体を剥がしたが、未練たらしく両手は未だアデライードの腰にあって、触れたままである。
されるがままのアデライードを前に、暫くそのまま誘惑と戦っていたが、細い腰をまた強引に引き寄せたくなる前に手を下ろした。
代わりにアデライードの片手を取ると顔を俯けたまま、持ち上げたその指先に、柔らかく唇を落とす。
次いで手の甲に、それから……手首に。
「……アデライード。俺に、呪いの解けることを共に願い、力になることの許しを与えて貰えないだろうか?」
最後、懇願を込めて掌に唇を落としたときだった。ぽとり、と透明な雫が地面に落ちたことに気づき、レオネルは顔を上げた。
目の前に、声を殺して泣くアデライードを見つけ、胸が苦しいほどに痛くなる。
何かを思うよりも先に、自然と身体が動いていた。
アデライードの白く滑らかな頬が、涙でこれ以上濡れたりしないように、レオネルはその眦に熱い唇を押し当て、溢れ落ちる寸前の雫をそっと拭い取ったのだった。
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