11話目 郷愁 ③
――春、だった。
レイズ王国の春は、遅い。
十二歳を迎えたばかりのアデライードは、この日、いつもの如く侍女を撒き、外遊先から戻ったという兄を探し柔らかな光に溢れる王宮の外庭を歩いていた。春とはいえ朝晩はまだ寒く、日差しで温められた地面を覆う草に残る露が、拵えたばかりの真新しいドレスの裾を濡らすのも構わず足を運ぶ。
そのドレスを淑女にあるまじき様子で片方の手で大きく摘み上げ、爪先で残る裾を蹴り上げるようにしながらアデライードは、早くも踝丈の子供用のドレスを懐かしいと思うのだった。今朝から着せられることになったばかりの、大人と同じ新しいドレスは爪先を隠すほど裾が長く動きづらくて敵わない。
長い髪も編み込まれ、所々花を模した宝石で飾られ重いのも窮屈だった。
アデライードが探しているのは、五つ歳上の兄である第二王子のマテオである。
跳ねっ返りの王女さま、と呼んで可愛がってくれるのはいつだってマテオだけで、王太子はアデライードなど眼中になければ、優しかった歳の離れた姉たちは皆、近隣国へと嫁いでしまっていた。
王宮に残っているいちばん歳の近い二つ違いの第四王女は、アデライードを忌み嫌っていることもあって、過去には度々嫌がらせをされることもあったが、アデライードがまるで相手にしていないことに漸く気づいたと見え、この頃は目に見える嫌がらせは減った。だが、顔を合わせれば蔑む目で睨まれるのは変わりがない。
その原因はアデライードの実母の出自の低さであると知っていたが、マテオに言わせればそれだけではないらしい。では何であるのかと問えば、お前にあって第四王女にはないものだと謎掛けのような答えをされるばかりなのである。
姉の方が何でも持っているとマテオに言えば、年頃になれば、そのうちに嫌でも分かるようになると優しくはぐらかされた。
思いを巡らせていた、そのとき。
「……マテオ兄さま!」
見えるところに護衛の姿はなく、隠れて守っているということは、人払いをしていることを意味する。
やってしまったとアデライードは思いながらも、今更あとには引けず、二人の方へと歩みを進めた。
遠く、彼等が振り返る前から声を掛けたのは、うち一人が兄であるのは
この国では珍しい透けるような銀色の髪は一度でも見れば忘れようもない。誰だろうと首を傾げたアデライードに、二人が同時に振り返った。マテオがアデライードの姿を認め、優しく目を細めたのが見える。
両手を広げた兄に向かって、ほっとして小走りで近寄った。
「やあ、アデライード。少し見ないうちに、また美しくなったな。新しいドレスだね? 髪も編み上げて、もうすっかり大人だと言いたいが……」
くすり、と笑いながら広げた両手でアデライードの手を二つとも取り、引き寄せると、じっと頭から爪先まで見下ろす。
「後先見ないで兄を目掛けて走って来るようでは、まだまだ幼くて心配だな」
嬉しそうにマテオが話す声を聞きながらアデライードは、その隣りに立つ人の美しい菫色の瞳が驚いたように開かれるのを、不思議な気持ちで眺めていた。
菫色の燦然と煌めく瞳は、捉えたアデライードを決して離そうとせず、優美な微笑みを浮かべた唇だけが動く。
「……マテオ?」
「ああ、紹介しよう。第五王女のアデライードで、知ってのとおり私のとっておきの妹だ。アデライード、こちらは私の外遊先で得た学友のルカだよ」
「初めまして王女さま。お噂は
黙ったままのアデライードらしからぬ様子に、マテオが揶揄いを込め、顔に浮かべた笑みを深くした。
「おや? 初めて会ったにも関わらず、すっかり互いに目を奪われているとは妬けるな。アデライード。彼はこの先、私の右腕となる人物だ。追々分かることもあるだろうが、その他にも理由があってね。王宮に居室を与えたから、これから顔を合わせることも増えるだろう。二人とも仲良くしてくれたら嬉しい」
「僕は君と仲良しになりたいな。君は、どう? 僕と仲良くしてくれる?」
単に、十二歳の少女に向けるだけに留まらないルカの、何処か危うげな甘さを含んだ艶めいた笑みを目の前にアデライードは、熱に当てられたように、らしくなく頬を染めたまま咄嗟に声が出なかった。こくこくと頷くだけの姿を見たマテオは、苦笑いをしながらアデライードを胸の中に引き寄せると腰に手を回し閉じ込める。
「幼いと心配した傍からこれだから……全く。いや、まだ気づいていないのかい? おやおや。だとすれば私だけのアデライードで居てくれるのは、後どれくらいなのだろうね? どうやら二人を引き合わせたのは、早計だったようだな」
心地よいマテオとルカの重なる笑い声が、薄青の空に吸い込まれてゆくのを兄の腕の中で聞きながらアデライードは、何故こんなにも擽ったい気持ちになるのだろうと考えていたのだった。
……まるで、昨日のことのようだ。
あの瞬間に、恋に堕ちていたのだろうか?
全ての始まりがあの日の出会いだというのは、あまりにも不確かで、だが、そうでなければ何時なのだろうと、考えを巡らせても分からない。
アデライードは並び歩くレオネルを見上げ、途端、絡め取られるような視線を受け直ぐに外した。
「……そなたは、城絵図には描かれていない場所が知りたいと言っていたな」
前を向いたまま、アデライードが呟く。危うく聞き逃すところだった独り言にも似た小さな声に、不安を見て取ったレオネルは、敢えて揶揄うような口調で尋ねた。
「なんだ? 王族だけが知るという道か?」
「いや、違う……まあ、そう遠くもないが」
「なるほど。限られた者が知る場所か?」
にやり、と笑うレオネルを横目で見たアデライードは表情を動かすことなく「その前に、ヴェネセティオ王国に呪術師や魔術師は?」と尋ねる。
「ああ王宮に、ひとり居たな。銀色の髪に美しい菫色の瞳のその男に、俺も一度だけ会ったことがある。古代から魔力を宿した血を細々と受け継ぐ不思議な一族で、生まれてその姿を見るまでは魔力を有しているのかは分からないという。加えて真偽は不明だが、その者は魔力のみならず記憶も繋いでいるとか。確か出自は、この北の山岳地帯の向こうの……そうか、なるほど」
これからアデライードが案内しようとしているのが、何処であるのか分かったとばかりにレオネルが頷く。
言い淀んでいたのは、おそらくそこがアデライードにとって個人的な場所であるからだろう。
……宮廷の呪術師。
考えれば考えるほど、アデライードの不老不死となんらかの繋がりが見えるようだった。
早くも何か教える気になったのだろうか?
だが、アデライードを見れば、ぼんやりと前を向いたままである。
そのときアデライードは、耳にしたばかりの言葉の意味を繰り返し考えていたのだった。
『銀色の髪に美しい菫色の瞳』
『魔力を宿した血を受け継ぐ呪術師が、王宮にいる』
ルカはロランドによって殺されてしまったが、一族は魔力を宿す血を繋ぐことが出来たのだということなのだろうか?
ロランドの言葉が不意に蘇る。
『そなたが知らぬことは多いらしい』
そして自身の考えに没頭するあまりアデライードは、このときレオネルの言葉を最後まで聞いていなかったのである。
「……アデル?」
黙ってしまったアデライードを心配そうに覗き込むレオネルの近さに驚き
「すまない。いや、何でもないから気にしないで欲しい」
と、言いながら距離を取るため、さりげなく身体を動かした。
そのまま歩き続け、レオネルの執務室のある階の奥、行き止まりの壁の前でアデライードは立ちどまる。
訳知り顔のレオネルが隣りに立ち、アデライードに向かって片方の眉を上げて見せた。
「この先に、部屋がある。とはいえ、未だにあるのかどうかは分からないが、開けられるのは契約した者のみであるのは確かだ」
壁に両手をついたアデライードが、教えられた通りに詠唱を口にすると、壁に光る紋様が浮かび上がった。
続いて現れた扉に手を掛けたアデライードが、躊躇うことなく中へ入る。
半ば消えかけている扉の前でレオネルがフィトを振り返れば、小さく両手を上げ、肩を竦めるのが見えた。
その様子を見てレオネルは唇の端を持ち上げ「なるほど。どうやら良い子で待っていられそうだな。あとで褒美をやろう」とフィトに向かって言葉を残し、扉の向こうへ姿を消したのだった。
後に残されたフィトは、いまや何の変哲もない壁を見ながら諦めたように少し笑うと、首を横に振りながら小さく溜め息を吐いた。
これまでを振り返れば、自分はどうやら
「退屈とは、おさらば出来たのは良かったが、こりゃあ……まいったな」
琥珀色の髪を、いつものように片手で掻き回す。そこでふとアデルに向けられたエリアスの苦虫を噛み潰したような顔を、思い出したのである。
しっかし、ありゃ
壁の向こうへ消えた、男にしては恐ろしいほどに美しい
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