10話目 郷愁 ②


 レオネルと並んで歩くヴァッサーレ城塞の西翼は、かつては王宮としてアデライードが良く見知った場所の筈だった。だが、その姿には、はっきりとした変遷が見られる。

 

 ――当然だ。

 あれからどのくらいの月日が流れたというのか。廊下に敷き詰められた大理石の模様や、剥げかけた天井絵、補修された壁といった以前とは違うそこかしこの差異を目の当たりにすればするほど、却って懐かしい記憶を呼び覚ます残滓というものを窺い見ることが出来た。足を進めるにつれ、この場所は確かに、アデライードが日々を暮らしていた頃から連綿と続いているのだと思い知らされる。

 かといって、アデライードは込み上げる郷愁のようなものに、ただ押し潰されんばかりになっていただけではない。

 黄泉から禍々しい黒い霧のような姿形を留めぬ亡者が蘇るが如く、懐かしくとも触れることすら躊躇うほどの思い出したくもない記憶に、身体のうちを蝕まれてもいたのだった。


 例えば――


 アデライードがまだ年端もゆかないころに、五つ歳の離れた兄の背後うしろについて笑い飛び跳ねるようにして歩いていた廊下は、ロランドの侵略時に於いては白兵戦が展開され、飛び交う怒号とおびただしい血の臭いでせ返っていた場所でもある。

 また、三番目の姉が十五のとき、西の隣国へ輿入れする日取りが決まったとして、近々きんきんの姿絵を贈るよう頼まれ絵師の前で美しく着飾って澄まし顔をしていた絢爛たる部屋は、落城して後、扉や壁や柱にあった金で出来た蔓や草花の装飾を全て剥がされ、天井から吊るされたクリスタルは姿を消し掠奪の限りを尽くされ見る影も無くなった。再建と改装を繰り返したのであろう今は、似たような意匠の扉と落ち着いた内装の部屋ばかりで、その部屋が何処にあったのかすら覚束ない。

 あるいは、花々が咲き誇る芳しい香りのする硝子の温室。そこは幼い甥や姪が、その小さなふっくらとした手を乳母に引かれ笑顔を見せていた頃と何ら変わらずにあったが、アデライードには未だ巨大な棺桶にしか見えなかった。

 何故なら、死ぬことの赦されないアデライードを除き、国内に居た王族は九族にまで至りロランドによって根絶やしにされ、男は斬首後の首を胸に抱えた身体を、女子供は首周りに紫色の痣が浮いた身体を、それらの大小様々なむくろが重なるように並べられていた場所であったからである。それは論なく降嫁した姉の腹の中にまで及び、腹を裂かれ取り出された息のない胎児までもが御丁寧に絹の紐で首括られ、姉の隣りに並べられていたものだった。


 全てはたった一人の男の、その手で以て。


 これまでぬるま湯に浸かっていた貴族に於いては、王族に対する残虐な行為を目の当たりにしたことへの恐怖に震撼し、大した抵抗もなくロランドの支配に下る。

 レイズ王国が滅亡するには然程さほどときを要することはなかった。

 しかしながら、ロランドの真意が何処にあったのかは分からない。


 というのもアデライードが心を動かし愛するに適うともくされる相手を、一人残らず殺したことの結果に過ぎないのかもしれないからである。

 アデライードの思い上がりなどではなく、ロランドを少しでも知る者ならば、その可能性に思い至らぬ者はいないだろう。



 過去と混在する今から目を背けることなくアデライードは、黄泉から這い出る数多あまたの罪なき亡者を引き摺りながら階段を上り下りし、廊下を進む。

 心の中で詫びながら歯を喰い縛り毅然と顔を上げ、背筋を伸ばす。

 曲がりなりにも王女であり、騎士であった矜持を貫く為に。

 矜持?

 アデライードに残されているのは、それだけだった。であるならばそれだけは決して奪われるようなことはさせないし、させるつもりもない。


「皆、好奇心を隠しきれないようだな」


 不意に思いを打ち切る声がした方を見上げれば、図らずもアデライードを見下ろすレオネルの灰色の瞳の視線とぶつかる。

 取り繕う暇もなく思い切り目を逸らした。

 じっとりと背中に汗が浮く。気を抜くと恐怖に取り込まれ、勝手に身体が震え始める。

 レオネルの纏う空気は、ロランドと確かに異なるものであったが、過去で良く見知った雰囲気とは違うことを受け入れられず、いつ豹変するかと怯え戸惑いさえするのは、未だに別人であると信じられぬほど、レオネルとロランドが似ているからだ。

 心の隙を気取られる訳には、いかない。


「……好奇心、とは?」

「新しい護衛騎士に、だ」


 確かに誰かと擦れ違う毎に、遠慮ない視線を向けられたりあるいは密かに盗み見されていることは、肌で感じていた。

 何よりも特に、レオネルの執務室がある四階は向けられる視線の数も多かったが、アデライードだけを注視するものでもなかった。

 

「見慣れない顔が歩いているのだから、仕方ない。それに気のせいでなければ、見られているのは私ばかりではないと思うが」

「ふうん……? では、アデルも俺のことを気に掛けてくれていたのだな」

「護衛騎士なのだとすれば当たり前だ」


 レオネルは切れ長の双眸に微かに笑みを浮かべ、アデライードの「これでも周囲には気をつけている」という声に不本意ではあるがと続けんばかりの苦々しい顔を見下ろした。

 その顔を見つめながら、好奇心が隠しきれないのは他でもない自分の方だ、と胸の中で呟くと自嘲気味に唇の端を上げる。

 アデライードの全てを暴きたかった。

 誰にも見せることの無い顔を、知りたいと思うのは初めてだった。

 分かっているのは自分の隣りを歩く、鋭い爪を隠し燦く瞳と美しい毛並みを持つ奇麗な獣のようなこの者が、レイズ王国の末の王女だったということだけだ。


を聞かせる気には、なったか?」

「……どうだろうな。何が、聞きたい?」

に居たのは、何故だ?」

「死ねぬ私に課せられた罰だ」

「課せられた? 罰? 罰を受けるべき罪人であったと?」

「罪人? 違うと言いたいが……まあ、そうなのだろうな。私の所為で死ななくて良い者が死に、国が滅んだようなものだ」

「……所為で? ならば直接には」

「直接手を下していないからといって、それに何の違いが? 国は滅び民は疲弊し、あらがうことも出来ず死んだ者が、そのような戯言を受け入れるとでも?」

「だが……最初からに居たわけでもないだろう」

「……ふっ。が地獄だったか、そなたには分かるまい。繰り返し凌辱される苦しみが分かるか? 身体を切り刻まれる痛みに、殺してくれと乞い願おうとも死ねぬ苦しみが分かるか? 暗闇の中、生きたまま鼠に喰われる悍ましさを知れば、どちらが地獄であるのか、そなたが教えてくれるとでも? 何処にいようとも地獄には変わりなければ、果てもない」


 ――建国王による繰り返される凌辱?


 レオネルは、アデライードの翳る横顔を見やった。

 二十代の若さで建国を果たす胆力、その傑出した頭脳に加え美丈夫なれば、望むものを手中に収めるのは容易いことであっただろう。それでも手に入れることが出来なかったのは、アデライードの心に他ならない。触れることは叶えども、決して己のものにならぬ気高く美しい女人。

 ならばせめて手の内に閉じ込め、その心を深く抉り傷をつけてでも己の存在を刻みつけんと血眼になっていたというのだろうか。

 建国王として後世に語り継がれる人が、たった一人の手には入れられぬ想い人に対し、そうまで狂うとは。

 恋、というには激し過ぎる。

 妄執に取り憑かれたようなそれは、最早、狂愛と呼ぶに相応しい。

 だが……。


「……死ねぬのは、何故だ?」


 落とされたのは、酷く静かな声だった。

 どちらからともなく立ち止まったが、アデライードはレオネルに背を向けたまま、振り返ることはなかった。

 少し離れてついて来ていたフィトもまた、その場で足を止めている。


「抗い難い感情が私を狂わせた。喪失の恐怖に耐えられなかった。愚かにも、諦めきれなかったのだ……その所為で、全てを失うことになった」

「どういう意味だ?」

「気にするな。分からないならば、良い」


 悪夢の始まりは、何処だったのだろうとアデライードは考えることがある。

 ロランドとまみえてしまったことだろうか。


 それとも――


















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