8話目 男装の騎士 ③


 それは一体どういう意味だと、問うことも出来なかった。


 アデライードの燦く黄金の虹彩の中にある散りばめられた赤い花弁に、抑えきれぬほどの煮え滾る血を見たエリアスは、そのまま目を逸らすことも叶わなければ、少しの身動みじろぎも許されず、実に不本意なことであるが、鷹の前の雀のように身体を竦めることしか出来なかったからである。


「……もう、よせ」


 静かなレオネルの声が割って入ったのを機に、部屋中に張り詰めていたエリアスとアデライードの緊張が解かれる。

 

「エリアス。用心して当然だろうことも分かるが、アデライードは目覚めたばかりだ。焦る必要は、ない。……それはそうと、喉が渇いた」


 精悍な美貌に悠揚な笑みを浮かべるとレオネルは、二人に背を向け寝室を出て続きの居間へと向かって歩く。

 居間の扉の傍に控えていた者が、茶の支度をするために部屋を後にするのを見るともなしに見ながらレオネルは「しかしそうだな。目覚めたとなれば、アデライードの着るものや侍女を用意する必要があるな」と呟いた。

 その呟きを、レオネルの後に続いていたエリアスは聞き逃さなかった。


「では殿下は、アデライード様をお側に置くということでよろしいでしょうか? 直ぐにでも侍女を見繕わねばなりませんが、然るべき家柄の口の固く信頼に足るものとなると、なかなかに難しいかもしれませんね。何しろだけの女人ですから」


 主君の意を汲んでいるようにも聞こえるが、レオネルがアデライードを城に連れ帰る際の言葉を用いたことを思えば、どう考えても当て擦りである。

 寝椅子に腰を下ろしたレオネルは、背中を預けゆっくりと脚を組むと、傍らで控えるエリアスを睨めつけた。


「……エリアス、何が言いたい?」

「城の中の、それも殿下の私室の近くに部屋を用意し、着る物を与え、侍女をつける。これがどういった意味を持つのか、知らないとは言わせません」


 先ほどのレオネルの言葉には、何の腹積もりもないのかもしれない。だが、この先のことは縹緲ひょうびょうとして分からないのもまた確かである。

 本人が未だ気づいていないにせよ、レオネルがアデライードに惹かれているのは、エリアスにとっては瞭然たる事実であった。

 だからこそエリアスは、わざと逆鱗に触れると知った上で口にしていたのだった。


「その方の名は?」


 いつまでも睨み合いを続けそうな二人の前の椅子に、後から来て腰を下ろしたアデライードは、肘置きに片肘を突くとエリアスに冷たい視線を送った。

 エリアスの言葉はまた、当然の如く、アデライードの逆鱗にも触れたのである。


「これは大変失礼致しました。エリアス・ボルケ・パディージャと申します」


 胸に手を当て、へりくだるというよりも慇懃無礼な態度でもって向き直ったエリアスに、アデライードは冷ややかな笑みを浮かべた。


「パディージャ卿……」


「どうぞエリアス、と」


「では、エリアス殿とやら。貴殿は森で拾われた私には、着飾って大人しくレオネル殿下の情けを待つしか使い途がないと言うのだな? なるほど……何をしたところで死ぬことも老いることもない私は、殿下の閨の相手に拾われたのであったか」


「失礼ながら、遥か昔の方であろうとなかろうとアデライード様は必竟、亡国の王女であることに変わりはありません。つまり貴女には、何もない。レオネル殿下の為に使えそうな地位や身分も、後ろ楯も。……使い途、ですか? 使うも何も、それどころか貴女は殿下のお情けにでも縋らなければ、お一人では生きてゆけないのでは? さらに言うなれば、貴女が不老不死だということが腹黒い貴族共に知られたら、その秘密を巡って厄介なことになり兼ねません」


「エリアス、口が過ぎる」


「そうでしょうか? アデライード様、殿下の何が気に入らないんです? 安穏とした生活が手に入るうえに、何も醜い狒々爺ヒヒジジィに抱かれる訳じゃないでしょうに」


「気に入らない? 何が? そうだな、エリアス殿には分かろう筈もないが、何もかも気に入ると思う方が不可解ではないか? 勝手に連れて来られたうえに、仕方がないから愛妾にしてやると? どれほど美しい男だろうと私にとっては、ロランドに似ているというだけで虫唾が走る。貴殿の言う、そこら辺の狒々爺の方が余程ましだ」


「その発言、レオネル殿下のみならず建国王までをも冒涜するもの。死をもって贖うほどの不敬罪に当たるとお分かりですよね? おや私としたことが、すっかり忘れていました。貴女は殺しても死なないのでしたね」


「……貴殿に、死ねぬ苦しみが分かるか? 分かる筈もない。それに不敬罪とは? 先に狒々爺とレオネル殿下を比べたのはエリアス殿、貴殿であるというのに?」


「二人とも、もうやめろ。エリアス、散々に狒々爺と比べられる俺の身にもなれ。アデライード、貴女の不老不死を知らしめるつもりはないし、寵姫や愛妾として扱うつもりは今のところは、ない」


 ……今のところは?

 慇懃な態度を崩さぬまま、エリアスは主君に向かって片方の眉を上げて見せたが、当のレオネルは、知らぬ振りを決め込んでいる。


「どうやらエリアス殿が私の使い途を考えつかぬようなので、ひとつ提言させて欲しい。私には剣がある。こう見えて、かつては騎士として仕えていたのだ。多少の腕の錆びつきはあるかもしれないが、この国の民の為に尽力致そう。何をそんなに奇怪に思う? この国の民の元を辿れば、遥か昔に私が命を賭して守った民と連なるのだ。子孫の為に尽くすことを惜しむ筈がない。私をこの城の騎士の末席に加えて欲しい」


「多少の? 二百三十年も錆びつかせておいて、ですか? まずは剣筋よりも、古風で尊大なその女人らしくない話し方を直されてから、殿下に甘えてみてはどうです?」


 懇願おねだりするなら閨の中でどうぞ、と重ねて仄めかすエリアスに、ぴくり、とアデライードの唇が動きまなじりが持ち上がる。


「悪いが、これが私だ。何しろ鎖に繋がられ二百年と三十年以上も変わることがなかった筋金入りのな。それゆえ、エリアス殿の方が諦めよ」


「見た目はともかくとして、貴女を敬うべく好きにさせろと? まさか。あのように塔に閉じ込められ、建国王との間に何があったのかも分からず、さらには不老不死でもある。貴女は忌まわしいことばかりが付き纏い、真実は何一つとして分からない。殿下に害を為すかもしれないことを思えば、自由気儘にさせる訳にはいかないのですよ。また何より、女人は騎士にはなれないのですから諦めるのはアデライード様です」


「ほほう? 貴殿は実に弁が立つのだな。私が自由に振る舞うのが不満であるならば、城の騎士はいっそ好都合ではないか? 充分にエリアス殿の目が届くであろう。私が女人であると気づかれなければ、良いだけではないか。さらに言うなら愛妾として囲う方が、一介の騎士よりも遥かに目につくと思うのだが?」


「その姿で? どう考えても無理だろう」


 言葉を拾い上げたレオネルがその切れ長の双眸に、しみじみとアデライードの陶器のように滑らかで白い肌、睫毛に縁取られた黄金の瞳、赤い唇、絹のように光沢のある長い髪と、夜着を持ち上げる確かな胸の膨らみの順でもって、映しながら首を傾げた。


「実に、殿下のおっしゃる通りです。顔の造りも然る事乍ら美しい絹のような髪と蠱惑的な肢体ですから、女人と気づかない者は余程の間抜けくらいのものでしょうね」


「顔ばかりは変えられぬが、胸は目立たぬようにさらしを巻く。髪など切ればよい」


 言うが早いかアデライードは音もなく立ち上がり、警戒を抱かせる暇もなくエリアスとの間合いを詰めるその瞬間、長い髪と柔らかな夜着が、ふうわりと空気を含んだ。

 その軽やかで優雅な一連の動作に思わず見惚れ、不意を突かれたエリアスが驚き、腰の後ろに仕込んであった短剣の空になった鞘に手を当てるのとアデライードが自身の長い髪を無造作に掴み、その抜き身でばっさりと断ったのは同時だった。

 瞬きをするほどの間に、腰の辺りまで長かった髪は、細い顎の下で無惨な様子で断ち切られる。


「惜しいな。斯様かようにも美しい髪を、随分と思い切ったことをするものだ」


 誰によって制する間もなく、俊敏で鮮やかな動きが齎した結果を見てレオネルが呆れた声を上げれば、アデライードは掴んでいた髪と短剣を無造作に床に放った。


「惜しい? 髪で良ければ、くれてやる。だが、私は決してそなたのものにはならない」


「良く分かった。ならばこうしよう。アデライードは男装して俺の護衛騎士になれば良い。敵は近くに置くべきだと思うエリアスにとっても、常に傍で監視出来る互いに都合丁度の話ではないか?」


「互いに? 帯剣を許し男装させて昼夜なく侍らせるとは、殿下にとっても、なかなかに刺激的で都合の良い話だと思うのは何故ですかね?」


 それでも三人が三様に――それぞれの思惑は別にしても――レオネルの言う事を受け入れることが収まり良く纏まると、分かってはいた。

 部屋に沈黙が満ちる。

 折よく陶器の触れる微かな音と芳しい香りで、茶の支度が整ったことを知らされたレオネルは、話はこれで決着がついたと言うように満足そうにひとつ頷くと、エリアスとアデライードに向け、唇の端を軽く持ち上げて見せたのだった。




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