7話目 男装の騎士 ②




 図書室をエリアスと共に後にしたレオネルは、そのまま東翼へ渡ると護衛騎士のフィトに下がるように言い渡した。


「また明日、お迎えにあがります」

「ああ、頼む」


 澄ました顔で一礼をし、踵を返したフィトの背後姿うしろすがたをレオネルの視線が追うのを見たエリアスは、本人に聞こえると分かっている位置で「使えそうですか?」と声に出して尋ねた。


「まだ分からないが、悪くない」

「赤毛の方は?」

「ダリオか……ははッ。あれは、大丈夫か? まあ、ちょっとした試薬になりそうではあるがな」


 傍に控えていた家令が、エリアスに小さく目配せしたのを横目に見ながら、レオネルは何食わぬ様子で、私室に向けて歩き出した。

 少し後ろを、エリアスが続く。

 階段を上り、三階のフロアに足を下ろした時、レオネルの背中に待ち望んでいたエリアスの声が掛かった。


「目覚めているそうですよ」

「……分かった。では、向かおう」


 そのことは、家令が目配せをした時に既に分かっていた。ただ、エリアスに言われなければ、知らぬ振りをしたままで、行くのをやめたかと聞かれたら、そのようなこともないだろう。

 それでもレオネルは、エリアスの口から聞きたかったのである。


 与えた部屋の両扉を侍従が開け放つのを待ち、レオネルはエリアスと共に中に入った。

 逸る気持ちを抑えつつ控えの間、居間を通り抜け寝室の奥まで進み、寝台の上に起き上がる小さな子供のように膝を抱えて蹲る姿が見えた途端、レオネルの足が止まった。動けなくなる。まるで、その場に縫い付けられたように。


 人の気配を感じたのだろう。

 月光を溶かした美しい絹のような髪が、さらと動き、ゆっくりと持ち上がる顔がレオネルに向けられた。伏せていた長い睫毛に柔らかな目蓋が、花弁のように開く。

 その瞬間、後から遅れて現れたエリアスが、初めて目にしたものを認め、ひゅっと息を呑む音が聞こえた。

 それは最早、枯れ枝のようだった姿とは、似ても似つかないものであった。


 指を滑らせ、その触り心地を確かめたくなる薄い陶器の如く透明な内側から光を帯びる白い肌、細い鼻梁、吸って噛みついて欲しいと誘って見える、ふっくらとした血色の良い唇。全体的に華奢で儚げな風情のある顔の造りとは、似合わない鮮烈すぎる燦きを持つ、黄金に赤い薔薇を散らしたような瞳。


 その瞳が、レオネルとエリアスを認めるや否や、すっと細められた。

 二人が、その場に固まったままであるのを見て、音も立てずに、しなやかな動きで寝台から降りる。

 身体の輪郭など分からない厚手の、被るだけの何の色気もない夜着だったが、ふっくらとした胸の形が、僅かに覗く素肌のその先を巡り想像を掻き立て、レオネルは思わず喉を鳴らした。

 

「……何を驚く? ほんの少し前まで屍のようだった私が、生きて動いているからか?」


 いつまでも聞いていたいと思うような、耳に心地よい声色だった。

 レオネルが驚いたことを本人に気づかれたとはいえ、まさかその理由が、まるで女を知ったばかりのように浅ましく布に隠されている裸体を想像した自分だったとは言えない。

 さりげなく咳払いをした後に、レオネルは「泣いているのかと思ったのだ」と言った。

 そう、寝台の上で膝を抱えて。

 自身を閉じ込めているように見えたのだ。

 あの黯く悍ましい塔から解放されたというのに。


「泣く……? 泣かねばならない理由が、どこにある?」

「分からない。ただ、そう思っただけだ」


 レオネルの素直なその言葉に、ふっと柔らかく笑った顔を見れば、何故か胸が締め付けられたように苦しくなる。


「しかし、私を塔から出した者がロランドに生き写しとは、実に皮肉なものだ。それにしても禁術にでも手を出し、蘇ったのかと思うほどに良く似ている……別人であるとは、なかなかに信じられぬものがあるな」


 ……また、だ。


 レオネルに向けられた射るような視線は、唾棄すべき卑劣な者を見る目。

 それはレオネルではなく、今は亡き建国王を重ねて見ているのだとしても、これまでに向けられてきた様々な類いの、どのような視線よりも堪えるものがあった。何故そのような目で俺を見るのだと、叫び、腕を掴み揺さぶりたくなるほど、これまで何も思うことのなかった建国王ロランドと良く似た姿形であることをレオネルは忌々しく感じるのだった。

 そのような目で見るなと叫ぶことも何も出来ず、それどころか悠然と部屋の中を歩き回る彼女の姿から只々レオネルは目を逸らすことが出来ない。

 

「……貴女の、名を知りたい」


 声が、上擦る。

 口の中が、乾く。

 それこそ女を知らない訳ではなかったが、目の前のような女は知らなかった。


 レオネルの良く知る女は、どれも似たようなものだ。

 粘りを帯びた高い声で、熟れた果実のように甘たるく匂う柔らかな肢体を強請るように擦り寄せ、レオネルを籠絡せんとばかりに誘いに掛けるくせに、とてくても籠絡するどころか実に呆気ないことに、容易くレオネルの手玉に取られてしまう。


 だが、この女は?


 毅然として美しい顔を上げ、黄金の瞳には強い色を湛え、ただ悠然とレオネルの前を歩いているだけに見える、この女。

 しかし、よく見れば実のところは闘う相手を見極めんとし、レオネルから間合いを取るために歩いているのだと分かる。剣士のようなその姿は、しなやかで奇麗な獣に似て、隙を見せることはない。

 それでも長い睫毛を伏せる一瞬に、隠されている儚さや弱さを、不意に窺わせることがあった。

 

 出来ることなら直ぐにでも間合いを無視して詰め寄り、その細い腕を無理矢理に掴み、腕の中に捉えて閉じ込め、あの黄金の瞳に自身を映し出させ、その奥を覗き込みたい。そこにあるのは、怯えだろうか怒りだろか、それとも……。

 自分の中の、黯い欲望が擡げる。

 優しく慰めてやりたいと思う気持ちとはまた別に、目の前の女を組み敷き、誰も見たことのない顔を見たいとかつえたことが、これほどまでにあっただろうか。


「名……? アデライードだ。私も知りたい。まず、そなたは誰だ? ロランドが死んでどの位経つ?」


 穏やかな声で、我に返った。

 レオネルは瞬きを繰り返しながら、返答を待つアデライードの顔を見返す。

 自分はいま、何を考えていた……?

 

「……レオネル・テオドア・アーモット・ボルイグレシア。ここ、ヴェネセティオ王国の第一王子だ。今は、建国王が身罷られてからおよそ二百三十年になる」


 室内を歩き回っていたアデライードの足が止まった。

 突然にどうしたのかと思うレオネルとエリアスから顔を逸らすと、暫くして細い肩が震え始める。

 今度こそ、無為に過ぎ去った長い年月を思い泣き出したのかとレオネルは、涙で濡れる頬を両手で挟み、その瞳を覗き込みたい欲望に駆られ、アデライードに向け手を伸ばし足を踏み出したとき――


「ふ……ふ、ふふッ……ふっ、く、クククッ、は、ははッ。はははッ……あはははッ」


 弾かれたようにして身体を折り、笑い出したアデライードを前にレオネルは困惑し、伸ばした手は力なく下された。


「……ふ、ふふッ。そうか……あれから、二百三十年にしかならないのか……それでも塔から出られるとは思ってもみなかった。だが、出られたところで……」


 アデライードが自身の両掌を見下ろし、やがて、ぎゅっと固く握りしめる。


「――建国王とは、どのような関係だったのですか?」


 その時、それまで黙っていたエリアスがおもむろに、口を開いた。

 というのも、目覚めたアデライードの姿に圧倒されてしまったのは、レオネルばかりではなかったのである。

 何とも口惜しいことにエリアスもまた、レオネルとは違う意味で目を離すことが出来なかったのだ。

 も言われぬ不安、漠然とした胸騒ぎとでもいうのだろうか。

 亡国の王女であろうとなかろうと、寵愛をほしいままに出来そうなほど類稀な美しさをもつ女人であるのに、建国王はアデライードをいつくしむどころか後世に何も残すまいと謀り、あまつさえ塔に幽閉……いや、監禁していたのは何故か。誰が何の為に、アデライードを不老不死にしたのか。

 彼女は、危うい。

 どう考えてもレオネルの首枷にしかならないように、エリアスは思えるのだった。


「それにしても一体どのような罪を犯せば、あのように塔に……」

「関係……? 罪……?」


 エリアスは考えに没頭するあまり、自身の放った言葉がアデライードの耳朶に触れた瞬間、部屋の空気が肌を刺すようなものに変わったことに気づくのが遅れた。

 はっとして顔を上げれば、剣呑な雰囲気に包まれたアデライードの視線とぶつかる。

 強い燦きを宿した黄金の瞳が、エリアスをひたと見据えていた。首筋に冷やりと薄い刃を当てられたかのように、嫌な汗が背中に滲む。

 やがて水を打ったように静まり返った部屋に、アデライードの声が響く。


は、簒奪者なだけだ。私にとっては、それ以上でもそれ以下でもない。そして罪は……罪があるというなら私が王女であったことと、に命を奪わせなかったことだろう」





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